「墓場まで何マイル」

1976年(昭和50年)40歳

6月、評論「迷路と死海」、8月、評論「鉛筆のドラキュラ」、9月、歌集「帆歌」、10月、エッセイ「競烏への望郷」を刊行。「疫病流行記―‐改訂版」を東京で上演。「呵呆船」を東京とイランで上演。「田園で死す」がベルギー・バース、ベナルマデナ各映画祭で審査貝特別賞受賞。渋谷天井桟敷舘閉舘、麻布十番天井桟敷舘開舘。

1977年(昭和52年)41歳

4月、作品集「寺山修司の予告篇」、6月、詩集「猫の航海日誌」を刊行。「パルトークの中国○不思議な役人」を作・演出。長編映画「ボクサー」、実験映画「マルドロールの歌」、「消しゴム」、「二頭女−影の映画」、「一寸法師を記述する試み」、「書見機」を監督。ジュネープ、アムステルダムのキャノン画廊などで「寺山修司幻想写真展」巡回開催。「現代日本美術展」の審査員をつとめる。フランスの「Z○○M」誌一冊を単独編集。

1978年(昭和53年)42歳

7月、評論「黄金時代」、12月、戯曲「奴碑訓」を刊行。オランダ・メクリシァターの招ぎによりオランダ、ベルギー、西ドイツ各都市で「奴碑訓」を上演。「奴媒訓」東京公演。フランスのブロデューサー、ビェール・ブロンベルジュ制作、ナムニバス映画の一編「草迷宮」を脚本監督。東陽一監督作品「サード」の脚本を執筆。

1979年(昭和54年)43歳

3月、エッセイ「さかさま童話史・ぽくが狼だった頃」、5月、エッセイ「旅路の果て」、10月、評論「青少年のための自殺学入門」を刊行。「奴婢訓」、イタリア・スボレート芸術祭参加。以後、フィレンツェ、トリノ、ピサなどの各都市を巡演。トウリード国際映画祭(アメリカ)の招きで渡米。パークレー・カリフォルニァ大学にて全作品上映と解説サ実験映画「マルドロールの歌」によってフランス・リール国際短編映画祭の国際批評家大賞を受賞。肝硬変のため北里大学付属病院に一か月入院。

1980年(昭和55年)44歳

3月、戯由集「身毒九」、7月、エッセイ「山河ありき」、評論「鉛筆のドラキュラ」、9月、シナリオ集「十九歳のブルース」を刊行。スポレート・フェスティバル・アメリカリカの招待により、サウス・キャロラィナで「奴婢訓」上演。ポーリーヌ・レアージュの「○嬢の物語」をもとに脚本を書き、「上海異人娼館(チャイナ・ドール)と題して監督。

1981年(昭和56年)45歳

10月、評論「月触機関説」、11月、シナリオ「チャィナ・ドール」を刊行。肝硬変のため再び北里大学付属病院に1か月入院。「奴婢訓」で、「ヴィレッジャー」紙の最優秀外国演劇賞を受賞。「百年の孤独」を作・演出。

1982(昭和57年)46歳

2月、エッセイ「スボーツ版・裏町人生」、6月、エッセイ「競馬放浪記」、7月、評論「臓器交換序説」を刊行。長編映画「さらば箱舟」(脚本・監督)で沖縄ロケ。利賀国際演劇フェスティバルに「奴婢訓」で参加。最後の海外公演「奴婢訓」バリ公演。12月「レミング−壁抜け男」公演を最後の演出と決意。

1983(昭和58年)47歳

絶筆、「墓場まで何マイル?」を執筆。5月27日、意識不明となって東京杉並の河北総合病院にかつぎこまれる。5月4日肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、同病院にて死去。7月

天井桟敷解散。

SMASH IT UP |  寺山修司 | 18歳まで 
 19歳から29歳 | 30歳から39歳 |