鎌倉の谷戸奥部や切通し道、そして山稜部のハイキングコースなどを歩いていると必ず洞穴があるのに気がつきます。この洞穴は「やぐら」と呼ばれる鎌倉とその周辺部に見られる中世の墳墓なのです。鎌倉の柔らかい岩盤を横穴で内部を矩形に切り抜いて、その中に納骨施設や供養塔・石仏などを安置したものです。

やぐらの形

やぐらは二つの矩形平面からなっているのが基本形です。やぐらの手前部は羨道(せんどう)といい、墓へ通じる道を意味しています。羨道の奥の矩形室を玄室(げんしつ)といい、やぐらの中心部分にあたるところです。玄室は奥深く暗い部屋という意味があり、遺骨を埋葬するための納骨施設や本尊仏や供養塔(五輪塔や宝篋印塔など)などが玄室に安置されています。初期のやぐらは玄室と羨道の両者を備えていますが、時代が新しくなると羨道部が失われていくようです。

やぐらは一体だけの遺骨を埋葬するだけではなく、多数の遺骨を葬るものが一般で、そのため奥壁や左右壁に段(壇)を設けて段上に複数の納骨穴を設けるものや、拡張による増設部として龕(がん)と呼ばれる壁面に彫り込まれた穴があるものも見られます。

天井は平天井が一般的ですが、船底形やアーチ形も見られます。本尊仏の真上に天蓋(てんがい)を設けたものもあります。羨道部の天井は奥から入口に傾斜しているものも見られます。

やぐら壁には浮彫の石仏や供養塔が見られるものもあり、また壁には月輪(がつりん)という円形の輪の中に種子(しゅじ)の梵字を刻むものも見られ、さらに刻線の五輪塔などを刻むものもあります。

やぐら内の壁や天井は漆喰で白色に塗られ、その上に壁画が描かれていたものもあったようです。現在で羨道天井に描かれた朱色の垂木が残るものが見られ、また奥壁仏像の光背に日月と雲を描いた痕跡の黒線模様が見られるものもあります。壁面の種子の刻線内には金箔を貼っていた痕跡も見られます。

やぐらのおこり

やぐらは中世の人のお墓です。現代の人のお墓はお寺の墓地や霊園に埋葬されるのが一般的です。古代の偉い人のお墓は古墳などに祀られました。鎌倉のやぐらと似たお墓に古代の人のお墓で横穴式古墳があります。見た目は山肌に穴を切り抜いているということでは同じように見られますが、横穴式古墳とやぐらの決定的な違いは、やぐらが平安時代からの有力者の墳墓堂である法華堂を岩窟の堂とした仏殿であるということです。

やぐらの前身は法華堂

平安時代の王朝貴族はその栄華の陰では末法の時代の到来を恐れていました。末法とは釈迦が入滅後の正法の時代(仏法が成果繁栄する時代)千年を経て、その後に像法の時代(仏法が衰頽する時代)千年が過ぎると、仏の教え自体が修行と證果がともなわない暗黒の時代になるといわれていて、その時代を末法といい、日本では永承7年(1052)が末法の初年と考えられていました。

当時の貴族達は極楽往生を願う阿弥陀信仰や末法の世から人々を救う弥勒信仰にすがり、法華経の功徳を求めて法華三昧堂を建てるようになりますが、こらが墳墓堂としての法華堂の始まりであるといわれます。鎌倉時代の初期の武士の遺骨も法華堂に埋葬されていて、源頼朝の墳墓も法華堂であったといいます。

法華堂からやぐらへ

武士の都である鎌倉は三方が山に囲まれていて平地が少ない土地でした。武士の館や寺院などは狭い谷戸を有効に使用し谷戸の山斜面を垂直に削り平地を広く確保して造られることが多かったのです。執権北条泰時の時代に人口が急増した鎌倉内に墳墓堂としての法華堂を建てることを禁止した令が出されたと考えられています。それを裏付ける資料として九州豊後国の守護である大友氏が府中(現在の大分の市中)に一切墳墓があってはならず、御府内に墳墓があったならその場所の持ち主に命令し改葬させ、その土地は没収するという内容のもので、仁治3年(1242)に出された令で「仁治の禁令」と呼ばれています。

大友氏が出した法令の中に幕府の法令をそのまま適用した例が見られ、このことから鎌倉でも平地に墳墓堂を造ることが禁止されるようになり、その対策として考えだされたのが山稜部の山肌の洞穴に法華堂を似たてたやぐらが考案されたというものです。また、単に平地の確保のためだけはなく、鎌倉が都市として整った頃に都の中に墓地を造ることを禁止したのは、幕府が平城京や平安京にならったものであるという考え方もあるようです。平城京や平安京でも都の中に墓地を造ることを禁止した法令があったそうです。

やぐらの羨道と玄室
漆喰が残る壁面と本尊の光背

羨道の天井に描かれた朱色の垂木
玄室の三方段(壇)

法華堂がやぐらの前身と考えられる理由

横穴式古墳や石窟寺院という、やぐらに似た洞穴がやぐらのヒントともなったと考えられる説も当然ありますが、やぐらそのものの構造を調べていくと木造墳墓堂(法華堂)としての代用物と思われる備え物がみられます。

例えばやぐら内部に木の柱や桁が組まれていたと考えられる穴や溝が見られるものです。また壁面天井近くには長押と思われる施設が見られるやぐらもあり、長押上には納骨施設も確認できこれは律宗の影響を受けているといわれます。更にやぐら内部には漆喰を塗り固めて装飾していたのも木造の建築からの影響といいます。

