Off the road. ア〜ア、私の人生も同じかな

スバルサンバートライ:550cc2気筒?フルタイム4WD5速 & ジムニー、エブリィついでにKTM ---`96/6


 中学2年のときのバイクから始まって、オフロード歴が30年くらい。いまは沢登りばかりになってしまったが、それさえも道のないところを登るという意味ではオフロードだ。その転換の過程で考えたことを書かせて頂いた。

 それにつけても以前から疑問に思っているのは、ボンネットがデカイ上に、さらにギラギラとライト類、ガード類をつけ、足まわりをいじくった大型4駆の存在だ。あんなのはチンコの小さい男が見栄を張るための道具としか思えないのは私だけだろうか。あれが日本で役に立つのは、よっぽどの豪雪の中でか、大事故の時ぐらいだろう。自分自身は安全だろうが、それと引き替えに通行者などに対しての凶器ともなりうるし、腕のない奴が自然の中で、必要以上に重量とパワーを掛け、足掻いて土をかっぽじる様は破壊者以外の何者でもない。繊細な日本の自然の中でインパクトを少なく奥の方まで入っていこうとしたら、軽くて小さいジムニーの方がよっぽど走破力がある。

 オフローディングで思いきり遊びたいなら日本では軽で充分。軽なんてバカにしちゃあいけません。こんな実用的で(いまある中では)自然にローインパクトなものはない。またパワーも無い分、破壊力が少ないし、更に頭を使わないと上手く走れない。腕と頭の差がはっきりと出る楽しい乗り物だ。
 また、近所のフィールドに行くくらいだったら、軽トラかサンバーみたいな箱形の軽の4駆が、人も犬も荷物も道具も詰めて良いし、そして地面もほじくることなく前に進むこの車、ちょっとゴメンナサイよと草むらをかき分けるにも丁度良い。ばかデカい車じゃ、穴に落ちるか人をひくか、怖くてそんなこともできないべ。スタックでもした日にゃあ大事件。そこいくと軽は楽勝、ちょこっとした道具と智慧さえあれば自力脱出。これこそ正しい日本人のツールだ???

 仮にいままでは良いとしても、地球環境が悪化している現在は大型化重量化はもっと真剣に受けとめなければならないのではないだろうか。たまのハレの日にだけ乗るのだったら解るが、日常に町中で乗り回すのは如何なものだろうか。チンコが大きいくせにうっかりしてマッチョタイプの大型4駆に乗っている人は、サッサか意識を切り換えて欲しい。チンコの小さい人へ:コンプレックス自体悪いものではないのだから、もっと自分の中身を鍛えるなど、コンプレックスのエネルギーを価値のあるものに昇華しましょうね。 わたし? 私もチンコ小さいけれど昇華したんです。それにチューンナップしたので、高回転高馬力でビンビンです。そのかわり長生きできないかも・・・)
 このページは最初はサンバーの讃歌だけだったのだが、だんだん膨れてしまった。m(_ _)m


 スペックはあまり覚えていませんがスバルサンバーは実にいい車でした。過去形なのは先年、連れが運転中に脇見運転のダンプと正面から勝負してしまい廃車になってしまったからです。たくさんの楽しい思いをさせてくれたサンバーに感謝を込めてホームページにアップしました。 合掌
  此の車は非常に使い甲斐のある車でした。度々の雪中キャンプでは大人二人の快適なベッドを提供してくれましたし、MTBや犬を連れての遊びにも重宝しました。大量の荷物を積める上、Fシートも回転するので荷物を置いても手足を伸ばして寝れるのです。
 リアエンジンが幸いする重量バランスの良さは、踏破性を高め狭い草むらの奥まで踏み分けていく気を起こさせました。
それが災いして、社員旅行の途中で富士山の太郎坊の火山灰の斜面を降りてしまい、下でスタック。危うく観光客の雨宿り場所代わりに放置していくところでした。
 何とかスコップと社員さまのお陰で、斜面をジャンプしながら全開で駆け上がり、事なきを得ました。それからは、やばそうなところはジムニーと連れだって行くスバルが見られるようになりましたとさ・・・

 このくらいの斜度は乾いていれば登り下りともOK。でも、濡れているときは背が高く重心が上にきているので注意しないと滑ったときに危ない。土手の登りはパワーをかけないで惰性で登ること。下りはやたら強くブレーキを踏まず
ゆっくりと降りること。そして、同じところばかり登り下りしない。歩行者や自転車がいたら、止まるか止まれるくらいのゆっくりしたスピードに落とす。そうすれば土手も痛まないし、文句を言われることも少なくなる。バイクの人達もそうやって下さい。そうしないと遊ぶところがドンドン少なくなってしまいます。

