藤原実頼 ふじわらのさねより 昌泰三〜天禄一(900-970) 号:小野宮 諡:清慎公

貞信公忠平の長男。母は宇多天皇の皇女、源順子(公卿補任)。師輔・師尹の兄。左大臣時平の息女を正室とする。子には敦敏・頼忠・斉敏・慶子(朱雀天皇女御)・述子(村上天皇女御)ほかがいる。公任の祖父。
延喜十五年(915)正月、十六歳で従五位下に叙せられ、右衛門佐・右近権少将などを歴任した後、延長四年(926)、蔵人に補せられる。同六年には右近権中将に任ぜられ、同八年には蔵人頭となる。承平元年(931)三月、三十二歳にして参議に就任し、承平四年(934)十二月、従三位・中納言。天慶二年(939)八月、大納言に昇進し、同七年四月、右大臣を拝命(右大将元の如し)。同九年正月、従二位に叙せられ、五月、蔵人所別当。天暦元年(947)四月、左大臣に転ず(左大将元の如し)。同四年七月、皇太子傅を兼ねる。同八年五月、正二位。天徳元年(957)三月、病により左大将を辞す。康保元年(964)正月、従一位に昇り、同四年(967)六月、関白となる。同年十二月、さらに太政大臣に任ぜられる。安和二年(969)三月、左大臣源高明を左遷し、八月、円融天皇の摂政に就く。天禄元年(970)五月十八日、薨。七十一歳。贈正一位。清慎公の諡を賜わり、尾張国に封ぜられる。号、小野宮。
有職故実に通じ、和漢の才に秀でる。『和漢朗詠集』などに漢詩を残す。天徳内裏歌合の判者を務めるなど、歌人としても著名であった。後撰集に「左大臣」として初出。『大和物語』に「今の左大臣」とあるのも実頼である。勅撰集入集計三十五首。家集『清慎公集』(実頼集とも)を残す。『時代不同歌合』歌仙。

紅梅の枝にさして申しおくりける  中務

見ぬほどにうつろひぬべき梅の花ふかかりきとや後にかたらむ

【通釈】よく見もしないうちに散ってしまうに決まっている梅の花――色は深かったと、後になって語りましょうか。たびたび逢いもせず私たちの仲は終わってしまうのでしょうね。思いは深かったと、後になって語りましょうか。

返し

鶯のやどの花だに色こくは風に知らせでしばし待たなむ(新千載56)

【通釈】せめて鶯が宿にする梅だけでも、色濃い花は、風に知らせないで、もう少し散るのを待って欲しいものです。私たちの仲はこの紅梅のように深いのですから、世間の人に知られないようにして、もっと永く続けたいものです。

【補記】紅梅の枝に結び付けて中務から贈られた歌に対する返歌。表面的には季節の挨拶として歌をやり取りしているので、新千載集では恋部に載せず、春の歌としている。二人が恋仲になったのは実頼三十歳前後、中務十七、八歳頃のことと推察される。

秋、大輔が太秦のかたはらなる家に侍りけるに、荻の葉に文をさしてつかはしける

山里の物さびしさは荻の葉のなびくごとにぞ思ひやらるる(後撰266)

【通釈】あなたの居る山里の何とも言えない寂しさは、荻の葉が靡くたびにしみじみと思いやられてなりません。

【補記】荻はイネ科ススキ属の多年草。荻の葉のそよぎは秋の訪れを告げるもので、また「招(を)き」と掛詞になって人の訪れを暗示するものであるが、大輔のところには来客がなくて寂しいだろうと思いやっている。その裏には、自分こそが相手の「物さびしさ」を解消する者であるという訴えがあろう。

廉義公の母なくなりて後、女郎花をみて

をみなへし見るに心はなぐさまでいとど昔の秋ぞ恋しき(新古今782)

【通釈】女郎花の花を見ても心は慰まずに、却ってますます昔の妻が生きていた頃の秋が恋しいことだ。

【語釈】◇廉義公 実頼の子、頼忠。その母とは、時平女。承平三年(933)正月逝去。

【補記】古来佳人に擬せられた香しい花に寄せて、妻を失った悲しみの深さを歌う。『伊勢集』には「をみなへしをりたるところ」という詞書で――すなわち屏風歌として載せている。『和漢朗詠集』では清慎公(実頼)の作とし、新古今集もこれを踏襲して実頼作としたものか。しかし新古今集の詞書の由来は不明。

【他出】伊勢集、古今和歌六帖(作者不明記)、和漢朗詠集

【主な派生歌】
菊の花思ひのほかに移ろへばいとど昔の秋ぞ恋しき(弁乳母[栄花物語])
あるじなき宿の軒端に匂ふ梅いとど昔の春ぞ恋しき(近衛基通北政所[平家物語])
ここのへにかはらぬ梅の花見てぞいとど昔の春はこひしき(源通親[新勅撰])
物思ひなしとは言はじ花みればいとどむかしの恋しさぞます(頓阿)

少将敦敏みまかりて後、東(あづま)より馬を送りて侍りけるに

まだ知らぬ人もありける東路に我も行きてぞ住むべかりける(後撰1386)

【通釈】息子は死んでしまったが、まだそのことを知らない人も、遥かな東国には居るのだった――そこへ私も行って住めばよかったのだ。そうすれば、我が子の死を無かったことに思えるだろうから。

