第1部:資本の生産過程

第1篇:商品と貨幣

第1章:商品

第4節
商品の物神的性格とその秘密



商品の物神的性格

商品交換の社会で、この形態を自明のもの、当然のものと見ているうちは、なんの不思議もないけれども、いったん、なぜ、そもそもちがう尺度で量られるべき異なる物が、一定の比率で交換されうるのか、という観点にたって、分析してゆくと、なんと転倒した、やっかいな関連をふくむ代物であったか。

しかし、よくよく冷静に考えをすすめれば、商品が使用価値であって、それがもっているさまざまな性質によって人間のさまざまな欲求を満たすという側面や、人間の労働力が支出されてつくりだされた生産物が使用価値としてのさまざまな有用性をもつのだという側面も、ミステリアスなものは何もない、自明なものだ。つまり、太古の昔から、人間は、労働によって自然のさまざまな素材でもって、人間にとっての有用物という形態に変えてきたし、それらの有用物は、目に見え、つかみ取られ、感覚的にとらえられるものである。そして、それらの有用物が、商品として交換関係をむすぶと、感性でとらえられない、価値という共通の属性によって、一定比率の分量でもって交換されることになる。

したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるものでもない。[85]

では、労働生産物が商品形態をとるやいなや生じる労働生産物の謎的性格は、どこから来るのか? 明らかに、この形態そのものからである。[86]

人間的労働は、人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの使用によるものであるという意味で、どんな労働も同等である。生産物は、その同等性をもつ労働によってつくりだされている限りにおいて、どれも価値であるという同等性を受け取ることになる。この人間的労働の量、労働力の支出される継続時間の一定量が、その労働によってつくりだされる生産物の価値に一定の大きさを反映する。そして、その生産物の交換、流通の発展は、おのおのの生産者たちが、その社会の内部で、互いのために労働し生産するという一定の様式を生み出す。生産者たちの、その社会のなかでの関係が、彼らの労働によってつくりだされる生産物の、その社会的関係に反映する。

商品生産者たちの、社会的関係が、彼らの生産物の社会的関係に反映されるとき、まさに、反映された社会的関係を、その生産物自身がもともとそなえていた属性であるかのように、認識してしまう。この転倒が、商品形態のミステリアスなのである。

労働生産物の商品形態およびこの形態が自己を表わすところの労働生産物の価値関係は、労働生産物の物理的性質およびそれから生じる物的諸関係とは絶対になんのかかわりもない。ここで人間にとって物と物との関係という幻影的形態をとるのは、人間そのものの一定の社会的関係にほかならない。だから、類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻境に逃げ込まなければならない。ここでは、人間の頭脳の産物が、それ自身の生命を与えられて、相互のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ自立的姿態のように見える。商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は物神崇拝と名づけるが、それは、労働生産物が商品として生産されるやいなや労働生産物に付着し、それゆえ、商品生産と不可分なものである。[86-87]

だから、商品の物神的性格は、その商品を生産する労働がもつ社会的性格から生じる。なぜ、生産物が商品になるかと言えば、その生産物が、その社会の内部で互いに独立に営まれる、まったく私的な労働の生産物であるからにほかならない。この私的なさまざまな労働の全体が、その社会の総労働であるが、おのおのの生産者たちは、彼らのつくりだした生産物を交換することによって、はじめて社会的につながりをもつ。だから、彼らのおのおのの私的労働が、総体として社会的分業をなしているという、独特の性格も、この交換関係のなかではじめて現われる。

だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関連は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現われるのである。[87]

商品の物神的性格が生まれる必然性

生産物は、それらが交換される関係のなかではじめて、それらが互いに異なる有用性をもっているというだけでなく、社会的に等しく比べあうことのできる価値をもつ物であるということを明らかにする。有用物であるということと価値をもつ物であるということ――労働生産物のこの二面性が実際に現われるのは、生産物の交換関係が発展し、十分な広がりと重要性をもち、生産物が、交換されることを前提に生産されるまでになったときである。

この瞬間から、生産者たちのおのおのの労働は、社会の要求を満たすための一定の有用物を生み出す労働であると同時に、その社会の労働全体の分業の一部分という条件を満たさなければならなくなる。また、この瞬間から、生産者たちのおのおのの労働は、その具体性も有用性もちがうそれぞれの労働による生産物が、ちゃんと同等に量りあわれ、交換されうるものとして通用するのだという前提のもとに、行なわれることになる。

