原始・古代から平安時代
鎌倉・南北朝時代
室町と戦国・安土桃山時代

原始・古代から平安時代

鎌倉街道上道の歴史的時代の流れを見てみましょう。
鎌倉街道は鎌倉幕府成立から戦国時代の終わりまでの約400年間が街道として盛んであったわけであります。 一口に400年間と言ってもけっこう長いものです。 街道沿いに多くある史跡は歴史的に見ていつ頃のどんな史跡なのかは、 ある程度の知識がないと訪ねて見ても興味が沸かなかったり感動することも少ないのではないかと思われます。そこで大ざっぱに簡単ではありますが 鎌倉街道沿いの史跡の視点ということで、鎌倉時代以前の古代から戦国時代の終わりまでの歴史を振り返ってみましょう。

先土器時代に於いて関東・中部地方の遺跡は内陸に集中しているようです。信州和田峠の黒曜石が群馬・埼玉県の山麓から出土していて、このような遠い昔に交易の道が存在していたようであります。埼玉県では大昔に於いて秩父地方の山間部で生活をしていた人々がいたようです。太古の時代に於いては狩猟が生活の基本であったことから考えて、動物達を 追いかけるには平地よりも 山地の方が都合がよかったのでしょう。縄文時代になると人々は集落を形成し、集落と集落を結ぶ道が造られて行きます。縄文時代の前期は気候が温暖で東京湾は埼玉県の中部辺りまで海岸線が入り込み、その頃の海岸線(県内では主に南部)付近には数多く貝塚が確認されています。やがて弥生時代になると農耕が本格的に行われるようになり、人々は山地から低地に移り、集落の造営も発達し、交易も盛んに行われたことでしょう。

そして国造り頃より古代にかけて現在の埼玉県(武蔵の国)は東山道という地理的区分に属し、西国からの 関東の表玄関は碓氷峠あたりであったと考えられています。 確かに古代国家成立当時の遺跡や古墳群は南関東よりも 北関東の群馬県(上野国)あたりの方が圧倒的に多いようです。埼玉県も西の新しい文化などは東海道からではなく 北の方から南へと広まっていったのではないでしょうか。有名な金錯銘鉄剣が出土した稲荷山古墳がある「さきたま古墳郡」をはじめ、県内の主立った古墳群は県の北部に集中しています。 律令国家成立にともない武蔵国の国府(今でいう県庁)が 東京都の府中あたりに築かれました。上野国の国府は現在の前橋市元総社町付近であったようです。 そしてこの二つの国の国府を最短距離で結ぶとみごと鎌倉街道上道と ほぼ一致するのです。このことから国府を結ぶ道が上道の前身であったことが伺われます。

鎌倉街道上道沿いには とにかく古墳が多くあります。その中には明らかに古代のものと思われるものがあります。 特に鎌倉街道上道沿いでは美里町の 広木付近に古墳群が多く確認されていて、 又この付近には古代の寺院跡や『万葉集』関連の史跡である「曝井の遺跡」「大伴部真足女」の遺跡などがあります。鎌倉街道上道沿いには又、 古代の窯跡が多く確認されたいます。 その代表的なものが鳩山町の赤沼瓦窯跡群でこの窯跡で 武蔵国分寺の瓦が確認されているほか、埼玉県下最古級の 現在の坂戸市にあった白鳳寺院である勝呂廃寺の瓦を 焼いたことが判明されています。 鳩山町から笛吹峠を越え 嵐山町の将軍沢に至る付近は窯跡が多く残在しています。

和銅元年(708)に武蔵国の秩父郡より銅が都に献上され年号が和銅となり和同開珎が鋳造されます。中央の大和では和銅3年(710)に藤原京から平城京に遷都されています。その後天平13年(741)に聖武天皇により国分寺造営の詔が出されていて、鎌倉街道上道沿いにあった武藏国に造営された国分寺はその遺構の規模から大和の総国分寺に継ぐ規模であったことが確認されています。

奈良時代の埼玉県は西武の山麓に当時の史跡などが多く残されています。秩父・奥武蔵の山麓には「山の辺の道」と呼ばれる重要な道が上野国へ結んでいたと考えられています。この道は鎌倉街道上道の西側を上道とほぼ並行するように通り、日高市の高麗郡は霊亀2年(716)に高句麗より渡来人を移住させて設けられたと伝えられています。この道の沿線には都幾川村に奈良時代初めの創建と伝える慈光寺や児玉郡神川町の延喜式内社金鑚神社があり、又群馬県内には多胡碑をはじめとした上野三碑などがあり、これらはこの地方の古代研究には欠かせません。