【補記】詞書の「少将敦敏」は実頼の長男。天暦元年(947)十一月十七日、死去。その忌を知らずに東国から馬を送って来た者があり、その折に詠んだという歌。常軌を逸した心の働かせ方が、子を亡くした衝撃と遣り場のない悲しみを伝えて余りある。なお『清慎公集』など第二句を「人もありけり」とする本が多い。

【他出】清慎公集、金玉集、深窓秘抄、栄花物語、大鏡、古本説話集、宝物集、定家八代抄、落書露顕、東野州聞書

娘にまかりおくれて又の年の春、桜の花ざかりに、家の花を見て、いささかに思ひをのぶといふ題をよみ侍りける

桜花のどけかりけり亡き人を恋ふる涙ぞまづはおちける(拾遺1274)

【通釈】桜の花は散る気配もなく、のどかに咲いているのだった。亡き娘を慕う私の涙は、まっさきに落ちたけれど。

【補記】天暦元年(947)十月五日、作者の娘述子(村上天皇の女御)は疱瘡により十五歳で夭折した。その翌年の春、桜の花盛りの折、自邸の花を見て「聊かに思ひを述ぶ」との題で詠んだという歌。

小一条左大臣まかりかくれてのち、かの家に侍りける鶴(つる)の啼き侍りけるを聞き侍りて

おくれゐて啼くなるよりは葦鶴(あしたづ)のなどて(よはひ)をゆづらざりけむ(拾遺497)

【通釈】先立たれて哭くくらいなら、鶴は何故に長寿の齢を我が弟に譲ってくれかなったのだろうか。

【語釈】◇葦鶴(あしたづ) 鶴。この歌では家に飼われていた鶴を言っている。

【補記】詞書の「小一条左大臣」は実頼の弟、師尹。安和二年(969)十月十四日、薨。その後、師尹の住んでいた家で鶴が啼くのを聞いて詠んだという歌。鶴も家の主人の死を嘆き悲しんでいると聞きなし、その鳥の長寿に言寄せて、弟に先立たれた痛恨の情を歌い上げている。

【他出】清慎公集、拾遺抄、深窓秘抄、題林愚抄

【主な派生歌】
葦鶴の雲のうへよりおりゐるをよはひを君にゆづるとぞ聞く(慈円)
我が道をまもらば君をまもるらむよはひはゆづれ住吉の松(藤原定家[新古今])
君になほ千世のよはひを松が枝のときはの色をゆづれとぞ思ふ(後崇光院)

大臣(おとど)おはして帰り給へるに  中務

恋ひわたる君を見しにはあらねばや思ひ病まれて今日もかなしき

【通釈】ずっと恋し続けているあなたと契りを交わしたはずなのに――胸の内が苦しくて今日も切ないのは、本当はお逢いしていないからなのでしょうか。

【語釈】◇恋ひわたる君 私が恋い渡る貴方。私を恋い渡る貴方の意にも読める。

【補記】「大臣」(実頼を指す)が中務のもとから帰る時に言い遣った歌。恋い焦がれていた貴方に逢えたはずの今日も悲しいのは何故かと訴えている。

返し

逢ひみても恋にも物のかなしくは慰めがたくなりぬべきかな(清慎公集)

【通釈】お逢いしただけで、恋しさで切ないとおっしゃるのでしたら、また逢いに行ったら余計悲しむでしょうから、一体私はどうやって貴女を慰めればよいのでしょうか。

【補記】一廻りも年下の恋人を持て余し気味に、しかし余裕を以て対応している。二人のやり取りを見る限りでは、中務の方が熱を上げていたらしく思われる。

堤の中納言の御息所を見てつかはしける

あな恋しはつかに人をみづの泡の消えかへるとも知らせてしがな(拾遺636)

【通釈】ああ恋しいことだ。ほんの僅かにその人を見て、水の泡のように消え入りそうな思いで恋していると、知らせたいものだ。

【補記】詞書の「堤の中納言」は藤原兼輔。その御息所とは、兼輔の娘で醍醐天皇の更衣、桑子。「みづ(水)」に「見つ」を掛け、前句から「はつかに見つ」と続く。桑子の返しは「ながからじと思ふ心は水の泡によそふる人のたのまれぬかな」。

【他出】定家八代抄、時代不同歌合

日本紀宴歌、活目(いくめ)入彦(いりひこ)五十狭茅(いさちの)天皇(すめらみこと)

池水に国栄えけるまきもくの珠城(たまき)の風は今ものこれり(続古今1908)

【通釈】纏向(まきむく)の珠城(たまき)に宮を置かれた垂仁天皇が、各地に造らせた池の水のおかげで国が富み栄えた――その風儀は今も残っているのである。

【語釈】◇活目入彦五十狭茅天皇 第十一代垂仁天皇。◇まきもくのたまき 大和国纏向(まきむく)の珠城宮。今の奈良県桜井市。

【補記】天慶六年(943)の日本紀竟宴和歌。日本書紀の講了に際し催された竟宴で詠まれた歌である。垂仁天皇が河内国を始め国々に池を造らせ、これにより国が富み栄えたことを讃美した。

【他出】日本紀竟宴和歌、秋風和歌集、歌枕名寄


公開日:平成12年09月10日
最終更新日:平成22年11月05日