おのおのの生産者たちは、実際の交易によって、有用性もそれが生み出された具体性も異なる生産物が、価値の大きさの割合でもってある一定比率で交換されるということを体験する。そのことで、おのおのの生産者たちは、自分たちの生産物をつくりだした労働の、これら二重の社会的性格を実感することになる。

したがって、人間が彼らの労働生産物を価値として互いに関連させるのは、これらの物が彼らにとって一様な人間的労働の単なる物的外皮として通用するからではない。逆である。彼らは、彼らの種類を異にする生産物を交換において価値として互いに等置し合うことによって、彼らのさまざまに異なる労働を人間的労働として互いに等置するのである。彼はそれを知ってはいないけれども、それを行なう。[88]

労働生産物は、それが価値である限り、その生産に支出された人間的労働の単なる物的表現にすぎないという後代の科学的発見は、人類の発達史において一時代を画するものではあるが、労働の社会的性格の対象的外観を決して払いのけはしない。商品生産というこの特殊的生産形態だけにあてはまること、すなわち、互いに独立した私的諸労働の独特な社会的性格は、人間的労働としてのそれらの同等性にあり、かつ、この社会的性格が労働生産物の価値性格という形態をとるのだということが、商品生産の諸関係にとらわれている人々にとっては、あの発見のまえにもあとにも、究極的なものとして現われるのであり、ちょうど、空気がその諸元素に科学的に分解されても、空気形態は一つの物理的物体形態として存続するのと同じである。[88]

商品生産者たちの関心は、生産物が交換されるその割合の大きさであるが、その割合を規定する、労働生産物の価値の大きさは、商品生産者たちの意志や憶測ややりくりにかかわらず、絶えず変動する。そして、商品生産者たちの生産物の交換という社会的運動が、商品生産者たちにとっては、生産物自身の運動という姿をとる。だから、商品生産者たちは、この運動を制御するのではなく、逆に、この運動によって強制されることになる。

個々の商品生産者たちの労働は、その総体が社会的労働であり、個々の商品生産者たちの労働は、交換関係を通して、その社会的総労働の分業の部分としてそれぞれ機能するのであった。この交換関係のなかで、その交換の比率が社会的に一定の基準に落ち着くのは、交換される商品の生産のために社会的に必要な労働量が、その交換比率を規制するからである。商品生産者たちの労働が、私的に、個別に行なわれるので、この規制的法則は、彼らの商品交換の運動の全体を通して、さまざまな悲喜劇をともないながら自己を貫徹せざるをえない。

この、ある意味無慈悲な、強力的法則が発見されるのは、完全に発展した商品生産様式の存在が前提となる。そのときまでは、労働時間が価値の大きさを規定するのだという事実は、交換比率として現われる価値形態の背後に隠されている。いったん、この隠されていた事実が明らかになれば、労働生産物の価値の大きさは偶然的に規定されるものではないということが、はっきりする。しかし、だからといって、交換比率として現われる価値形態そのものがなくなるわけでは、決してない。

労働生産物が商品であり、その交換、流通によって成り立っている社会では、この価値形態が、歴史的なものでなく、不変な、自然なものとして、人々の眼前に存在している。だから、この社会についての科学的分析は、まず、商品価格の分析からはじまるのであり、それが価値の大きさが人間労働の分量によって規定されるという分析結果をもたらした。そして、貨幣として表現されている商品についての分析は、商品の価値が社会的に規定されるものであるという分析結果をもたらした。

ところが、貨幣形態という、商品交換の発展の完成形態が、まさに、この商品社会のさまざまな私的労働が社会的に結びついている姿を、かえって覆い隠し、この貨幣形態という商品の一形態そのものが、商品と商品とを結びつけているかのように見せるのである。

この種の諸形態こそが、まさにブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしている。それらは、商品生産というこの歴史的に規定された社会的生産様式の生産諸関係にたいする、社会的に妥当な、したがって客観的な、思考諸形態なのである。それゆえ、商品生産の基礎上で労働生産物を霧に包む商品世界のいっさいの神秘化、いっさいの魔法妖術は、われわれが別の生産諸形態のところに逃げ込むやいなや、ただちに消えうせる。[90]

『ロビンソン・クルーソー』に描かれた「社会」

マルクスはここで、まずはじめに、当時よく引き合いに出されていた『ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)』を例にあげて、商品交換のない世界の、初期の、きわめて抽象的な姿をしめしている。

