2023.11.17

      貸し出し延長してやっと『脳とAI-言語と思考へのアプローチ』酒井邦嘉他(中央公論新社)を読み終えた。酒井氏は生成文法信者でその根拠を脳神経構造に見出そうとしている人である。以前にも読んだことがある。この本は対談集で、その相手は、羽生善治、相原一幸、鶴岡慶雅、福井直樹、辻子美保子。鶴岡氏はゲーム用AIの開発者、福井氏はばりばりの生成文法学者、辻子氏も言語学者である。2020年頃の対談で、ちょうど深層学習を使った言語生成技術GPT-2が登場してきて、生成文法理論の存在意義が問われたことに対しての解答を出そうとしているのであろう。元々、1950年代の認知科学誕生時には、人工知能神経科学言語学は問題意識を共有していたのだが、その後それぞれが独自に発展した事によって、関係が希薄になってきている。そろそろお互いの成果を統合すべきなのだ、というのが結論なのかもしれない。

    僕は神経科学については多少勉強したし、人工知能についても最近勉強しているのだが、言語学の主流となっている生成文法理論については全く無知だし、興味もないので、議論されていることがピンとは来なかったが、この本の最後の方の福井さんとの対談での生成文法の由来の説明が目新しかった。下記に要約する。ただ、これは生成文法信者の解説であるので、僕としては何とも言えない。

    ヨーロッパでは、19世紀に、物理学の成功に促されて、人文科学的現象に対しても背後に何らかの法則がある筈だという見方がされるようになった。心理現象に対して深層心理として物語を想定した精神分析や言語の構造に対して歴史的な由来を想定したアーリア系言語論等。このような考え方に反発して生まれたのが、行動主義心理学とか構造主義的言語学であり、20世紀のアメリカの人文系学問の主流となっていた。観察可能なデータを集めて、それらの関係を明らかにする、という事、それを次世代に継承していく。実証できない深層の原理は考えない。徹底した経験主義である。

    チョムスキーという人は構造主義的言語学に対して、表層で観察される言語の構造の背後には法則性がある、という立場を採った。物理学のように単純な原理で全てを説明することを科学的言語学と考えた。「現象の背後にあるきれいで深いものを見たいという欲望は、なかなか物理学から入らないと湧いてこないですね。(福井)」チョムスキーは20歳でアインシュタインの最後の助手だった数理物理学者であるブルリア・カウフマンと結婚していて、彼女からの影響がかなりあったらしい。この壮大な研究課題は、彼の人生において、いくつかのステップ経て実現に向かっていて、まだ実現はしていない。

    第一のステップは「観察的妥当性」である。コーパスを作れば使われている言語が綺麗に整理できる。これが構造主義言語学のレベルであるという。しかし、観察的妥当な文章を作ってみても、意味のない文章はいくらでもできる。その文章の構造とその解釈まで説明しなくてはならない。これは人間の脳内のモデルに依拠することになる。これが「記述的妥当性」である。意味があるかどうか?意味があるような文章を作る能力とは何だろう?ということである。「再帰関数論」というのが使われているらしい。無限の階層構造が可能になる。よくは判らない。。。

    しかし、その段階においても、例えば知らない外国語の意味は不明である。どんな言語においても、そこに生まれてくればその言語を習得するのだから、その限りにおいて記述的妥当性が成り立つ。言語学が説明の学として成立するためには、その背後にある人間に普遍的な能力を明らかにしなくてはならない。それが「説明的妥当性」であり、「普遍文法」ということになる。チョムスキーがこの段階に達したのが1980年代である。福井氏が留学した頃である。普遍文法にはパラメータがあって、それを学習によって確定、選択することで、個別言語の文法が得られる、という構造らしい。個別文法を何の前提も無しに学習するという考え方は、子供達が簡単に言語を習得する事実を説明できない。

    福井氏がやっていることは、その普遍文法にある余剰な要素を取り除いて、原理を極小化することらしい。結果的に判ってきたことは、言語という計算システムが最適性原理に従って意味と音を結び付けている、という単純な構造であった。これはそもそも人間は何故普遍文法という言語機能を持つに至ったか、ということを説明する。つまり「生物的妥当性」にまで進む可能性があることを意味している。ここまで来ると、言語学は神経科学と結びつくことになる。福井氏と酒井氏の見解では、現在の生成AIにおける言語モデルはまだ初歩の「観察的妥当性」に留まっている、ということである。

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