第1部:資本の生産過程

第2篇:貨幣の資本への転化

第4章
貨幣の資本への転化

第1節
資本の一般的定式



単純な商品流通と資本を生成する流通とのちがい

この章では、いよいよ私たちの生活している社会、“資本主義社会”を特徴づける要素となる「資本」が登場する。マルクスは最初に、「資本」が登場するためには「商品生産」「商品流通」の発展が絶対必要条件だったことを述べている。そして、なによりも「資本」は、まず「貨幣」形態から発生するということを。

商品流通の素材的内容、すなわちさまざまな使用価値の交換を度外視して、この過程が生み出す経済的諸形態だけを考察するならば、われわれは、この過程の最後の産物として、貨幣を見いだす。商品流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である[161]

なぜ「貨幣」が「資本」に「転化」するのか――この章では、マルクスはその歴史的過程そのものを研究するのではなく、その歴史的過程に裏づけられている、論理的必然性を、貨幣を媒介とした流通形態の転換から、立証しようとしている。ここでマルクスがまず最初に提起しているのは、

貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたり、それらの流通形態の相違によってのみ区別される[161]

という問題だ。

商品流通の直接的形態は、W―G―W、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。しかし、この形態のほかにわれわれは、それとは独特に区別される第二の形態G―W―G、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。このあとのほうの流通を描いて運動する貨幣が、資本に転化し、資本に生成するのであって、その性質規定から見てすでに資本である[162]

まずマルクスは、G―W―Gという流通形態について、それが、もう一つの形態と決定的に区別される点を指摘している。G―W―Gとは、「貨幣で商品を買いその商品で貨幣を買う」という運動であり、その結果だけをみれば、貨幣と貨幣とを交換する、ということである。だれしもわざわざ手間ひまを使って、同じ価値をもつ貨幣量どうしを交換しはしない。この運動では必ず、まずはじめに商品を買うために流通市場に投げ込まれる貨幣価値よりも、その買われた商品をさらにふたたび市場に投げ入れることで新たに流通市場から引き上げられる貨幣価値のほうが大きい、ということが期待されているのであり、実際、そういう運動が行なわれているのである。したがって、循環G―W―Gは、循環W―G―Wの一環とは、明確に区別して考察されるべき循環運動なのである。

いずれにしても彼の貨幣は、単純な商品流通での運動、たとえば、穀物を売りそれで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の異なる、一つの独自で特色ある運動を描いたのである。したがって、まず、循環G―W―GおよびW―G―Wとの形態上の区別の特徴を明らかにすることが重要である。この特徴を明らかにすれば、同時に、これらの形態上の区別の背後に隠れている内容上の区別も明らかになるであろう[162]

二つの形態の共通点――四つの終点と三人の契約当事者

どちらの循環も、同じ二つの相対立する局面、すなわちW―G、販売と、G―W、購買とに分かれる。この両局面のどちらにおいても、商品と貨幣という同じ二つの物的要素が相対しており、買い手と売り手という二人の同じ経済的扮装をした人物が相対している。そして、どちらの場合にも、この統一は三人の契約当事者の登場によって媒介されていて、そのうちの一人は売るだけであり、もう一人は買うだけであるが、第三の人は交互に買ったり売ったりする[163]

運動主体のちがい――貨幣の還流

とはいえ、両方の循環W―G―WとG―W―Gとをもともと区別するのは、同じ対立する二つの流通局面の順序が逆なことである。単純な商品流通は、販売で始まって購買で終わり、資本としての貨幣の流通は、購買で始まって販売で終わる。まえの場合には商品が、あとの場合には貨幣が、運動の出発点と終点をなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全経過を媒介する[163]

循環「商品―貨幣―商品」の運動主体は「商品」であり、あくまで「買うために売る」、つまり最後には役立つ使用価値を得るために貨幣が支出される循環運動である。これにたいして、循環「貨幣―商品―貨幣」の運動主体は「貨幣」である。そして「売るために買う」――つまりさきほど指摘されていたように、

彼が貨幣を手放すのは、ふたたびそれを手に入れようという、ずるい下心があってのことにほかならない。それゆえ、貨幣は前貸しされるにすぎない[163]

また、循環「商品―貨幣―商品」では、この運動を媒介するのは「貨幣」である。この循環運動では、

同じ貨幣片が二度その場所を換える。売り手は、買い手から貨幣を受け取って、もう一人の別の売り手にそれを支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を引き渡すことで終わる[163]

これにたいして、循環「貨幣―商品―貨幣」では、この運動を媒介するのは「商品」である。

この場合に二度場所を換えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。買い手は、売り手から商品を受け取って、それをもう一人の別の買い手に引き渡す……同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである[163]

