2023.08.19
    最近ある人のランボー論の原稿を見せていただく機会があった。詩に書かれた意味内容に素直に応じていて
、精神分析学的解釈であった。それはランボーの情緒的な幼さであるという見方もできるだろう。何しろまだ20歳前の頭でっかちの青年(少年?)なのだから。ランボーの求めた愛には攻撃的な愛と包み込まれる愛がある、というのだが、大人の愛には包み込む愛もあると思う。(参考:中島みゆき『それは愛ではない』)ランボーにはそれが欠けていた。実際の処彼が詩を書いたのは15歳から20歳までであって、彼はあたかも成人へのステップのようにして詩を棄てているのだから。しかし、後で見るように、彼は愛に関しては結局成人になり切れなかったのではあるが。。。

    ランボーは詩の形式でさんざん悪態をつきながら、Illuminations で救われたような感じがする。というか、救われた部分を集めた詩集が Illuminations である。こうした悪態は中島みゆきにも見られる。初期の3枚、『愛していると云ってくれ』、『親愛なる者へ』、『生きていてもいいですか』あたりは悪態の限りである。例えば、『裸足で走れ』は新左翼リーダーの自己欺瞞を暴いた詩。。。これは更に『Miss M』や 『36.5℃』でも主題となっている。その後の中島みゆきは、良く知られているように、また最初からそういう要素があったのだが、「包み込む愛」を歌っているところがランボーとは異なる。

    僕がランボーを読んだのは学生時代、ちょうどベトナム反戦運動が盛んだった頃、55年位も前である。その頃読んだ本(Classiques Garnier 版の "Oeuvres de Rimbaud" 、Suzanne Bernard による解説付き)を引っ張り出して詩の内容を確認していたのだが、フランス語はかなり忘れているので、ネットを探すと、ランボーについてのかなり役に立ちそうなサイトを見つけた。翻訳は勿論、原詩もその朗読へのリンクもある。この人はもう50年間もランボーを読んできたということであるから、僕と同じくらいの年代だろう。

    その後僕のランボー熱が冷めてひと段落してから読んだのが竹内健の『ランボーの沈黙』(紀伊国屋新書、1970年)である。本棚の片隅で見つかったので再読した。面白いので一気に読んでしまった。詩を辞めてからのランボーの生き様の側から5年間の詩の世界を照らしだそう、という試みである。以下内容をまとめてみた。

    1875年に詩を辞めてからのランボーは冬の間故郷で語学や科学技術の勉強をして、春になると憧れの『南方』に旅立ち、滅茶苦茶な旅(例えば雪のアルプスを徒歩で越えている)の末にイタリア現地で倒れて本国送還となる。これを毎年繰り返したのである。まるで彼の詩の世界を現実に生きているかのようである。ランボーの幼友達やヴェルレーヌはこのようなランボーを呆れて観察して戯画化している。

    著者は、ランボーにとっては詩人を目指したこととこのような冒険と一攫千金への傾倒は首尾一貫していると見ていて、その背景に彼の父親への憧れがあるという。彼の父親は立派な軍人で多くの功を立てて、『南方』での武勇も誉れ高い。ただ、母親とは早くに離婚して別居中であった。また、何かに夢中になっては直ぐに飽きてしまってまた別の夢を追いかける、というのはランボーの基本的性格であり、ヴェルレーヌとのゴタゴタ(同性愛と言われている)に嫌気がさして詩を辞めたのも単にそういうことである。

    彼がやっとある程度の成功を収めた(職を得た)のはキプロスにおいて石工達の監督をやったとき(1880年)であったが、この時も雇い主と喧嘩をして、更にスエズから紅海を南下して、途中で救われた人の紹介で、アラビア半島南端のアデンで『バルディ商会』に雇われた。しかし、彼の夢はアフリカにあった。子供の頃に読んだアフリカ冒険譚が彼の夢であった。アデンの対岸ゼイラから更に奥地にハラルという(当時はイスラム圏)街があり、1880年暮れにそこに支店を作って商売を始めたのは彼にとって単なる冒険の口実であった。

    この間、ずっとであるが、故郷の母や友人とは深い関係を保っている。何故なら必要な書物や機材等は彼らを通じて本国から送って貰うしかなかったからである。何よりも、こういう事が仔細に判っているのは残された彼の手紙と友人の証言記録があるからである。(ただ、この年初めてランボーは本国に帰らなかった。)

    ハラルでもランボーは商人として優秀であったが、やがて現地人との諍いが元でアデンに返されてしまう。契約期間の3年がまだ来達だったし、彼の仕事の手際よさが信頼されていたからである。(城塞都市ハラルには今でもランボーハウスが残っている。 )

