第1部:資本の生産過程
第1篇:商品と貨幣
第3章:貨幣または商品流通
歴史上、貨幣商品として独占的地位を獲得したのが金だった。ここでは、今日一般的に使用されている不換紙幣などの銀行券や小切手や手形などは直接には扱われない。それはのちの章で分析されることになるはずだ。
マルクスが存命中には、不換紙幣が登場することはなかったので、『資本論』のなかでも、不換紙幣についての叙述はない。紙幣が金と交換される保証のあった「金本位制」は、第一次大戦後崩壊した。
貨幣商品である金の第一の機能は、価値の尺度としての機能だ。
金の第一の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、すなわち、諸商品価値を、質的に等しく量的に比較可能な同名の大きさとして表すことにある[109]
注意すべきことは、貨幣が商品交換を可能にしているのだ、ということではない、ということだ。これまでみてきたように、貨幣商品も、あくまで商品の一つであって、そもそも、すべての商品が、人間的労働によって生産されたものであること、つまり「対象化された人間的労働」であって、この人間的労働自体が時間という単位で計られるということこそが、すべての商品を同じ単位で量りあうことを可能にしているのである。そして、長々しい商品交換の歴史過程を通じて、すべての商品の価値が独特な一つの商品ではかられるまでに到達し、この独自の商品を貨幣としたのである。商品交換の過程が貨幣を生み出したのである。
価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的価値尺度である労働時間の必然的現象形態である[109]
マルクスが第1節の注(50)で提起した問題は、「価値尺度としての貨幣」の理解をふかめる上で、たいへん参考になる。ここで私は、第1章第3節のAの2のb「相対的価値形態の量的規定性」の部分を思い出した。くり返しの引用になるけれども、この文章のさいごにマルクスが述べた部分をふたたび引用する。
価値の大きさの現実的変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にも余すところなしにも反映されはしない[69]
商品の価値の大きさの尺度は労働時間という同じ単位であっても、その商品価値は交換過程を通じて相対的に表現される。その相対的に表わされる価値の大きさは、その内実の価値の現実の大きさと必ずしも一致するわけではないのである。
なぜ貨幣は労働時間そのものを直接に表現しないのかという問題は、きわめて単純に、なぜ商品生産の基礎上では労働生産物は自己を商品として表さなければならないのかという問題に帰着する。というのは、自己を商品として表わすということは、商品と貨幣商品とへの商品の二重化を含んでいるからである。あるいは、なぜ私的労働は、直接に社会的な労働として、私的労働の反対物として、取り扱われえないのかという問題に帰着する[109]
商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同じように、手でつかめるその実在的な物体形態から区別された、したがって単に観念的な、または表象されただけの形態である[110]
ここで言われている「観念的な」とは、どういう意味なのか。
鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに実存する。これらの価値は、それらの物の金との同等性によって、それらの物のいわば頭のなかにだけ現われる金との関連によって、表象される[110]
商品の価値は、相対的にしか、他の商品の使用価値体そのものによってしか表現されない。このことはすでに前の章で明らかにされた。価値はたしかに実存するが、その商品そのものだけでは目に見えない。商品の価値は、第2章で明らかになったように、交換過程を通じてのみ表象され、ついには貨幣形態を獲得する。そして、金という特定の商品が貨幣形態としての地位を独占する段階では、商品価値は、実存する金という貨幣材料の一定分量を頭の中に思い浮かべて、それと関連されて表わされるようになる。すなわち「価格」として。商品所有者は、彼がもっている商品の価値に見合うだけの貨幣商品、たとえば金を、その商品の横にならべて「これだけの価値をもっているんですよ」とわざわざしめさなくてもよいのである。商品所有者は、彼がもっている商品に、貨幣商品の一定分量を表わした数字と単位を書きしるした値札をつけさえすれば、それで十分、彼の商品の価値を社会的にしめすことができるのである。
価値尺度機能のためには、ただ表象されただけの貨幣が役立つとはいえ、価格はまったく実在的な貨幣材料に依存している。たとえば、1トンの鉄に含まれる価値、すなわち人間的労働の一定分量が、等しい量の労働を含む貨幣商品の表象された一定分量によって表現される。したがって、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って、同じ1トンの鉄の価値はまったく異なる価値表現を受け取るのであり、言い換えれば、金、銀、銅のまったく異なる量によって表象されるのである[111]
たとえば、マルクスがイギリス貨幣制度の歴史を例に指摘しているように、金と銀という2種類の貴金属が貨幣として同時に価値尺度として機能している場合は、すべての商品は、金による価格表現と銀による価格表現との二通りの価格表現をもつことになる。しかし、このことは、注(53)で指摘されているとおり、金価格と銀価格との比率がいつも同じであるということを意味するものではない。
価値尺度の二重化はその機能と矛盾するということが、事実によって証明される[111]
法律上2つの商品に価値尺度機能が与えられている場合には、事実上つねに一つの商品だけが価値尺度の地位を占める[111]