循環運動の主体のちがいは、その運動の目的のちがいを現わしている。循環「商品―貨幣―商品」が、消費の充足、ことなる使用価値を得ることを目的とする運動であるのにたいして、循環「貨幣―商品―貨幣」という運動の目的は、貨幣という「直接交換可能性」の表象、交換価値そのものだ。

循環運動G―W―Gの完全な姿

循環「商品―貨幣―商品」の両極は質の異なる使用価値である。一方、循環「貨幣―商品―貨幣」の両極は、「使用価値」のちがいがとりのぞかれている形態であって、両極を区別するのはそれらの「質」のちがいではなく、「貨幣額の大きさ」という「量」のちがいである。初めに流通に投げ込まれた貨幣額よりも、最後にふたたび引き上げられる貨幣額の方が大きいから、

この過程の完全な形態は、G―W―G'であり、このG'は、G+ΔGすなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラスある増加分、に等しい。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と名づける。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかで自己を維持するだけでなく、流通のなかでその価値の大きさを変え、ある剰余価値をつけ加える。すなわち自己を増殖する。そして、この運動が、それを資本に転化させるのである[165]

循環運動G―W―Gには終わりがない

買うための販売の反復または更新は、この過程そのものと同じく、この過程の外にある究極目的、消費に、すなわち特定の諸欲求の充足に、その限度と目標とを見いだす。これに反して、販売のための購買では、始まりも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、そしてすでにそのことによって、その運動は無限である[166]

マルクスは注(6)のなかで、すでにアリストテレスが「貨殖術」の無限性について言及していることを紹介している。

貨殖術が追求する富にもまた限界はない。すなわち、ただ目的のための手段を追求するだけの術は、目的そのものが手段に限界を設けるので、限界がないということはないが、これにたいして、その目標が手段としてではなく最終の究極目的として意義をもつ術はすべて、その目標に絶えず近づこうとするがゆえに、その追求には限界がない。それと同様に、この貨殖術にとってもその目標に限界はないのであって、その目標は絶対的な富である【アリストテレス『政治学』、ベッカー編、第1巻、第9章】[167]

仮に、1億円が、循環運動「貨幣―商品―貨幣」により、1億1千万円になったとしよう。このさき、1億1千万円が、ある商品を購入し、消費を充足するために支出されれば、そこで循環は途切れてしまう。むしろ、循環運動「商品―貨幣―商品」の環の一つとして、貨幣の役割は終結する。また、このさき、1億1千万円が、そのまま流通から引き上げられたままであれば、それは蓄蔵貨幣となって、増殖することはない。しかし、1億円も1億1千万円も、

ひとたび価値の増殖なるものが問題となれば、増殖の欲求は……同じである。というのは、両者ともに交換価値の限定された表現であり、したがって両者ともに、大きさの増大によって富自体に近づくという同じ使命をもつからである[166]

1億1千万円は、もとの1億円とくらべれば、たしかに1億円+剰余価値1千万円というふうに分析できるけれども、形態としては、ある量的に限定された貨幣額であることにはちがいない。

運動の終わりには、貨幣がふたたび運動の始まりとして出てくる[166]

単純な商品流通――購買のための販売――は、流通の外にある究極目的、すなわち使用価値の取得、欲求の充足、のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣の流通は自己目的である。というのは、価値の増殖は、この絶えず更新される運動の内部にのみ実存するからである。それゆえ、資本の運動には際限がない[167]

人格化された資本――資本家

循環運動「貨幣―商品―貨幣」の運動主体は「貨幣」であり、この循環にはいるやいなや「資本」として機能する。この「貨幣」の運動は「貨幣」を所有する人物の、価値の増殖という目的意識を推進力としている。この「貨幣所有者」は、その瞬間から「資本家」となる。彼のポケットこそが、貨幣の還流の起点であり終点である。

彼を「資本家」たらしめているのは、彼が多くの商品所有者であるからでもなく、彼が、ある瞬間瞬間で、多くの利得を得ているということでもない。

利得することの休みのない運動のみが資本家の直接的目的[168]

なのであり、

ただ抽象的富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の推進的動機である限りでのみ、彼は資本家として、または人格化された――意志と意識とを与えられた――資本として、機能する[168]

絶対的な致富衝動、この熱情的な価値の追求は、資本家と貨幣蓄蔵者とに共通であるが、しかし、貨幣蓄蔵者は狂気の沙汰の資本家でしかないのに、資本家は合理的な貨幣蓄蔵者である。価値の休みのない増殖――貨幣蓄蔵者は、貨幣を流通から救い出そうとすることによってこのことを追求するのであるが、より賢明な資本家は、貨幣を絶えず繰り返し流通にゆだねることによってこのことを達成する[168]