 もっとも、この土手の下流の中州は、採石の為に流れが埋められてダンプが渡れるようにされ、自然が壊されてしまった。土手も一時はダンプの往来が激しいときがあり、形も変えられてしまった。上流の土手の脇ももつまらない公園が作られたし、自然破壊は行政の影響の方が甚大である。
※後年、土手のこの部分は改装されて階段が作られた。また少しばかり上流に有った広々とした林は全て掘り起こされて造成され無機質な公園に仕立てられた。この公園は広々とした芝生にベンチがあり、あとは歩道と植え込みが有るくらいのシンプルなものなので、近所の人が犬の散歩や小さい子をを連れてきたり、ご老人が憩うために集うのにも良い。だが常に人の手によるメンテナンスが必用な公園は雇用を生み出すかも知れないが、逆に自然の植生は無くなり単一化された貧弱な物しか生えていない緑は、我々が大地の営みと交感する機会を奪っているのも事実で、そういった人工的な環境の中しか知らない子供達が今後更に増えていく事も暗示している。
 草むらや藪、林を怖がる大人が増えているのは、人工環境の中で育ってきた事と、また昔のように里の近くの自然が手入れされなくなった事もあるだろう。人の行き来が無くなったところはどういう訳か、気が澱んだりさび付いた感じの雰囲気になってしまう。そうすれば更に足が遠のく。昔も当然そう言うところも沢山あり、そう言ったところに畏れをいだいたり何かが居るのではないかと言う気持ちを頂いたりしたものだ。つまり人間以外の存在を怖れたり、また自然に対する畏怖の念を持ったりするのであるが、それを哲学を持たない技術の進歩がその闇の部分を打ち砕いてしまった。そしてそのカルマによって逆に人の心の闇の部分が広がってしまったのが今の時代。
 ガキの頃から自転車やバイク、車などで自然の中で遊ぶ事が多かったし、また登山や沢登り、キノコ山菜採りなどで自分の足で自然の中に入ることもかなり多いが、結局自然破壊の大規模なものは国や自治体そして企業などが行っている人工的な構造物によるものであることを実感する。そして其れを受け入れているのは雇用とか商売、補助金とか補償などをで利益を得たい民衆が多いからであることは否めないであろう。

此のドライバーは女性
これをモトクロスではカウンタージャンプとかエアターンとかいう。何を思ったか空中で向きを変えて草むらに突っ込んでいった


 小川を渉る           

 此のサンバーはフルタイム4WD、あまりスリッパリーなところは得意じゃないが、ライン取りさえ間違えなければ結構走れる。
タイヤは標準のラジアルからハイトの高い農耕用?のものに変えてある。勿論、チェーンは4輪分積んでおくのが常識。
 エアジャッキやハンドウインチ類はジムニーの荷台にあるドラエモンのポケットに入っているので安心。でも、基本は自力脱出である。

 フロントは伸びるがリアサスが動かない。ただ、乗用セッティングのため、スプリングのレートが柔らかいのが救い。でもそんなことをいわれる筋合いはないと富士重工に言われますね。
 因みに此の車はスバル研究所に数千万円のシステムの納入をしたら、付き合いで買ってくれと言われて会社で営業用に買った車だ。社長には回転対座シートもサンルーフもついているなんて言わずに買ったのは言うまでもない。

  

 此の車くらいパワーが無いと自然破壊に荷担しないのでは???似非ナチュラリストのタバコを投げ捨てバードウォッチャーよりまし?
 パワーが無いので中央高速の談合坂辺りは追い越され車線でひたすら我慢だが、結構遠くも行っている。南アルプスの雪の林道では横になりながら蟹走りしたし、山梨辺りはしょっちゅう出掛けていた。連れはこいつで秋田の藤琴川まで渓流釣りに来た。もしかして連れは、これで北海道も行っていたような気がする。
 これで、アプローチアングルがもう少しあって、足まわりが強化でき、パワーがもっとあったら今のジムニーから乗り換えても良いかも知れない。此の後のサンバーシリーズは不細工になってしまったので対象外である。
 スズキの此の手のやつはキャリーというのでしたっけ?これはまだ乗ったことがないので、ご存知の方がおられれば教えて頂ければ幸いです。でも、確かスズキのは中がフルフラット(シートが寝るとという意味でなく、全くの平ら)にならない記憶がありますが・・・。


日本人の意識下をほじくる


 日本という環境の中でなるべく自然を痛めないで遊べて、かつ実用的な四駆選択の折衷点は、軽の四駆だと思うのですが如何でしょうか?

 普通の車ではとうてい入れない河原の奥へ犬の散歩に軽の四駆で行くことがあるのですが、町で走っているような立派な四駆RV車に出会ったことがありません。
 そんなに奥まで入らないのは自然保護??だったら光モンをいっぱいつけ、車高を上げたランクルやパジェロの存在に何の意味があるのでしょう、何処を走るための装備なのでしょうか?
 まあ、 Jeepをピカピカに磨きながら、河原に降りたのは一回だけという御仁もいらっしゃったので、スタイルを演出するのは趣味の問題なのでしょうが。

 でも乗用車がバンバン行き交う林道で4WDにシフトしてご満悦の人をみて、ちょっと頭が足りないんじゃないかと思ってしまうのは、私の方がおかしいのでしょうか?

 折角、いい道具を持っているのだから、自然破壊にならない程度にどの位の能力があるか試してみてから、必要不必要を決めればいいのではないですか。オフローディングが出来る有料エリアも増えてきました。道具は使いこまなければ、いざという時に役に立ちませんぜ。スキーに行くときに4WDが欲しいんだったら、ボンゴやデリカの方が実用的ですよね。雪道で派手に突っ込んでいる車に大型四駆が多いのも前出のような方々が多いからなのでは、と思います。