    雇い主のアルフレッド・バルディはフランス地理学会に属していたので、ランボーをつなぎとめる為にハラルの東方地域「オガデン地方」の探検報告の話を持ち掛けて、ランボーはそれに乗った。ランボーは当時最新鋭の写真機までも入手して準備をした。1883年、結果としてその報告(詩の世界とは無縁な客観的記述)は2ヶ月後に地理学会誌に掲載された。当時のフランスは植民地獲得競争に遅れていた為に、ランボーのような冒険家が必要だったのである。

    1884年、アフリカでのトルコ、エジプト、イギリスを巻き込んだ戦争状態に直面して、バルディー商会は一旦倒産したが、ランボーは本国に帰ったバルディの約束を頼りにしばらくの間アデンに滞在する。このころ、ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』がパリで出版されてランボーの名が知られるようになった。(ところで、フランスの百科事典『プチ・ラルース』において、「天才」と称されている人物はゲーテとナポレオンとランボーだけだそうである。)

    30歳のランボーは既に老化していた。著者の要約がなかなか鋭いので引用する。

    << ランボーにとって、青春とは常に「一度あった」と信ずるものである。それは振り返って見るべきものである。そして彼は既に18歳までに、己の架空の青春を振り返りすぎた。それまでのランボーが現実に所有していたのは、あくまで一つの少年期であり、この少年期は、あの丸坊主の日(妹に先立たれた日1875.12.18)から老年期へと癒着する。その日、ランボーの意識の深奥で、老化の第一ページがめくられた。夢は青年の特権ではない。少年は大成を夢見、そして老年は大成すべき少年であった己れを夢見る。東方へ、南方へ、ザンジバルへ、フロリダへ行くべきだった自分。万能技師か万能博士か、はたまた船乗りか探検家か、その何れにも少年の夢が通じていた。われわれはランボーが文学を棄てたという。だが、もしかしたら、彼が『地獄の一季節』とともにかなぐり棄てたものは己れの青春期であって、詩の放棄はあくまでその付随的結果に他ならなかったのではあるまいか?>>

    1885年、ランボーは戦乱のさなかにあったアビシニア(エチオピア)西部(非イスラム圏)のメネリック王向けに武器の輸出をするという計画に乗った。しかし、武器を入手した後にフランス政府から武器輸出禁止令が出た。その後イタリアが抜け駆けをするという情報を流して政府から許可を得たものの相棒が次々と病に倒れた。それでも、1886年の暮れに出発。しかし、1887年、苦労の末辿り着いたアントットでメネリック王の策略に嵌められて、銃を想定価格の1/4に値切られ、既に死亡していた相棒の借金やその相棒からの遺産相続騒動に巻き込まれて、殆ど何も得られず、その支払いも王の弟の居るハラルで受け取ることになった。

    ハラルへの道程は新しく開拓したものだったので、同行した探検家ボロルと共に報告書を地理学会誌やカイロの新聞に載せている。その見解が元になって後にアントットとハラルを結ぶ鉄道が敷かれた。また、多くのヨーロッパ人を抱えていたメネリック王がいずれヨーロッパを敵に回すだろうという予想は当たった。ハラルはメネリック王の軍隊に荒らされていたが、ランボーは首尾よく銃の代金を回収できた。

    ともあれランボーはアデンに帰り着き、暑熱を避けた療養の為にカイロに向かい、今度はザンジバルを目指して出立したが、中継地アデンで滞在中に再び武器輸出を思い立って失敗、更には奴隷貿易にも手を染めたのではないかという説があるがよく判らない。1888年には再びハラルで働くことになった。メネリックがアビシニアの国王となり、彼は国の近代化を推進し、それに便乗する形でランボーの商売も上手く進展した。しかしランボーの身体は病にむしばまれていた。母親は心配して帰国を促すがランボーは意地を張る。ランボーの奇妙な妄執に彼が兵役義務を果たしていないから帰国したら憲兵に逮捕されるのではないか?というものがある。実際は兄が5年間兵役に服したので免除されているのだが。結局ランボーは兵役義務を父親のようになる一種の成人の証のように捉えていたのではないか。

    1891年ランボーは右足の肉腫が悪化して寝込んでしまい、特別な担架を作らせてアデンに渡り、しばらく治療してから帰国の途に就いた。マルセイユの病院で右脚を切断。何とか松葉杖で歩けるようになったランボーは故郷に帰ったが、寒くなる秋を迎えて再びマルセーユの病院に戻った。末の妹のイザベルだけが彼に付き添った。最後のランボー(37歳)は錯乱の中にあり、意識はハラルやアデンにあった。イザベルはランボーが最後に改宗したと言っているが、これは多分勘違いだったのではないか、というのが著者の見解である。

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