天園ハイキングコースにある十王岩の尾根南面にある「朱垂木やぐら」は羨道部天井に現在でも朱色の垂木(屋根板をささえる、むねから軒に渡す木列)が描かれているのが見られ、やぐらが木造墳墓堂と同じ性格のものである代表的な例です。また羨道部付近には左右壁に扉が取り付けられていたと思われている穴が天井や床によく見られます。そして墳墓堂の本尊にあたる像や供養塔などがやぐらの玄室内に祀られていて、玄室内の奥壁や左右壁には納骨用のためと思われる段が造られているものがみられ、これらの構造は明らかに横穴古墳とは性格がことなるものなのです。

このように墳墓堂の代用を意識して造られているやぐらは初期のものにその特徴がよく見られるようで、これらの事柄からやぐらの前身が法華堂であるといわれているのです。

壁面に彫刻された種子(梵字)
扉を取り付けたと思われる穴

遺骨を埋葬したと思われる穴
ひな段状に堀の越された段(壇)

やぐらの語源

はっきりしたことはわかりません。現在では平仮名でやぐらと書きますが、「矢倉」「屋蔵」「窟」「岩倉」「谷戸倉」などの漢字が宛てられているようです。現在ではやぐらはその性格から墳墓であるため「矢倉」は宛てるべきではないといいます。『新編鎌倉志』の正覚寺の項の三浦道寸城跡につぎのようにあります。
「里人、光明寺の南方の山を道寸が城跡なりと指し示す。則此處へ相続で同所也。俗にくらがりやぐらと云ふ。総じて鎌倉の俚語に、岩窟をやぐらと云なり。」
『新編鎌倉志』が記されたころには鎌倉の岩窟のことをやぐらと呼んでいたようです。『鎌倉覧勝考』の岩窟の項に「わめき十王窟」「朱たるき窟」「法王の窟」・・・などが載せられ、窟には「ヤグラ」のルビが付されていて、「土人の方言に、是等の窟をさして、何々のやぐらと唱ふること、下皆同じ。」とあります。これらの資料からやぐらに「窟」を宛てるのが妥当ではないかと思われます。

やぐらが造られた時期

鎌倉時代中頃から室町時代末期ごろに造られていて、以後は姿を消してしまいます。鎌倉の人口が急増した執権北条泰時の時代(仁治の禁令の後)から管領上杉氏が鎌倉を追われ、鎌倉が都市として機能が停止するまでの時代がそれにあたります。例外として鎌倉時代の早い時期に造られものも見られるようです。また、寿福寺墓地にある伝源実朝の墓や伝北条政子の墓はやぐらになっていますが、やぐらが造られはじめる時代と墓の主とが時代的に合いません。おもしろいことにやぐらが造られ始める以前(鎌倉時代初期頃)の武士の墓などは鎌倉中にはほとんど見られず(現在見られる鎌倉時代初期の武士の墓は、鎌倉時代以後に造られているのがほとんどです)、仁治の禁令の後に山中のやぐらに改葬させられているともいいます。

やぐらに埋葬された人達はどのよな人

上流階級の人達の墓がやぐらだと考えられています。前述でもふれたようにやぐらは法華堂の代用として造られたという説が有力で、法華堂は上流階級の人達の間で流行したものです。さらにやぐらには火葬骨が埋葬されていて、やぐらが造られた当時は火葬は身分の高い人でないとできなかったようなのです。身分の低い人々は土葬(由比ヶ浜集団墓地など)で埋葬されていたようです。古来中国では偉い人を石窟に葬る例があるそうです。鎌倉時代中頃に中国の偉いお坊さんが鎌倉へやって来ていますので、それらのお坊さんなどがやぐらの発生に影響しているともいいます。やぐらの主として武士、宗教者、文人、やぐら造営にともなった技術者等があげられますが、それらの人達の全てがやぐらに埋葬されたとも限りません。また、やぐらは群をなしていますので、群集やぐらは同族や関係のある人達が葬られていると考えられているようです。そして、一つのやぐらに一人だけ埋葬されているというものではなく、時代を隔てて関係者が同じやぐらに何人も埋葬されている合葬が一般的なやぐらなのです。

やぐらはどのくらいの数があるの

資料によってその数はまちまちで、はっきりいって数はわかりません。鎌倉のやぐらは1200くらいあり、埋もれたものを含めると2000以上という資料もあれば、2000から3000くらいあるという資料も見られ、さらには3000から4000のやぐらがあると紹介しているのも見られます。正確に数えた人はいないのかも知れません。鎌倉以外を例にすると房総半島南部には500ほどのやぐらがあるといいます。

納骨穴と思われる穴が並ぶ
浮彫彫刻の五輪塔

やぐらを拝見するにあたり

最後にやぐらは中世を伝える貴重な文化財です。古都鎌倉といえども街中に鎌倉時代の歴史遺産を見るのは非常に少ないものです。そんな中でやぐらは鎌倉時代を直に接することができる遺構なのです。鎌倉の山中に人目にふれずに埋もれかけているやぐらを拝見するときは敬意を持って接してください。決してやぐらを壊したり、供養塔や石仏を持ち去ったりしないでください。やぐらに接する振る舞いがわるいと鎧武者の亡霊に祟られます。くれぐれもご注意をおこたらずに。中世へのタイムカプセルであるやぐらのほとんどは、その埋葬者が誰であるのか、何故その場所にやぐらがあるのか。これらのやぐらについては文献資料にも出てきません。華やいだ装飾で彩られていたやぐらも現在ではほとんど全てが半ば崩壊しかけていて苔に覆われています。中世の人々の心魂のためにも、また古都鎌倉の歴史解明のためにもこの文化遺産を守っていきたいものです。