 右向け右のマインドコントロールされやすい日本人の特性がここにも出ているような気がします。

 エー、最近では殆ど写真のようなことはしなくなり、バイクもMTBも殆ど乗らなくなってしまいました。車はトランスポータとなり、もっぱら足で遊ぶことが多くなりました。

 自然は強いと思うとき(前記の軽自動車がいくら河原にはいって草をなぎ倒してもすぐに元通りになります)もありますし、こんなに破壊されているのだと思うときも多々あります。でも、数が増えたのが問題ですよね。勿論、排気ガスもね。
 地球にとってガン細胞のような存在といわれる人間です。さて、どんな生き方をしていけばよいのやら。台風の後の増水した多摩川は楽しい。ちょっとした冒険フィールドが出来上がる。勿論、大雪の後も良い。お陰で何度スタックしたことか。でも、そんなときに4駆はともかくとして、バイクも人も河原であったことが無いんだよなあ。みんな、近所にこんな良いところがあるのに遊びに来ないんだモンね。それこそ、雑誌に乗せられて、どこか有名なアウトドアフィールドに遊びに行かなければいけないと思い込んでいるんじゃあないの。だから、多くの人がマインドコントロールされていて、自分の頭を使って遊んでいないと、わたしはついつい言いたくなってしまうのだ。

 我々、一人一人の行動も今すぐ変わる必要もありますが、行政がやっている環境破壊、企業がやっている他国の財産の食いつぶしの影響は甚大でしょう。
 何かの雑誌に書いてありましたが、林野庁がブナなどの自然林を伐採して(本当は切ってはいけない所まで切っているらしいです)大した利益を上げておらず(切りわけて椎茸などのほだ木として民間に売られているが2〜3年で使えなくなってしまうらしい)、結果的には何億かの赤字を出しているそうです。
 そして、その丁度赤字分ぐらいが林野庁の役人の給料分に相当するとか。我々国民の財産、地球の資産、我々を存在させてくれている自然が林野庁のお役人の食い扶持となっているそうです。林野庁の役人が居なければ、自然が破壊されず誰も損をしない主旨の記事でした。また、出典は調べておきます。

 でも最終的にはその製品を買っている我々がそうさせているわけですから、一人一人が賢くならなければなりません。添加物が入っているものや、自然破壊を増長するような製品を購入することも出来るだけ抑えなければ、現状は変わっていかないでしょう。
それを実行には勇気も必要ですし、経験と智慧も必要だと思います。必要以上に蓄えないで、私は間に合っています、お宅がどうぞ、と言えるスタンスを持ちたいものです。これって勇気と、裏打ちされた経験が必要でしょう? 

 自分の生存と未来に不安を感じていたり、恐怖感が強かったりしては「No thank you.」って言えません。一人ひとりに哲学が必要ですね。そして、自分自身の力を信頼し行動できるパワーと智慧が。
 現状の仕事にしがみついて保身ばかり考えているような人間が多い社会や組織ばかりではね、地球の未来はないですよ。
一人一人が自立した上での家族との結びつきであり、社会での人間関係であり、自立が出来た上で他人との分かち合いが出来るのだと思います。

 しかし、それが出来ない、ピーターパンちゃん、シンデレラちゃん(いい年したおじさんおばさん達でもですよ。私もそうだったし、まわりにそういう人間を沢山見ている)がいかに多いことか! 自立していない人同士が、ドロドロの人間関係の中でのたうち廻っている姿を皆さんも沢山見ているでしょう。

 ステップの一つとしては、上記のように道具を持ったら、良くも悪くも一回使いきって見ることも大事なことかと思います。なにごとも中途半端にやっている人達は、何らかの結果を得られず、そのために自分自身の経験とならないので真理を掴めないからです。

 ゆえにアイデンティティを持てず、マスコミに流されて、いつも搾取の対象(ちょっと違うかな?カモといった方が当たっている)となり、消費サイクル(地球を食い潰す文明)から抜け出せないのだと思われます。だいたい外側を金を掛けてギラギラにする奴は、根性無しが多いんですよね。4駆もそうだし、バイクもそうだけれど、ギラギラの奴に限って、実際それが役に立つ、“怖いこと”をやろうともしない。走りを見るとヘタッピー。所有するだけでその気になって満足している。ホントに好きな奴は表に金を掛けるのではなく、目立たないところでも実用的な筋が通った金の掛け方をしていますね。道具は使わないと価値が分かりません。使えば良いものかいい加減なものか、そして必要ないものかが“自分”で判断できます。その経験を積み重ねていけば、モノを見る目と自分自身を見る目も出来ます。自分の中にごまかしが無ければ、転換するべき時に、パッと切換が効きます。

 とどのつまり、一番タチの悪いのが、“善人ぶった”小市民ではないかと常々思っています。仕事の内容や生活態度が環境破壊に直接関係しているのに、気が付かないか、見て見ぬ振りをしている、宣伝に踊らされて無用な消費をし、地球の資源食い潰している問題意識がない、そして隣人にはニコニコしている輩達です。自己欺瞞のプログラムが強固にバックグランドに走っている奴です。脆弱でクソみたいなエゴしか持っていないのに、プライド(誇りじゃないよ気位だ)ばかり高くて本当の自分自身を観る能力のない霊的無能力者ですね。こういうことは、その人がいい人とか、いわゆる頭が良いとか、そういう問題、能力とは次元が違うのです。