「商品形態をとることなしに貨幣が資本になることはない」

流通「商品―貨幣―商品」では、商品の価値は貨幣形態として商品交換を媒介する。そして、この循環運動の最終結果の段階には、商品価値は、貨幣形態から商品そのものに解消する。

流通「貨幣―商品―貨幣」では、この循環運動を媒介している商品は、

価値の特殊ないわばただ仮装しただけの実存様式として――機能するにすぎない[168]

また、貨幣形態は、価値の「一般的実存形態」として機能しており、

価値は、この運動のなかで失われることなく、絶えず一つの形態から別の形態へ移っていき、こうして一つの自動的な主体に転化する[169]

貨幣そのものは、ここでは価値の一つの形態として通用するだけである。というのは、価値は二つの形態をもつからである。商品形態をとることなしには、貨幣が資本になることはない。したがって、貨幣はこの場合には、蓄蔵貨幣形成の場合のように商品にたいして敵対的に登場することはない[169]

単純な流通においては、商品の価値は、その使用価値に相対してせいぜい貨幣という自立的形態を受け取るにすぎないが、この場合はその価値が突然に、過程を進みつつある、みずから運動しつつある実体として現われるのであって、この実体にとっては、商品および貨幣は二つの単なる形態にすぎない[169]

価値みずからが絶えない循環運動を始める

価値はいまや、商品関係を表す代わりに、いわば自己自身にたいする私的な関係にはいり込む[169]

マルクスは、価値の自己増殖循環の運動もようを、日本人にとっては至極難解な例でもって、解説している。

父なる神としての自己を、子なる神としての自己自身から区別するのであるが、父も子もともに同じ年齢であり、しかも、実はただ一個の人格でしかない[169]

これはキリスト教、なかでもローマ・カソリックの教義の中心である、神と子(イエス・キリスト)と聖霊とは「三位一体」である、という教義を例にとってあるものだと思われる。

いずれにしろ、ここでは、原価値と剰余価値との関係について、語られているわけだ。ここでは、原価値=「父」、剰余価値=「子」である。「父」という存在は「子」という存在があってはじめて相対的に「父」と認識される。「子」という存在の認識についても同様である。「子」ができてはじめて“彼”は「父」となるから、「父」となったときからの時間と「子」の年齢とが同一であるのは当然である。しかし、「子」が誕生した、その瞬間に、「父」と「子」の両者は同一の価値形態として生まれ出るから、「ただ一個の人格」として認識される、というわけである。

ローマ・カソリックで言う「三位一体」説は、どのような論理構成でもって、説明されているのであろうか。イエス・キリストが“父”と呼んだ“神”は、イエス・キリストとの相対性のうちに認識される。しかし、イエス・キリスト自身が「子なる神」であるならば、その相対性と、「神は唯一絶対の存在である」という教義との統一は、どのようになされるのか。さらには、マリアにイエスの受胎を告知するときに登場し、ほかにもさまざまな場面で登場してきた聖霊と「唯一絶対の存在である神」との統一は、なおのこと、どのようになされたのか。さきのマルクスの例示と異なり、唯一絶対の神の存在は、イエスがマリアから生まれいずるより数千年の昔から信じられてきたのであって、この場合、「父」と「子」の年齢のちがいは画然としている。「父」はたしかに「子」よりも以前から存在を信じられていた。また、聖霊が「神」にたいして「御使い」であると自らの存在を相対化している例があることとの整合性は? マルクスが例示として「三位一体」説を“ユニーク”をもって用いているとはいえ、「神(ヤーヴェ)」と「イエス」と「聖霊」とが「唯一絶対の存在として統一されうる」というこの教義は、私にはどうしても理解不能である。この「統一」は、ただただ“信仰”によってのみなしうるものであろう。閑話休題。

価値は、流通から出てきてふたたび流通にはいり込み、流通のなかで自己を維持しかつ幾倍にもし、増大して流通からもどってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返し新たに始めるのである。G―G'、貨幣を生む貨幣――money which begets money――これが、資本の最初の代弁者である重商主義者たちの語った資本の記述である[170]

流通部面に現われる資本の一般的定式――G―W―G'

商業資本、産業資本、利子生み資本など、資本の生産過程のさまざまな実際についての考察は、のちの章で行なわれるだろう。ここでは、マルクスは、いずれにしろ、とくに商業資本、産業資本などについて、

購買と販売との合間に流通部面の外部で行なわれるであろう諸行為は、この運動の形態をいささかも変えはしない[170]

ということを指摘し、事実上、この定式は、流通部面における一般的定式としてあてはまるということを断言している。



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