天園ハイキングコース-鷲峰山・・その4

大きな浮彫五輪塔のやぐら
百八やぐらの中を下方へ彷徨っていると、突然に大きなやぐらが現れました。左の写真ではわかりずらいのですが、とにかく大きくて迫力があるやぐらです。やぐらの中には、これも大きな五輪塔の浮彫が、表面と左右の壁に三基あります。この五輪塔の表面壁のものは私の背丈以上もあるのです。ただもう凄いの一言と驚きでいっぱいです。百八やぐらの中に大五輪やぐら(第四十六号穴)というのがあると資料に出ていて、このやぐらはおそらくその大五輪やぐらではないかと思われます。

大五輪やぐらの広く大きな内部

左の写真は上の写真のやぐらの表面から見て右側壁に彫られている大きな五輪塔の浮彫です。五輪塔に刻まれている梵字はバン(金剛界大日)でしょうか? はっきりはわかりません。写真からもおわかり頂けると思うのですが、やぐらの奥に対して入口付近には土が大夫体積していて、浮彫の五輪塔の半分以上も埋もれているようです。これだけ埋もれているということは、小さなやぐらは地中に隠されていると考えることができそうです。実際に見た目は小さなやぐらがありその中をのぞいて見ると大変に広く、入口の上部が辛うじて口を開けているやぐらであったりします。そのようなやぐらが幾つか見られるのです。

右の写真のやぐらは資料によると第四十一号穴であると思われます。表面壁に地輪の丈が高い五基の浮彫五輪塔と、左壁に一基、右壁に四基の浮彫五輪塔もあります。

この百八やぐら群に埋葬された人達はどのような人達であったかが興味を引きますが、誰を埋葬したと裏付ける資料は何もないようです。これだけ大規模なやぐらにもかかわらず、何の資料も残っていないとは残念なことです。そんな中で『吾妻鏡』には、死者をこの付近に埋葬した記事があるのを知りました。

『吾妻鏡』建保3年(1215)9月15日条に  「戌の刻、朝光を山城前司行政が家の後山に葬る。相州その所に監臨し給う。」   とあり、佐藤朝光の埋葬を二階堂行政の家の後山で行ったというものです。ここでいう行政の家の後山とは永福寺の裏山とも考えられているところで、それは百八やぐら群付近であるかも知れないのです。ただこれだけの記事では百八やぐらが佐藤朝光を埋葬したものとはいいきれません。しかも仁治の禁令以前の話ということになり、やぐらの発生時期とは内容が合いません。この記事からは百八やぐら付近の山に埋葬したということがうかがわれるだけなのです。

大きな梵字が刻まれたやぐら
上の写真は百八やぐら群の中では最も特徴的なやぐらがある前の平場を撮影したものです。蔓草が幹を覆う杉が林立するところで、さすがにここまで入る人は多くはないようです。かなり荒れた感じのところですが、ここにある大きなやぐら(右の写真)は異様な妖気が漂っているように感じられます。やぐらの入口には大きな岩が侵入者を拒んでいるかのごときに塞いでいますが、それでも強引にやぐら内に入って行くと、そこには威圧されるほどの大きな種子の梵字が壁面に刻まれているのが幾つも見られるのでした。

やぐら壁面に梵字と浮彫石仏が見られるもの

資料と照らし合わせるとこのやぐらは第二十号穴であると思われます。月輪(梵字を囲む円形の輪)に薬研彫りの種字の脇には舟型光背の中に浮彫された石仏(如来か菩薩か摩耗してよくはわからない)があり、その石仏は何かを語りかけているような錯覚を覚えます。また、おむすび形の灯明台と思われる小龕も見られます。資料によるとこのやぐらには納骨用の施設は見られないそうです。

この他、百八やぐら群には壁に線刻の五輪塔を刻んだものや、遺骨や供養塔・石仏などを置いたと思われるひな壇状の遺構が残る珍しいやぐらも見られます。

やぐら群から更に谷の下方へ向かう堀割道を発見しました。この堀割道を行けるところまで行ってみることにしましたが直ぐに平場状のところに出て、そこから先は堀割道は消えていました。平場状のところは何かの施設があったような雰囲気も感じられますが、施設などとは素人の思い込みかも知れません。

覚園寺手前からの天園へのハイキングコースは鎌倉の外へ抜けられる道であったのかどうかは、その先の今泉台の開発で全くわからなくなっていました。この道が外へ通じる街道であったのかは、またの課題として起きましょう。

天園ハイキングコース-鷲峰山     1. 2. 3. 4.  「やぐら」について