 “気づき”という能力、ホントウの自分自身の心と向き合う気持ち、それらがない人間達のことを言っています。そういう人間よりも、徹底して悪いことをした奴の方が、優しい気持ちを持っていたり、気づいたときにはすぱっと転換できることがままあります。だから、親鸞が悪人正機説を説いてもも当然でしょう。心の底から気がついて懺悔し、意識下から変わり、人のため世のため行動が出来たときに人間は心底変わることが出来るのかも知れません。中途半端に流されて生きている人間は、転換するチャンスを自ら失っています。悪いこともしなけりゃ、良いこともしないって人間て、なんも味わいが無くてつまんないですよね。他人に訴えるような経験、其処から得た真理みたいのが何も伝わってこないですからね。経験や気づきのデータベースが少ないから分かち合うものがないのでしょう。
 気づくためには本当の自分自身を知ることです。その為には“いい人、正しい自分を演じる”ところから抜けることが大事な条件です。自分自身を騙さないことです。
(※この霊的無能力者と書いたのは、あのお化けを見る能力ではありません! 霊性のない人のことです。霊性というのは、あまり馴染みが無い言葉だと思うのでつけ加えさせていただきますと、人間も含め動植物など、地球や大いなる存在、宇宙の意志とか、全ての存在と感応する感受性のことと思って頂ければいいと思います。また、その人の持っている霊性の高さは愛の大きさ、深さとも同等と考えても良いかも知れません。霊性が高いということは、その人の持っている周波数が高く精妙であるということです。周波数が高ければ、他の存在と共振しやすいわけです。感受性が強いということですね。そこから気づきが生まれます。周波数が粗い人間は、なぜその様な結果になったか物事の流れが見えませんし、目に見えないものを想像するなんて芸当はからっきし苦手ですからね。)

 自分が行為する中で、自分自身で良く無いなあと思うことを回避出来ない場合には、いま自分は悪いことをやるんだ、仕方がないからいまは負けてやってしまうが、でも必ず早い未来にはそうならないようにするぞと、自分自身が自分の行動を明らかに認識して、決心してやることが大切なのです。

 知り合いの話を引き合いに出すのは本人に悪いのですが、いい例なのでちょっと勘弁して貰います。山に登って生ゴミを含めて全部ゴミを必ず持ち帰ってくるというりっぱな人が知人でいます。勿論良いことで、平気でゴミをぽいぽい捨てているオジさんオバさん達(信じられませんね!)と比較にならない誠実な人です。しかし、プラスティックゴミなどは当然なのですが、生ゴミはどうするのでしょう。みんなゴミ箱行きなのです。ということは、その生ゴミも他のゴミと同様に右から左にゴミ処理場行きなわけですね。よく考えて下さい。ゴミ処理はもう飽和しているのです。

 私が山で食べ残し等、腐るものを目立たないところに捨てようとするとお叱りを頂きます。山の生態系を壊すということです。どうも、本で読んだ高山での心得をそのまま仰っているようなのです(ヒマラヤなどではウンコも持ち帰りますが、なぜかヒマラヤはゴミの山が問題になっています。酸素ボンベからなにから登山隊の使用済みのものが散乱しているのです!)。
 というのは、そこはせいぜい高度500mに満たない林道の脇でした。アルプスの上ではないのだから、バクテリアも活発に活動している低山では、食物の残り(油を使っていない野菜のカス)くらい直ぐに分解してくれます。だったら、石油資源を沢山使わなければいけない生ゴミのままゴミ処理場送りにして手間と資源を使って灰するのが良いのか、それとも自然にお願いしてバクテリアに分解して貰い、土に返した方が良いのかもう少し考えて頂ければ頭のいい人なのですから解るはずなのです。

 でも、そうじゃないのですね。他人や社会に対して、いい人、正しい自分というスタイルを演じる仮面を作り上げてしまっていると、観念が固定化され、考え方が硬直化します。機械的な反応が習い性になり、表面だけを社会に合わせようとします。そして自我が強い場合には自己肯定の論理を繰り返すばかりのループに陥り真理とかけ離れていきます。果たしてその彼がそうなのかどうか解りませんが、土に返すというお話ししてもいまいち納得いかない様子でした。頭が悪い訳じゃあないので理屈では理解されているはずなのですが、エゴが自分を守ろうとするプログラムのまま、自分が思い込んだ現実以外受け入れないのでしょうか。

 本人はとてもいい人だし、義理堅い親切な人なのですが、どこかピントがずれてしまっているのです。生ゴミも家に持って帰ってコンポスト化して肥料にするところまで自分自身でやるならわたしも納得します。そうであれば我々の責任を持って処理できる範囲の中の選択なのですから。最後の汚い部分を他人や機構に押し付けておいて、自分の周りだけ綺麗であれば良いわけではないのですよね。

 世の中そういう人、こういった話が多いのではないですか、良いと聞いたことをそのまま鵜呑みにしていることが。例えば日本のメーカってウソツキですよね。CMで言っていることが、実際と違うなんてことは日常茶飯事で、消費者が勘違いするような画や言葉を使ったイメイジ広告オンパレードしてますよね。でも日本人は公にアナウンスされると、言っていることが本当かどうか裏をとる勉強もせずに、そのまま信じてしまう人が殆どです。だからそんなウソのCM,勘違いさせることを意図した宣伝などがまかり通るし、買わなければいいのに消費者は問題意識もなく踊るので、高い金を払って、いつの間にか自分達の身体は蝕まれ、環境も破壊され、他国の自然を食い潰しているのです。買う奴が居なければ、メーカだって作らないでしょ。なんにも考えないで(考えることを破棄して)、買う人間が世の中を悪くしている張本人です。