最近東京都のJR中央線西国分寺駅南東側の元国鉄の研修所後地の開発工事にともない先だって遺跡の発掘調査が行われ、 340メートルにも及ぶ古代の 東山道・武蔵路の遺構が発見されたそうです。 この道路跡は府中市の旧甲州街道から国分寺市の 東恋ヶ窪辺りまでの4.2キロメートルあまりが確認されているそうです。この間ほぼ直線で 道幅約12メートルで道の両側に 側溝か確認されているそうです。これは鎌倉街道の道幅と推定されている物よりも 2倍はあるもので鎌倉時代より更に古い 500年前にこれだけの道路が 造られていたということは驚きであります。 この道路遺構はここ以外には所沢市の鎌倉街道上道沿いの 長久寺の西に南陵中学と所沢高校の付近で古代の遺跡が発見されていて ここにも12メートル幅の 側溝付きの道路遺構が確認されていて、 この遺構は先の国分寺市の遺構と繋がる可能性が十分あるのではないかと考えられているそうです。

平安時代の初めに坂上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ蝦夷平定のため関東の武蔵国を通り蝦夷に赴きます。 鎌倉街道上道には田村麻呂に関係した 伝説が所々に伝えられています。 こんなに古い時代の人の伝説があるということは この街道自体がかなり昔から存在したことが伺えます。田村麻呂は奥州に向かうのですが上州、 信濃方面に向かう上道を通ったのでしょうか。

平安時代中頃になると関東の地では武士団が興隆してきて源氏や平氏以外にも武蔵七党などの武士団も登場してきます。 そんな中初めに平将門の乱、続いて平忠常の乱等がおこります。 これらは都の中央集権政治に 不満を持つ関東武士の反乱でしたが じきに鎮圧されてしまいます。続いて奥州で前九年、後三年の役がありこの時源頼義、義家親子の活躍で源氏は関東武士団の棟梁と 仰がれるようになります。

平安末期、保元の乱の少し前に帯刀先生源義賢が鎌倉街道上道中の大蔵(嵐山町)に館を構えます。しかし源氏の嫡流争いで 甥の悪源太義平に急襲されて殺されてしまいます。 この事件は鎌倉街道上道に伝わる もっとも古い記事ですがこの頃にはこの道は街道として かなり形をととのえていたのではないでしょうか。

この後頼朝が鎌倉幕府を開くまでの間は平治の乱により源氏の壊滅状態、平清盛太政大臣、安徳天皇即位、以仁王の挙兵、 治承・寿永の乱と続きます。以仁王の挙兵によって 最初に都に入ったのは源義仲でした。 義仲は帯刀先生源義賢を父とし、義賢が殺された時に 信濃の国の木曽へ逃れていたのでした。義仲は平家一門を都から追い出したのですが、 義仲の兵が都内で強盗を働いり、後白河上皇を 幽閉したりで評判が悪かったので頼朝の命で源範頼、義経らによって近江で討たれてしまいます。頼朝は挙兵後、石橋山の戦いで大庭景親に 破れ房州へ逃れるのですが軍勢を立て直して鎌倉に入り冨士川の戦いで平維盛軍を破り敗走させます。義仲を討った後頼朝は人質として 頼朝の娘の大姫の婿であった義高も殺そうとしますが、計画が大姫に漏れ義高は鎌倉街道上道を北へ逃走して行きますが、やがて入間川で 追っ手に捕まり殺されてしまいます。その後頼朝は追討のターゲットを後白河法皇により判官に任ぜられた義経に向けるのです。 結局義経も奥州で討たれてしまい、 義経をかくまった藤原秀衡泰衡が背後の敵となり 1189年に奥州征伐で奥州藤原氏を滅ぼしています。 頼朝は上京して後白河上皇に右近衛大将に任ぜられますが彼は辞退しています。 彼が望んでいたものは征夷大将軍だったのです。 そして1192年に後白河法皇が死去した後に源頼朝は征夷大将軍に任命されここに鎌倉幕府が 成立したのです。そして鎌倉街道上道は頼朝が 鎌倉に入り東国支配確立のころにはほぼ街道として整備され体制が整えられていたと思われています。

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