ノートしたあと、本文を読み返して、ロビンソン・クルーソーの話を思い返してみて、この「初期の」姿というのは余計な言葉だったと思う。これはけっして人類の初期の姿ではない。その一般化でもない。むしろ、人間労働の一般化とでもいったほうがよかった。人間は、その属種の誕生から社会的な存在であって、たった独りでの労働というのは、人間的労働の実際の姿ではない。

無人島に漂着したロビンソンは、まずなによりも彼自身の生命を保持するために、そして、彼が生活してきた文化水準をできる範囲で維持しようとするために、道具をつくり、家具をつくり、島の野生の動物を飼いならし、魚をとり、狩りをする。これらのさまざまな有用的労働は、なにをつくりだすかという機能は異なってはいるが、同じロビンソンという人間の労働であって、その活動形態が異なっているにすぎない。彼は、その労働の重要性に応じて優先順位をつけ、それぞれの労働の時間をうまく配分していかなくてはならない。その加減は、さまざまな試行錯誤によって、彼自身が覚ってゆく。ここには、これまで見てきた価値規定の本質が、すでに含まれているのである。

中世のヨーロッパ社会

ついでマルクスが描くのは、ヨーロッパ中世の社会である。ここでは、なによりも、身分制度によって、だれもが互いに依存関係にある。たとえば、農奴と領主、臣下と君主、俗人と聖職者などのように。これらの依存関係が、社会の生産関係や生活を規定している。この社会では、人間の労働も、それによる生産物も、賦役や貢納という、身分的人格的依存関係に対応したかたちで、社会のなかに関連してゆく。私たちの社会のような商品生産社会では労働の一般性が労働の社会的な形態となるが、この社会では、まさに労働の具体的有用的特殊性が、労働の社会的形態となっている。

賦役労働も、商品を生産する労働のように労働力が支出された時間の分量によって量られるが、賦役労働を行なう当の農奴たちは、自分たちの労働の一定分量を領主に賦役として支出していることを重々承知している。カトリック教会におさめるべき貢納(たとえば「十分の一税」)にしても、信者たちの生産物の一定分量であることを彼ら自身承知の上である。ここでは、彼らの労働による人と人との社会的関係が、いつでも彼ら自身の関係として直接現われ、物と物との関係であるかのように幻想されることはない。

家族内分業労働

日本でも、戦後の高度経済成長期以前までには、農村で一般的に行なわれていた、農民家族の素朴な家父長的な勤労に、直接的に社会化された労働の典型を、マルクスは見出している。

自家用に生産される、穀物や家畜、糸、布、衣類などは、互いに商品として対応することはない。同時に、これらの生産物を生み出す、農耕労働、牧畜労働、紡績労働、織布労働、裁縫労働などは、その形態のままで、家族という社会のなかで自然発生的な分業労働として機能している。性別、年齢のちがい、季節の移り変わりが、家族のあいだでの労働の配分と、その家族の個々の成員の労働時間を規制する。家族成員個々人の労働力は、家族の共同的総労働力の有機的一部分としてのみ作用しているから、個人的労働力の支出は、やはり継続時間によってはかられるにしても、その労働が家族労働全体のなかでもっている役割に規定されている。

自由な人々の共同社会

ここでマルクスが想定する社会は、共産主義的社会である。この社会は人類史のあけぼのに、その原始的形態の存在が実証されているが、マルクスは、過去にすぎさった社会としてではなく、むしろ、資本主義社会の先に展望される社会として想定している。

この社会では、個々人の労働力は、共同的生産手段でもって支出され、個々人はその個人的労働力が、その社会の総労働力の一部分として支出されることを自覚している。個々人は、いかなる形態によっても人格的に依存していないし、社会的機構によって強制されてもおらず、自覚的自律的に連合している。

ロビンソンの「社会」では、すべての生産物は彼自身の生産物であり、彼にとって使用されるべきものであった。この共同社会のすべての生産物は、その社会全体の生産物である。この生産物の一部分は、その社会での再生産のための手段となり、依然、社会的なものである。生産物の他の部分は、生活手段として、共同社会の成員によって消費される。この部分は、彼らのあいだで分配されるが、この仕方は、その社会の生産手段の社会化のあり方と、これに対応する生産者たちの、発展程度におうじて変化してゆく。ここでは、労働時間によって、分配が規定されるものと前提される。そうすると、この社会で、労働時間は二重の役割をはたすことになる。一面、その社会の成員の総労働時間の社会的配分が、その社会全体のさまざまな欲求をみたすための労働機能の割合を規制する。また他面では、個々人の労働時間が、その社会の共同的総労働にたいする関与の度合をあらわすから、その個人が、生活手段として消費する生産物の分配のための尺度となる。ここでも、人びとが彼ら自身の労働やその生産物にたいしてもつ社会的関係は、簡単明瞭で、幻想的錯覚の余地はない。