 だから、いい人どうこうという以前に“気づく”能力と、ゴメンナサイと言えて素直に方向転換出来る行動力をもっているかの方が重要だと思うのです。気づく能力がベースにあれば、自分自身の愚かな部分さえも受け入れることの出来る、もっとレベルの高い、勇気あるいい人に、何時だってなれるのですから。(わたしの場合は、何時もゴメンナサイごめんなさいと、あやまってばかりの人生です・・・)
 気づきがないと、智慧は身に付きません。いまのせっぱ詰まった時代にはいい人や正しい自分を演じているだけではダメなのです。もっと智慧を持って自己の転換が出来ないと、自分はこんなにいい人なのに、正しいことをやっているのになんでこんな目に遭うのだろうと悩んでばかりいることになります。ストレスの多い時代ですから、上っ面だけで自分自身をごまかしていると、意識下とのギャップが広がり自己コントロールが効かなくなってしまいます。

 だってそうでしょう。宗教団体の人達を見ていると、自分たちの価値観の中での話や、非難されないときなどの風上にいる時はいい人をやれているのですが、自分たちの言い分が認められなかったり、生活上で不利益になるような風下に立つとなると、途端にエゴをむき出しにして攻撃的利己的になる人達が多いではありませんか。そのようなエゴの執着が解決されないままの狭い視野しか持たないもの同士で互いに聖人君子になったつもりでいても、結局何時までも同じレベルに留まり、その人をとりまく問題はまいど同じようなことが繰り返されます。自分の持っている周波数から抜け出れないのです。それで、いつも自己肯定の論理ばかり繰り返して、他人や社会を非難することに終始するのです。

 だから、いままで目をそらしていた、自分の愚かな部分、セコイ汚い部分を認識し、受け入れることが必要なのです。其処が、本当の変化への第一歩です。みんな意識下にはドロドロしたものを持っているのです。ずるい意識や攻撃的報復的な意識、批判的だったり意地悪なこころ、尊大、怠惰、スケベで変態的、権威的だったり物欲が強かったり・・・まだまだあるかも知れない。みな大なり小なり闇の部分は持っています。ただ人によってどの部分が出てくるかどのくらいの頻度で出てくるか異なるだけです。みな自分のそういう部分を認めたくないものだから、意識上にのぼる以前に抑え込んでしまいます。またはそういった意識下の情動に動かされ行動した後に、自己肯定の自我を守る論理を考え出すのです。相手が悪かったのだ、世の中が悪いのだなどと、自分以外のせいにします。
 しかし、他人はそんなことを見抜いていて(見抜くまでもなくにじみ出るその人の本質は、本人だけが気が付いていない?だけだったりするが)、面と向かって本人には言わないけれど、その人間をそういうものとして扱います。すると、その人間を取りまく人間関係がますます悪化し、当人はさらに殻を固くしたり、他人に対して批判的、攻撃的になったりの同じところを堂々巡りすることになります。他人のネガティブなところは良く解りますが、自分が覆い隠している自分自身の闇の部分を見るのはそう簡単ではありません。闇の部分から目を背けてきて作り上げてしまった自我の殻が厚ければ厚いほど自分自身は見えませんから。

 他人はその部分を反射して見せてくれます。誰も自分が持っている想像力、経験のデータベース以上のものは理解できません。自分のレベルに応じた現実の理解、他人の言葉の理解なわけです。そういうわけで自分が見ている周りの人は自分自身の心の反射ということになります。相手を通して自分の中の闇の部分を見ているわけです。
 それに気づいて、自分自身の闇の部分を意識上にのぼらせ、そういうネガティブな意識を持つようになった原因を探り、その時の時点に戻って再体験し癒して、新たなる認識のもとにプログラムを書き換えることが必要なのです。自分の闇の部分に面と向かわない人は、言うこととやることの違いが大きく、自分自身も周りも傷つけます。そのくせ、自分はいい人、正しい人のつもりでいて、自分はちゃんとやっているのに、周りが悪いのだという理由をつけて真実を受け入れないので、何時まで経っても幸せにならないという結果に陥るのです。
 そして、そういう人が多いから世の中がドンドン荒れて来るのは当たり前でしょう。誰もが、世の中がおかしいのは解るけれど、それは自分以外に原因があると思って他人や政治経済、会社などのシステムがおかしいと批判だけしているうちはその人の周りの状況は何も変わらないでしょう。

 しかし、実際に気づき行動を起こしている人とその周りは変化するのです。一人一人の小さな一歩、自分をごまかさない行動言動が一番早道です。自分の闇の部分を受け入れている人は、間違っていることを指摘されても、感情的にならず防衛的(攻撃は防御の一形態です)にならないで、現実を受け入れて方向転換することが容易です。
 そのようなことから、わたしは人と付き合うときに、先ずその人が気づく能力、心の向きがあるかどうかに注目してしまいます。

 でも、このゴミの話は、みんな言葉の上では同じようなことを言っているけれど、その深いところでどう考えているのかという意識を見せて貰ったということでいい体験でした。
 ここで思ったのは、誰しもその場では批判意見を認めなかったり、または認めても、知らなかったとか気が付かなかったで済むかも知れないけれど、本質的なところでは、自分が現実から目を背けていただけだということです。みんなゴミがどうなっているかなんて知っています。知っているけど、真剣に生きていないし、世の中の構造の上に流されて生きているから、取りあえず忘れてしまっても、本人には直ぐに悪影響はないから責任を持った行動をしなくても問題がないわけです。でも、自分では自身を肯定して、正しいことを行っているつもりだから、他人にそれは違うんじゃあ無いのと痛いところを突かれると、自分が否定されたように受け取り後ろ向きの気持ちになるのですね。

