2023.08.26
中島みゆきが気に入って主題歌『心音』を書いたという岡田磨里のアニメ原作『アリスとテレスのまぼろし工場』(角川文庫)を読んだ。製鉄工場の城下町見伏の菊入政宗と佐上睦実という高校生が主人公である。卒業後、2人は結婚してその子供が沙希である。まだ幼い頃沙希は行方不明になり、諦めていた頃、10年後にその後事故で廃棄された製鉄所の第5高炉で見つかる。この10年間の現実世界の物語を幻想の世界から描いたのがこの小説である。

      まだ政宗も
睦実も高校生の頃、製鉄所で大きな爆発があって、それを契機に見伏の町は閉ざされて時間も流れなくなった。同じような日常の繰り返しというのが幻想の世界である。その世界では佐上睦実の父である衛が神主として世界の解釈をしている。曰く、我々は神罰を受けているのだ。この世界に住む人は心の裂け目を作ってはいけない。裂け目を作るとそれを神機狼が修復しようとしてその人が消えてしまう。裂け目はこの幻想世界のあちこちに生じてそこからは現実世界が見える。神機狼は裂け目を閉じて人々に現実世界を見せないようにしているのである。その幻想の世界に現実世界から飛び込んできたのが沙希であったが、政宗の父昭宗は衛に相談して、沙希を第5高炉に閉じ込めることにした。彼女は狼少女のようにして育てられた。やがて、その世話を睦実が担当し、政宗が巻き込まれる。沙希は政宗によって五美と名付けられる。3人は現実世界では親子なのであるが、勿論年齢がずれているので、最初はそのことに気づかない。物語の大部分はその顛末であるが、最後には沙希(五美)政宗と睦実によって動き出した列車に載せられて現実世界へ送り届けられる。

      この組み立ての暗示するものはまあ明らかだろう。3年間続いたコロナ禍によって時間が止まったような感覚がある。ウクライナ戦争はまるで戦国時代に戻ったような既視感をもたらす。多分、「幻想」の側に閉じこもる人と「現実」を生きている人が居る。幻想から解放されて現実に戻る契機として、中島みゆきが提案しているのが「心音」である。そういえば、この間のアルバムでも「体温」という歌があった。「体温だけが頼りなの。。。」頭で何を想像しようとも、身体は生きていこうとする。そこに気づいた方が良い、ということだろう。


      先日ラジオで公表された『心音』の歌詞。「君だけで行け」の「君」は「沙希」のことだろう。「僕」は「政宗」のことだろう。

 空を信じられるか?風は信じられるか?
 味方だろうか?悪意だろうか?言葉を呑んだ。

 あれは幻の空、あれは幻の街、
 ひりつく日々も眩しい日々も閉じ込める夜。

 誰も触れない、誰も問わない、時は進まない。
 でも聞こえてしまったんだ、僕の中の心音。

 綺麗で醜い嘘たちを僕はここで抱きとめながら、
 僕は本当の僕へと、祈りのように叫ぶだろう。
 未来へ、未来へ、未来へ君だけで行け。

 窓は窓にすぎない。そこに雪は降らない。
 雪色の絵の中の出来事、冷たくはない。

 考えない、どうでもいい、夜が塗り込める。
 でも渡さない、かすかな熱、僕の中の心音。

 綻びつつある世界の瀬戸際で愛を振り絞り、
 僕は現実の僕へと願いのように叫ぶだろう。
 未来へ、未来へ、未来へ君だけで行け。

 綺麗で醜い嘘たちを僕はここで抱きとめながら、
 僕は本当の僕へと、祈りのように叫ぶだろう。
 未来へ、未来へ、未来へ君だけで行け。
 未来へ、未来へ、未来へ君だけで行け。

9月22日、映画を観てきた。最後の列車を使った現実世界への脱出劇の部分がドラマティックに映像表現されていて、なかなか感動的であった。沙希(五美)と睦美が現実世界の列車に乗って幻想世界から現実世界へと踏み越えていくと、沙希(五美)は変わらないが、幻想としての佐上睦実は次第に影が薄くなって、最後は列車から飛び降りて幻想世界に戻る。この辺が面白い。二つの世界の間に裂け目が生じて、主人公達がすり抜ける。沙希(五美)は政宗が好きになって、現実世界に行きたがらないのだが、睦実は「政宗は自分のものだ」と主張して、沙希(五美)だけを現実世界に残す。「未来へ君だけで行け」ということである。だから、歌詞での「君だけで行け」という語り手は政宗ではなく睦美である。

9月25日、『アリスとテレスのまぼろし工場』についての批評が FaceBook で紹介されていたので、読んだ。この作品はアニメーション作品としては珍しく人間論に踏み込んだものらしい。その辺は普段アニメーションを見ないのでよく判らないが、中島みゆきが注目したというのもそういうことかもしれない。批評の趣旨としては、作家岡田磨里が現在のアニメーション業界の在り方を批判したものだという。確かにアニメーションの登場人物には生身の人間としての時間経過が許されていない。何年もの間連作が続くのに主人公は大人にならない。その在り方が神機によって閉じ込められた町によって表現されているという。そこから脱出する力は政宗と睦美の間に生じる生身の恋心である。だから、アニメとしては異様なまでにしつこく接吻と抱擁の場面が描かれている。

なるほどそういう見方もあるのか、と思った。確かに僕のような老人の目から見ると、若い人たちのゲームやアニメ好きは異様に見えてしまう。コンピュータ技術によって、仮想世界を作り出すことが容易になってしまい、人々は生身の映像よりも仮想世界による表現の方が近しいものになっている。戦争ですら映像の世界のように感じてしまう。その中で失われたものが身体感覚である。そのことへの危機感が岡田磨里と中島みゆきの間で共有されたということだろう。

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