諸商品価値は、さまざまな大きさの表象された金分量に、したがって、商品体の錯綜した多様性にもかかわらず、金の大きさという同名の大きさに転化される。諸商品価値は、このようなさまざまな金分量として相互に比較され、はかられ合う。そこで、諸商品価値を、その度量単位としてのある固定された分量の金に関連づける必要が技術的に生じてくる。この度量単位そのものは、さらに可除部分に分割されることによって度量基準に発展させられる[112]
すべての金属流通では、重量の度量基準の既存の呼称がまた貨幣の度量基準または価格の度量基準の最初の呼称をなしている[112]
貨幣は、価値の尺度として、また価格の度量基準として、2つのまったく異なる機能を果たす。貨幣が価値の尺度であるのは、人間的労働の社会的化身としてであり、価格の度量基準であるのは、確定された金属重量としてである。貨幣は、価値尺度としては、多種多様な商品の価値を価格に、すなわち表象された金分量に転化することに役立ち、価格の度量基準としては、この金分量をはかる[113]
一商品の価値を他のなんらかの商品の使用価値で表わす場合と同じように、諸商品を金で評価する場合にも、そこで前提されることは、ただ、与えられた時点で一定の金分量を生産するには一定分量の労働が必要であるというだけである。商品価格の運動にかんしては、一般に、すでに展開された簡単な相対的価値表現の諸法則があてはまる。
商品価格が全般的に上昇しうるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が上がる場合だけ、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が下がる場合だけである。逆に、商品価格が全般的に低下しうるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が下がる場合だけ、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が上がる場合だけである[114]
さて、貨幣の名称は、最初のその材料となる貴金属の重量をしめす名称からしだいにズレてくる。ここでは、マルクスはその歴史的要因を3つあげている。
こうした歴史的過程は、金属重量での貨幣名とその慣習的重量名との分離を世の習わしにする。貨幣の度量基準は、一方では純粋に慣習的であり、他方では一般妥当性を要求するので、最終的には法律によって規制される。……一定の金属重量が金属貨幣の度量基準であることに変わりはない。変えられたのは、分割と命名だけである[115]
1匁とは一文銭(約3.75グラム)1個の重さであり、「もんめ」とは「文目」のことだと考えられます(目とは目方、目減りなど量を意味する語)。また1貫とは一文銭1,000個の重さです。一文銭は唐の通貨である開元通宝をモデルとしています。日本は当時の先進国である中国から多くの通貨を輸入して使用したので、通貨が重さを測る単位となり、価格名から逆に重量名が生まれるというようなことが起こりました。
自国で貨幣を生み出したイギリスでは、……価格名のポンドは重量名のポンドから生まれましたが、後進国であった日本では、この関係が逆転しているわけです。もっとも、1両小判の「両」はもとは重さの単位であり、10匁のことでしたから、この場合は、日本でも重量名から価格名が生まれています [川上則道氏著『「資本論」の教室』:64-65ページ]
商品の価値の大きさは、社会的労働時間にたいする、一つの必然的な、この商品の形成過程に内在する関係を表現する。価値の大きさの価格への転化とともに、この必然的な関係は、一商品とその商品の外部に実存する貨幣商品との交換比率として現われる。しかし、この交換比率においては、商品の価値の大きさが表現されうるのと同じように、与えられた事情のもとでその商品が譲渡されるさいの価値の大きさ以上または以下の大きさも表現されうる。したがって、価格と価値の大きさとの量的不一致の可能性、または価値の大きさから価格が背離する可能性は、価格形態そのもののうちにある。このことは、価格形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、価格形態を、一つの生産様式に――規律が盲目的に作用する無規律性の平均法則としてのみ自己を貫徹しうる一つの生産様式に――適切な形態にするのである[117]
価格形態は、価値の大きさと価格との、すなわち価値の大きさとそれ自身の貨幣表現との量的不一致の可能性を許すばかりでなく、一つの質的な矛盾――貨幣は諸商品の価値形態にほかならないにもかかわらず、価格がそもそも価値表現であることをやめるにいたるほどの矛盾――をも宿しうる。それ自体としては商品でないもろもろの物、たとえば良心、名誉などが、その所有者によって貨幣で売られる物となり、こうしてその価格を通して商品形態を受け取ることがありうる。だから、ある物は、価値をもつことなしに、形式的に価格をもつことがありうる。価格表現は、ここでは、数学上のある種の大きさと同じように想像的なものとなる。他方、想像的な価格形態、たとえば、なんの人間的労働もそれに対象化されていないためになんの価値ももたない未耕地の価格のようなものも、ある現実の価値関係、またはそれから派生した関連を潜ませていることがありうる[117]
しかし、マルクスはこの節のさいごに、再度こう強調している
価格形態は、貨幣と引き換えに商品を譲渡する可能性と譲渡する必然性とを含んでいる。他方、金が観念的価値尺度として機能するのは、金がすでに交換過程において貨幣商品として動き回っているからにほかならない。だから観念的な価値尺度のうちには、硬い貨幣が待ちかまえている[118]