 最初から、自分は間違う可能性があるとか、愚かである、ということを受け入れていて謙虚であれば、なんにもストレスもないし、さらには新しい知識を得、ひいては世界も広がり、他人との人間関係も豊かになるのです。ところが、エゴが強いと自分を守ろう守ろうとして、自分をごまかしたり他人をごまかしたりの積み重ねになります。この違いが霊性の高さの違いです。
 言葉では誰しも美しいことが言えます。でも、自分が否定されたり、厳しい状況に追い込まれたときに、実際どのように行動するかに、その人の本質、霊性が現れます。その目に見えないもの、言葉に表せないもの“霊性”を高めていくのが“気づき”なのです。

 ゴミの話に関して言うと、ゴミ処理場の能力を上げる前に、ゴミを出さない方向に変わらなくてはなりませんね(やっと変わってきましたけど)。それには、過剰な包装を排除し余分なゴミを作らない商売方法。ゴミや廃油が出ない生活。例えば、いまみたいに大手スーパーばかりが流行るのでなく、地域の個人商店に皿を持って、豆腐などを買いに行くという昔の商業形態で、その店は添加物や危ないもの、石油製品を使ったパックを使わず、美味しくて誠意のあるものを売る。そういう店を大事にする消費者の姿勢。地域毎にある程度自立した商業、経済形態などを行政もバックアップする。また、生活の中で生ゴミのコンポスト化と消費(もうやっている地方自治体も多いですけどね)。また、そういうことを可能にする住環境など。また、欧米型の食生活も本来のこの土地に住む人間の体に合った食事に戻すべきでしょう。

 これらのことを実現するには、先ず個人個人の気づきと意識の転換、行動の転換が必要なのです。行政や企業に頼ったり、人のせいにして批判ばかりしているのでは、自己確立できていない自己責任の無い寄生虫的自我だといわれても仕方がないでしょう。

 どうしても、いまの現状では理想的な方法が実行出来ないというのだったら、せめて自分自身をごまかさずに、ご免なさいと言いながら行為するのです。自覚しながら行動することが、次の段階へのステップとなります。目を背けて自分自身をごまかしていると、同じ所を廻り続けます。  

 私自身もそんなことを言いながら地球を食い潰す消費サイクルにはまっていて、なかなか抜けけれません。ここで批判的な書き方をしていることは、過去の自分自身に当てはまることです。恥ずかしながら同様のことをしてきて、いま現在進行形で少しづつですが変わりつつあるところです(上の文章は自己肯定のための文章だなあ)。まあ、自分が愚かなのは受け入れているので、割と楽です。でも、愚かなろくでもない自分だけれど、一歩でも、少しでも進歩できればと考えています。

 それから、こういったインタネットにたいしても疑問はたくさんあります。有害電磁波の影響もそうですし、ワイヤードされることによって自分の持っている周波数と帯域が固定され、コントロールされてしまう気がするのです。こういうものからだけの情報では、本当の意味で意識の転換が出来ないのではと思います。
 インタネットは過渡的なものと思います。でも、現状で使えるものであるのも事実です。ですから、私としては出来るところまで使ってみようかと、結構クールな目で見ています。物質文明と物質偏重主義の人達の最後のあがきかもしれない、此の現状をね。

※人間の意識下は繋がっています。本来テレパシックな通信網がすでに存在するのですが、言語を使用しない情報網であるために、いまの知識偏重言語偏重の文明では感じられないだけなのです。

P.S.でも、おかしいよなあ。昔の日本人て凄い精神性の高い民族だったはず何だけどなあ。きっと、自己確立が上手くない民族だったから、そのバランスをとるために、物質偏重に振れたんだろうなあ。太平洋戦争がそのトリガーだったのかな。
早く収束して高い次元でバランスが取れるといいのだが???
 日本人って、先に書いたように、譲ることが出来る人が多い民族だったはずなんだけど・・・わたし?私は商売がへたなので細々と暮らしています。でも、幸せです。ホントはもうちょっとお金が安定して入ってくれば、もう少し幸せ。

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 その後、ジムニーはCCV編集部に上げちゃって、スズキの1BOXの4駆で10数年前のエブリィをレストアして乗っていました。雪の多摩川の土手も苦もなく登り降り出来たわたし向きのいい車でしたが、一般路をアクセルワイドオープンで走っていたら、エンジンから突然大きな爆発音が・・・

 ガスケットが吹き抜けちゃったんですねえ。暫くは走れていましたが、やがて煙を噴いてばかりでエンジンが始動しなくなったので、ついに解体屋さん行きとなりました。合掌

 その様なわけで、いまは“P23V”という形式の2000ccのバンの4駆に乗っていますが、オフロード(ラフロードじゃないよoff the road)で、鈍くさいこと・・・ なんにしても絶対重量の重たい車はドッタンバッタンには使いにくいのです。ガソリンも喰うしなあ。
やっぱり軽自動車がいいです。

 最近は、車やバイクを使ったクロスカントリーはやらなくなってしまいました。今ほど環境破壊が酷くならないときにアッチャコッチャでやってしまった(環境破壊を押し進めてしまったか?)ので、早期に気がついた・・・(腕がいいのであまり土をカッポジラないで遊びましたが)。バイクでも富士山のてっぺん直下まで登ってしまいました m(_ _)m が、もう現在では許されない体験です。でも、その代わり転換が上手くできた(自己肯定?)と思っています。

