「作りかえのきかない過去なんかない

寺山修司の年表


「歴史なんか信じない」

「何しろ、俺の故郷は汽車のなかだからな」

参考文献

1935年(昭和10年)

青森県弘前市生まれ。
警官の父八郎、母はつの間に長男として生まれるが、届けが遅れたため、翌年の1月10日出生とされた。この20日の間のことは「誰か故郷を思わざる」のなかでこう語られている。

「私の母「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ。」と冗談めかして言うのだった。 
自分がいかに一所不在の思想にとり憑かれているかについて語ったあとで、私はきまって、
「何しろ、俺の故郷は汽車の中だからな」と付け加えたものだった。

1945年(昭和20年)9歳

青森は大空襲にあい、母と逃げまどい、三沢で寺山食堂を営む伯父のもとに身を寄せる。食堂の2階が母子の住まいとなり、母は米軍のキャンプで働き始める。玉音放送は空襲にあった5日後に寺山の耳にも届いた。 

玉音放送がラジオから流れ出たときには、焼け跡に立っていた。つかまえたばかりの唖蝉を、汗ばんだ手でぎゅっとにぎりしめていたが、苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、私の心臓にまでずきずきと、ひびいてきた。「誰か故郷を思わざる」

1946年(昭和21年)10歳

三沢市内に米軍払い下げの家を改築し転居するが、母は仕事で留守にすることが多く、小学校の友人と自分の作文を朗読して聞かせるなどして寂しさをまぎらわしていた。このころ三沢は火事が多かった。 

「私は蛍を母に見せるのをあきらめ、自分の部屋に持ち帰り、それを机の引出しに閉じ込めてしまった。(中略)その夜、火事があって私の家は全焼した。 だから、私は今でも 「あの火事は机の引出しに閉じ込めておいた蛍の火が原因なのだ」 と思っているのである。「誰か故郷を思わざる」

本当は燃えてなんかいなかった。彼の心が炎を出して苦しみもがいていたのだった。

1949年(昭和24年)13 歳 

中学2年の時母は九州のベ−スキャンプに出稼ぎにゆき、青森市内の叔父夫婦に引き取られる。修司は大叔父の経営する映画館歌舞伎座の映写室の隣の屋根裏部屋で暮らすようになる。

1950年(昭和25年)14歳

中学3年となり、校内の文芸部長をつとめ短歌、作文、童話などを精力的に発表するようになる。

函館の砂に腹ばいはるかなる未来想えり夕暮れの時 

ゆく秋の磯の浜辺の立つ墓に今も咲けるや矢車の花

1951年(昭和26年)15歳 

青森高校に進学。文芸部、新聞部に参加。雑誌「青蛾」を発行。「東奥日報」に短歌「母逝く」を発表。 

1952年(昭和27年)16歳 

青森県高校文学部会議を組織。

「中学3年の時、私は1メ−トル70センチあった。ジムに通いはじめると、コ−チは長いリ−チと、足を使うべきだと言ったが、私は、折りたたみ式のように細長い私の体で、アウトボクシングをすると、水すましのようで嫌だから、インファイタ−になりたい、と言った。するとコ−チは「腕が長すぎる」と反対した。(中略)ボクシングは、三年間やって高校二年でやめた。次第に「食事制限」にたえられなくなっていたのである。」(誰が故郷を思わざる) 

1953年(昭和28年)17歳 

全国学生俳句会議を組織 

1954年(昭和29年)18歳 

早稲田大学教育学部国文学科に入学、上京。埼玉県川口市の叔父宅に下宿。夏休みに奈良に旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。「チエホフ祭」(原題「父還せ」)50首で第二回「短歌研究」新人賞を受賞。早稲田大学の友人、山田太一と出会い意気投合、文学談義を繰り返す。その後往復書簡によりそれは続いてゆく。

ころがりしカンカン帽を追うごとく故郷の道を駈けて帰らむ

向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わば自己なき男

俳壇、歌壇にセンセ−ショナルなデビュ−を果たすが、すぐに猛烈な批判をあびる。混合性腎炎のため立川市の河野病院に入院。 

ところで入院しちゃった。病気です。混合性じんぞうえん。(中略)僕はけして自殺未遂じゃありません。ぼくのベットはすわると富士山が見える。 
俳句研究め!僕、俳人なんてあんな蟻っこ小僧たちの相手あきちゃった。僕のひとつのマチガイを三つ四つに勝手にふやしてやっつけ
ている。(中野トクへの手紙)  

母はつはこのころ立川基地の住み込みのメイドとして働き始める。

SMASH IT UP |  寺山修司 | 19歳から29歳 
 30歳から39歳 | 40歳から47歳 |