宗教は現実世界の反映である

マルクスは、商品生産社会にふさわしい宗教は、キリスト教などの一神教だと指摘する。ことに、そのなかでも、ブルジョア的発展であるプロテスタントや、理神論などとしてのキリスト教がもっともふさわしいと。なぜなら、この社会では、生産者の生産物はすべて商品という形態で関連しあい、彼らの私的な労働がすべて同等な抽象的人間的労働として互いに関連づけられるから、キリスト教など、抽象的な人間(つまり唯一絶対の神)を信仰する一神教などが、宗教として対応するのであると。原始的共同体が崩壊してゆく、そのはじまりの前からすでに存在していた商品生産者たちは、共同体の崩壊とともに、社会のなかで重要な役割をもつようになるが、古代から信仰のあったユダヤ教のような一神教も、それとともに発展してきたのである。

まだ商品生産が重要な役割をになうにいたっていなかった社会、個々人が氏族共同体などの自然的なつながりからまだ切り離されていない社会では、それだけ個人としての存在も自覚も未成熟であったし、専制的支配や奴隷的隷属関係のなかにあった。これらの社会は、その社会での労働生産力の発展度合の低さに対応した、人間関係や自然への認識の狭さをもっていた。これらの現実が、当時の自然宗教や民族宗教に反映しているのである。

現実世界の宗教的反射は、一般に、実際の日常生活の諸関係が、人間にたいして、人間相互の、また人間と自然との、透いて見えるほど合理的な諸関連を日常的に表わすようになるとき、はじめて消えうせる。社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿態は、それが、自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれるとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。けれども、そのためには、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまた長い苦難に満ちた発展史の自然発生的産物である一連の物質的実存諸条件が、必要とされる。[94]

古典派経済学の到達点と限界

マルクス以前の、それまでの経済学の最良の到達は、商品価格という形態を分析することで、労働が価値を生み出し、労働量が価値の大きさを規定することを発見したが、なぜそうなるのかという問題提起はなされなかった。また、価値の大きさの規定ということ自体が、人間的労働の質的な同等性を前提としているということも意識しなかったのである。それまでの経済学にとっては、人間を支配している商品としてあらわれる価値形態が、自明な自然なものであったから、その価値形態が歴史的発展のなかの一つのあり方であるということを発見できなかったのである。だから、そもそもなぜこの社会で、人間の労働がこのような形態としてあらわれるのかという問題提起を行なうべくもなかったし、この社会以前に存在してきた社会や、商品生産社会に到達していない他の社会形態は、すべて「必然的ではないもの」であり、「野蛮」な「非文明的」なものとされたのである。市民社会が商品生産様式の上になりたっているのと同様に、それまでの歴史的社会も、商品生産社会に到達していない他の社会形態も、それぞれの社会のその時々の経済が社会の基礎をなしてきたし、なしているのだということには、思い及ばなかったのである。

商品の物神的性格がもたらす経済学上の混乱

まず、「交換価値の形成における自然の役割」をめぐる論争について。交換価値は、生産物に支出された労働を表現する社会的形態であって、自然素材を含むということはありえないのである。

大規模な官僚・軍隊・宮廷貴族の俸給を確保するために、多量の貨幣や貴金属の獲得につとめ、貨幣が富の源泉だとみた重金主義・重商主義は、金や銀などの貨幣として機能している貴金属が、商品生産社会に特有の社会的生産関係を、貨幣形態としてその自然物の姿で表わしているのだということを見抜けなかったゆえのものである。農業生産こそが富の源泉であるとして、地代は土地から生じるとした重農主義も、商品形態が発展するにつれて、賃金・利潤・地代などの具体的な形態が発生してくることで、商品の物神的性格を簡単に見抜けなくなることで生まれた。

さいごに、「商品の使用価値は、物体としての商品には属さない。むしろ、物体としての商品に属しているのは価値である。商品はただ交換価値としてのみ関連しあう」という議論について。なぜこのような混乱が生じるか。物の使用価値というものは、人間にとって交換関係が介在しなくても、直接、実現するものだが、物の価値というものは、ただ交換関係においてのみ実現されるという事情からである。



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