 だから、いまは自分の手と足で4駆する沢登りとフリークライミングで、ヤリチンおじさん達と一緒に、登れる登れないとか、ギャア!落ちる〜とかいい汗をかいています。
 車も腕で結果が全然違いますが、沢登りなどは車とさらに違い、お金を掛けるかどうかにまったく関係なくもっと結果がシビアに出ますぜ。4駆に乗る人はアウトドアを標榜する人が多いのでしょうから、是非チャレンジしてみては・・・ それも団体でつるまないで独りでね。チームもいいけど、道具もいいけど、たまには独りでシビアなことを何かやってみなよ。

 でもね、本当のこというと、沢登りやる人でも道具から入る人多いのよねえ(^^;;  居るでしょう?道具さえあれば、不可能を可能に出来ると思って、ギンギラギンに沢屋の格好する人。 わたし? そう、、、道具や本からはいるタイプです。でも、恥ずかしいから大人しい格好で沢登っています。

 それから、早く化石燃料を使わない4輪車が普及すればいいのねえ。そうすれば、心置きなく山に行けるのに。

笛吹川釜の沢にもなんとか連れていってくれたエブリィ。でも同走車がいてくれたから行く気になった。だって、エンジンは気まぐれで掛からなくなるし、談合坂の登りなんて50km/Hしか出ないんだモンね。(^-^;;;

 

 

これはジムニー4台でつるんで雪の富士山に遊びに行ったとき。550、660、1000、1300の各車。一番良く走ったのは、サスをチューンした6.00-16のタイヤの660でした。雪の滝沢林道を五合目まで駆け上がり、販売所の休息室でお湯を沸かしてカップラーメンをすすって身体を温めました。寒いのでポケットウィスキーを飲むのですが、あまりに寒すぎてスースーと入ってしまい効き目がなかったのが印象的です。

        

                     釣りの相棒はジムニー

 富士山やその周りはよく遊びに行ったが樹海もその一つだ。でも、その手のものが観える人と一緒に行くと、彼処の木の陰に小さい子がいたとか言うし、本人の顔付きが変わってしまったりするので結構難儀な場所だ。

 


 このバイクはオーストリアのKTM。250ccのエンデューロレース用マシン`87だ。すみからすみまで材質や造りが全然違う。例えばFブレーキやクラッチのレバーはマグラ製だが、転けてもなかなか曲がらない。もし曲がったとしても、メガネレンチで力ずくで何回も元に戻しても折れない。国産なんか脆いから2回もやったら完全にポッキリだ。スポークやニップルもぶっとい。いじっているといろいろな発見がある。乗っていてもいろいろな驚きがある。フレームはクロモリの太いパイプ。大柄で骨太の造りだが、YAMAHAのSerrowと大して重量が変わらない。トルクも太いのでトライアル的な走りが出来る。ところがFサスやフレームのジオメトリーにより、ワイドオープンで行く時にはメチャ直進性がよい。でも、これも昔の話。最近のKTMは日本車っぽくなってしまったからなあ(と言いながら、`95のLC4を中古で買ってしまった)。

 そうそう、それから面白いのは、この年式のは坂道をバックしながら始動するとエンジンが逆回転で爆発するのだ。でクラッチを繋ぐとバックして走るってわけ。驚いたでしょ。乗っていた本人はもっとビックリ! でも、有名な話。コンピュータを使った電子進角の具合でそうなるらしい。

 あとは部品が高いので往生したね。わたしはシートが厚い方が良いのでオプションのハイシートをトシ・ニシヤマで取り寄せたら、4、5万円もした。ただ値段なりに材質が良く、中のアンコに使われているウレタンも外装も全然へたらない。おかげで未だに手放さずに枕にしている。KTMのシートは最高だ。でも枕には硬い。

   

 30年くらい前、中2の時に自転車屋さんに技術の授業で使うのだとウソついて貯めたお年玉の7千円で買ったバイクがヤマハのYGS1という70ccのバイク。それに乗った無免許の小僧は、10kmくらい離れた新横浜駅西側の鶴見川河原のモトクロス場へせっせと通った。住宅街の裏道を抜けていけば、大好きなお巡り様にも会わずにたどり着けた。交通量もいまと比較にならないほど少なかったし、家だって疎らだった。新横浜の駅前なんて何もなく、田圃と河原が拡がる絶好の遊び場だった。良い時代だったのだ。

 その横浜だって、10年くらい前までは、郊外の山の中を、オフロードバイク、ジムニー、MTBで縦横無尽に走れるところが沢山あった。人とも会わず、あまり迷惑を掛けずにWoods Riding が堪能できたのだ。

 公道デビューしたころは、林道に行ったってバイクで走っている物好きな人間なんて滅多にいなかった。当時は、普通にツーリングしていても、バイク乗り同士は、すれ違う際に互いにピースサインを交わした。好き者同士の連帯感があったわけだ。だからモトクロス場でも友達や仲間が直ぐに出来た。たった30年だが、そのころは自然も人の心も余裕があったのである。
 それからずうっと、オフロード一辺倒で遊んできた。その頃は車やバイクによる環境破壊なんて無かった。というよりは、オフロード車の数も少なかったし、マニアの世界だった。だからバランス上では、まだ自然の方が強かったのであろう(企業や国の破壊はあったが)。そんなことも考えずに心置きなく遊べる懐の深さが、自然にはあったのだ。オフローダーとしては良い時代を過ごさせて貰ったのである。

