2023.01.21

    『すべてのことはメッセージ・小説ユーミン』山内マリコ(マガジンハウス)を借りてきて読んだ。

    小説というよりドキュメンタリーという感じで、荒井由実がユーミンになるまでの歴史的・家系的背景を余すことなく説明している。母が引き継いだ呉服屋をその婿が一生懸命頑張って事業拡張していく。母はモダンガールとして遊びまくっている。次女だった由実は父や母の道楽に同伴してさまざまな演芸を鑑賞したり、ピアノを習ったり、三味線を習ったりで感性を磨いていく。ピアノのコードに対して何やら神秘的な色感覚を覚える。立教女学院はカトリック系の小中高一貫校で、ここでバッハの「トッカータとフーガ」に感銘を受ける。当時の洋楽も浴びるように聴いて心にしまいこむ。

    1966年、僕がちょうど京都の予備校で勉強していた年、日本にビートルズがやってきた。日本の洋楽はまだ翻訳の段階だった。若者はベンチャーズ型(楽器だけ)からビートルズの真似をしてヴォーカルを立てるようになり、グループサウンズと呼ばれた。そして、その中から沢田研二が、一つ前のエルビスプレスリーに開眼してロックを始めた内田裕也に誘われて、「タイガーズ」として売り出した。

    13歳の由実は沢田研二に惚れた。校則違反であるが、放課後は真っ直ぐ新宿に行って流行のグループサウンズのステージを聴いて回った。「スパイダーズ」のかまやつひろしに輸入盤の LP をプレゼントしている。日系二世を父に持つマギーに連れられて、ベトナム戦争で忙しい立川基地のランドリーゲートを潜りぬけて、アメリカのレコードを買っていたのである。お小遣いは無限だった。マギーの家は完全にアメリカ式だった。そして、レコードでプロコル・ハルムの「青い影」を聴いた。どこかで聴いたことのある感じがバッハの「G線上のアリア」のコード進行に拠ると気づいた時、自分にも曲が作れると思った。メロディはコードに導かれて浮かんでくるのである。それに適当な言葉を載せる。「どんな運命が二人を遠ざけたの、、、」後に「翳りゆく部屋」となった「マホガニーの部屋」である。

    由実は臆することなく行動範囲を拡げていき、ポップスの最先端の人達と交流する。音楽オタクの少女として扱われるのであるが、同じレベル(音楽家)とは見られない。当時、楽器演奏や作曲は男の仕事であった。1969年、「反抗」の時代が始まる。サイケデリック、インド哲学、反戦フォーク。タイガースは解散した。フィンガーズのベーシスト、北京生まれで香港から来たシー・ユー・チェンのガールフレンドのプーちゃんに付き合って、アメリカに行ってきたシー・ユーからウッドストックの話を聞いた。夜毎、家を抜け出して東京の各地で遊んだ。

    イタリアレストラン「キャンティ」には当時の先端的な芸能人が集まっていたが、1969年に、オーナー川添浩史の妻「タンタン」川添梶子の幼馴染がレース事故で死亡したときから、セレブの雰囲気が急変して、次の世代、ヒッピー世代に引き継がれていて、そこに由実は入り込んだ。ちょうど、アメリカでヒットしたミュージカル「ヘアー」の日本版が上演間近であった。しかし、その交渉役川添浩史は翌年1月に死亡。(彼はまた大阪万博のプロデューサーでもあった。)日本での「ヘアー」はアメリカでの「ヘアー」の本質的な処(ヒッピーの長髪が徴兵によって刈られる)が認識されず、全裸になったとかいうのが世間で騒がれただけであったが、若い人たちには伝わった。由実は何回も観て、楽屋で小坂忠に出会った。彼の新しいバンドは彼自身が「ヘアー」に採用されたためにヴォーカルを交替して「はっぴーえんど」となった。細野晴臣、松本隆、大瀧詠一、鈴木茂。「ヘアー」東京公演の千秋楽は出演者の大麻所持による逮捕劇で終わった。台湾のパスポートを持つシー・ユーだけは保釈されなかった為、プーと由実は横浜まで面会に通った。帰りに寄ったのが「ソーダ水の中を貨物船が通る」で有名な「ドルフィン」である。

    シー・ユーの忠告に従って、由実は、英語やピアノや三味線学習用に買ったものの物置にしまってあったオープンリールテープレコーダーで「マホガニーの部屋」を録音して、あちこちに持ち込んで聴いてもらった。東京放送の「ヤング720」という番組で、由実のピアノと東郷昌和のヴォーカル、高橋幸弘のドラムで放映されたが、しっくりこなかった。