 また、新型のバイクや、車が発表されるときには、新しいテクノロジーがつぎ込まれ、その度にビックリしたりドキドキワクワクしたりした思い出がある。少し遡るが、YAMAHAのDT1が出た時なんてこんな美しい乗り物があるのだろうかと心底感動した。KAWASAKIのA1SS(250cc)などの後に出たKAWASAKI 500SS MACH。なんて、本で写真とスペックをみただけでブッ飛び、頭の芯が痺れたものだ。たしか190kgくらいの車体重量で、エンジン出力が60psだったと思う。
 そして後に乗ったときは、それこそ恐怖とエクスタシーの絶頂を味わった。全開にすると、3速でもフロントが浮き、振り落とされそうになる上に、加速に目がついていかず視界が極端に狭まるのだ。シートが滑りやすい上に3気筒幅広エンジンに細いタンク、ニーグリップが効かないので身体のホールド感が無いこともある。そして、5000rpm近くからいきなりトルクが立ち上がるエンジン特性による狂ったような加速感と、その時の吸気音、排気音のハーモニーとのマッチングが、更に拍車をかけて身体中の細胞一つ一つ、魂まで震わせていた。ブレーキは効かず、フロントが軽く、フレーム剛性は低い。気違いマッハと呼ばれた由縁だ。其処へいくとCBナナハンは、0〜400m12.4秒とスペックは同じだがエンジン特性がマイルドで操縦安定性は落ち着いており、マッハのような恐怖感はなかった。
 そんなことを近所で味わえるような道路事情だったのだ(ちょっと迷惑だったけど)。振り返ると本当に良い時代だったなあと思う。ものも少なかったし、技術革新がダイナミックな動きをしていた時代なので、みな新鮮だった。そして拡張の時代だったので、いろいろな部分で余裕があったと言えよう。

 ところが、現在は同様のことをやろうものならヒステリックに抗議が来るだろう。急速に人間も物も増えすぎ、日本の自然もかなり危ない状況になってきて、地球レベルの環境保護意識が高まった。
 環境に対する意識が高くなっていることは良いことだと思う。しかしローカルに見れば、こういうオフロード遊びよりも、ゴルフ場、霊園、スキー場があることの方がよっぽどの環境破壊(飛行機で飛んでみれば解るでしょ)だし、地方に金を落とすための余計な林道建設、ダムや堰堤建設の方が環境にとってよっぽど脅威だ。その目をそらすために、オフローダーがスケープゴートにされ、叩かれる状況がある。自分たちの生活に関わることが少ないもの、弱い立場のものを狙うのだな。先のゴルフ場以下のものが無くなると困る人間が多いし、社会や経済機構がそういうように出来上がってしまっているからだ。だからといって、昔のようにオフロードで何をやっても良いというわけではないが、ただ、目先を違う方向に反らされないように、根本の問題をしっかりと捉えなくてはいけないと思う。自分も元オフローダーとして、環境破壊に少なからず関与してしまった事実を受けとめ、生き方を変えるよう試行錯誤の最中である。

 そして、さらに問題なのは、我々の生活が自国の自然だけでなく、他国の自然を犠牲にして成り立っているということ。森林伐採の問題、自然を犠牲にした他国の工業化の問題、直接間接を問わず日本のエネルギーの無駄な消費は地球を食い潰している。

 知り合いの世界各地をエクスペディションしている人間が言っていた。飛行機で成田に帰ってくる時に見える、茂原辺りから八王子まで延々続くような巨大な都市は、世界のどこでも見たことがないと。そして、世界各地のネイティブの質素な生活を日本人の殆どは知らない、また我々日本人がそういう人達の犠牲に生活が成り立っているか、エネルギーの搾取の循環を知らなさ過ぎると。日本に売る生産物を作るために、現地の自然を食い潰したり、現地の人の健康を損ねるようなシステムの上に成り立っている話は枚挙にいとまがない。

 日本の山は、手入れをされないで放置された針葉樹の植林が沢山あり、その多くの山は死んでいる。その山を活かさないで、金が安くて済むというだけで、他国の自然を犠牲にする時代はもう過ぎたのだ。もう地球全体で喘いでいる状態になってしまったことをしっかりと認識しなければいけない時になってしまった。

 100年も昔と違って、先進国では人間一人一人の扱うエネルギー量が、とてつもなく大きいものになっている。日本人一人が生きていくのに使う資源、エネルギー量がどれだけのものであろう。世界中のどんな国と比べても、とてつもなく無駄な消費が多い。
スーパーへ行き食料を買ってきては、その余分な包装ガックリする。トレイなどは洗って回収に出すにしても、その他、プラスティック容器、ラップ類など如何に無駄が多いことか。ゴミを捨てながら本当に悲しくなる。自分が子供の頃はそんなもの使わなくてもみんな暮らしていたし、いまより旨いものを食べていた。
 それは現代人が、自分自身が楽に痛い目に遭わないように、自分たちを守る道具と施設、機構を作りすぎたのだ。それも自分たちが生活させて貰っている自然を破壊しながらだ。
 そして、その道具が自分たちを守ってくれるということが幻影であることに気がついていない。自分たちの首を絞めていることに気がついていない。科学が何れ解決策を生み出してくれるだろうという他力本願の下に。

 狭い世界で生きてきた我々の幼稚な想像力による気づきの無さ、自己確立されていないが故の無責任さ、それらにより我々一人一人が間接的にであれ、地球上の暴力的破壊に荷担しているのである。そして我々の集合無意識の部分はそれを知っている。
1996/8記


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