    1970年、よど号ハイジャック事件の年、美大受験を目指す16歳の由実は夜遊びを辞めてデッサンの勉強に明け暮れるようになった。お茶の水美術学院に通った。

    立教女学院学園祭恒例の「受胎告知」の舞台を任された由実は「ヘアー」風に仕上げて驚かせた。天使は実際に上空に登場し、ストロボが光り、マリアは「妊娠なんて困るわ、どうしましょう」という。お礼に礼拝堂のパイプオルガンを弾いてもらって「マホガニーの部屋」を録音しなおした。プロコル・ハルム風になって満足した。

    1971年、録音しなおした「マホガニーの部屋」、更に「ベルベット・イースター」「返事はいらない」のテープがシー・ユーの紹介で、川添象郎→村井邦彦と渡って、フィリップス・レコードにまで届いた。本庄和治は聴いたことの無い音に驚いた。ピアノの演奏を由実にやらせた。また作曲家志望と言いながらも声質はフランソワーズ・アルディ風で、自作曲に合っていると思った。彼は村井邦彦のアルファミュージックに所属してはどうかと薦めた。

    ヴォーカルの加橋かつみとのツーショット写真が「セブンティーン」に掲載されて、学校で大騒ぎになった。母も「芸人」にだけはなるな、と言って、「作曲家になるのなら音大に進学しなさい」といったが、由実は音楽の理論に縛られると自分の感性が潰されると感じて、どうしても日本画をやる、と言った。

    東京芸大には落ちて、武蔵野美大に受かった。2年前、小学校で由実が心無い言葉で傷つけた水上君の死を知った。ひこうき雲を見ながらそのことを思い出して、大人になることで人は美しい夢から現実に目覚めるとすれば、早く死ぬのも悪くない、という感傷に浸ってしまった。こうして生まれた「ひこうき雲」を村井邦彦は雪村いずみに歌わせてみたがしっくりこない。当時アメリカではキャロル・キングがシンガーソングライターとして売り出し始めていたこともあり、結局本人が歌うことになった。新しい感覚の歌だから由実の「変な声」を試してみるしかない。プロデューサーはかまやつひろし。

    私の恋心は私だけのものだからあなたは関係ない、という「返事はいらない」に見られるように、由実の歌は女の子の現実感を始めて表に出した歌詞でもあった。このシングルは売れなかったが、1972年、「ひこうき雲」「紙ヒコーキ」「雨の街を」ピアノ弾き語りで歌った。絵画的で風景が見える。作曲としても素人なのに理にかなっている。言葉は暗いのに音楽は明るい。フォークとは明らかに違う。勿論歌謡曲とも言えない。編曲演奏は細野晴臣に任されて、彼はキャメルママを招集したが、このアメリカ風のロックバンドに松任谷正隆が追加された。ピアノは由実が担当するのだが、16チャンネルもあるので、松任谷は他のキーボードを担当した。アレンジはその場でみんなで作り上げるヘッドアレンジである。「ひこうき雲」は難航した。ディレクターの有賀恒夫は由実の声のビブラートが気に入らなかったので、ヴォーカルレッスンに通わせてノンビブラートを習得させた。キーボードの松任谷正隆はいつの間にか由実の世話係になっていた。

    アルバム「ひこうき雲」は1973年11月に発売された。正隆とは1976年11月に結婚した。

    関係無いけれど、僕がユーミンを知ったのが何時かは記憶にない。1981年にカナダから帰ってきたときには「ニュー・ミュージック」という言葉を聞いて何のことだろう?と思ったが、ユーミンのような歌のことだった。結構好きだった。女の子が甘えているような感じの声質と展開の面白いメロディに惹かれたが、当時の僕はジャズや浅川マキに夢中だった。その後、通勤の車の中でもっぱらユーミンを聴いていて、歌詞の面白さ(新しさ)に気づいた。聞き飽きたころ中島みゆきを聴いてみたが、その毒の強さに引いてしまった。

    ユーミンの誕生物語を見ていると、その背景には、当時の女子としては珍しくも自由に才能を伸ばせる環境があったのだということが判る。2000年代に入ってから、スポーツや音楽やバレーなどで日本人の活躍が目立つのは、そういうことなのだと納得する。日本の中流層家庭に余裕が出来た、ということを意味している。1960-2010年という高度成長→経済的停滞の時代は同時に成功者にとっての「ゆとりの時代」でもあった。もう一つ感じるのは、彼女の好奇心の向かう先は当時の日本にとっての異文化(ヨーロッパ的なもの)だった、ということである。現在の日本ではどうなのだろうか?例えば中世での茶道が常に生死をかけた闘いをしている武士の現実を背景にして生まれたように、日本的現実に立脚した文化表現が生まれているかどうか?その辺が落ちこぼれた人達に共感してきた中島みゆきとの違いかもしれない。

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