藤原忠平 ふじわらのただひら 元慶四〜天暦三(880-949) 諡号:貞信公

太政大臣基経の四男。母は人康親王の娘。時平仲平の弟。実頼師輔・師氏・師尹らの父。一女は保明親王の室となる。系図
寛平七年(895)、十六歳で正五位下に叙せられ、昇殿を許される。同八年、侍従となり、備後権守を兼ねる。昌泰三年(900)、参議。延喜九年(909)、長兄時平が薨じた後は、次兄仲平が存命であったにもかかわらず、氏の長者として嫡家を継いだ。以後急速に累進し、翌延喜十年(910)、中納言。同十四年、右大臣。延長二年(924)、左大臣。同五年、『延喜格式』を完成撰進させる。同八年、摂政を兼ねる。承平六年(936)、摂政太政大臣従一位。天慶四年(941)、関白太政大臣。天暦三年(949)八月十四日、薨。七十歳。詔により正一位を追贈され、信濃国を封ぜられる。謚は貞信公。小一条太政大臣と号す。藤原氏中興の祖の一人として、後世子孫により重んじられた。
醍醐天皇の代、兄時平の遺業を継いで『延喜格式』を完成させる。日記『貞信公記』がある。『大鏡』は紫宸殿の辺で鬼を追い払ったとの逸話を載せ、豪胆ぶりがうかがわれる。後撰集初出。勅撰入集は十三首。

枇杷左大臣はじめて大臣になりて侍りけるよろこびにまかりて

折りて見るかひもあるかな梅の花ふたたび春に逢ふ心ちして(続後撰1030)

【通釈】折ってみる甲斐もあることよ、この梅の花は。再び春のめでたい時に遇う気持がして。

【補記】「枇杷左大臣」は兄の仲平。承平三年(933)二月十三日、仲平が初めて大臣(右大臣)になったのを祝福しに訪問した際の歌。忠平はこの時既に摂政左大臣であった。庭に咲いていた梅にことよせて、兄弟揃って大臣になった喜びを詠んだもの。仲平の返歌は「むもれ木に花さく春のなかりせばまぢかき枝もたれかをらまし」。

亭子院、大井河に御幸ありて、「行幸もありぬべき所なり」とおほせ給ふに、「事の由奏せむ」と申して

をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば今ひとたびのみゆき待たなむ(拾遺1128)

【通釈】[詞書] 宇多上皇が大井川に行幸なされ、「ここは、天皇(醍醐)の行幸もあってしかるべき所だ」と仰せになったので、「では天皇に上皇のご意向を奏上致しましょう」と申し上げて
[歌] 小倉山の紅葉よ、もしおまえに心があるなら、もう一度行幸があるまで散るのは待っていてほしいよ。

小倉山
桂川(大堰川)より小倉山方面を望む

【語釈】◇亭子院 宇多上皇。大井川御幸は延喜七年(907)九月。◇大井河 大堰川。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。◇をぐら山 小倉山。京都嵐山、大堰川北岸の山。月と紅葉の名所。◇こころあらば 情理を解する心があるのならば。◇みゆき 上皇と天皇のお出ましのことだが、歌では醍醐天皇の行幸を言っている。なお、上皇の場合「御幸」と書き、天皇の場合「行幸」と書くのが通例であるが、いずれも「みゆき」である。◇またなむ 待って欲しいなあ。終助詞「なむ」は「遠慮して不可能かと思いながら希求する意を表わす」(岩波古語辞典)。

【他出】拾遺抄、大和物語、大鏡、古今著聞集、定家八代抄、八代集秀逸、百人一首、五代集歌枕

【参考歌】藤原忠房「古今和歌六帖」
吉野山岸のもみぢし心あらばまれのみゆきを色かへでまて
  作者不明「亭子院女郎花合」
をぐら山みねのもみぢ葉なにを糸にへてか織りけむしるやしらずや

【主な派生歌】
深山路は紅葉もふかき心あれや嵐のよそにみゆき待ちける(藤原定家)
声たてぬ嵐もふかき心あれや深山の紅葉みゆき待ちけり(〃)
をぐら山峰の木の葉や色にいでてふりにしみゆき今も待つらむ(藤原忠定)
小倉山今一度もしぐれなばみゆき待つまの色やまさらむ(藤原光俊[続古今])
をぐら山峰のもみぢは鳴く鹿の涙にそめて色にいづらし(藤原為家)
いにしへのあとをたづねて小倉山みねの紅葉や行きて折らまし(後嵯峨院[続後撰])
いたづらに今は染めけり小倉山いつの秋まで行幸待ちけむ(姉小路基綱)
をぐら山もみぢにとめし小車も跡こそたゆれみゆき降りつつ(契沖)
小倉山御幸もあらばいかがせむ紅葉をすてて秋はいぬめり(千種有功)

今上、帥(そち)のみこときこえし時、太政大臣の家にわたりおはしまして、かへらせ給ふ御贈り物に御本たてまつるとて

君がため祝ふ心のふかければひじりの御代のあとならへとぞ(後撰1379)

【通釈】あなたのためにお祝い申し上げる心が深いので、聖代の手跡をお習いなさいと、この御本を差し上げます。

【補記】村上天皇が「帥のみこ」と呼ばれていた時――すなわち即位前大宰帥であったのは天慶六年(943)十二月から翌年四月まで。その頃、忠平が習字の手本を差し上げた際の贈歌。「聖人君子にならった政治を行いなさい」の意を含めたものである。村上天皇の反歌は「をしへおくことたがはずは行末の道とほくとも跡はまどはじ」。

【他出】古今和歌六帖、古来風躰抄、定家八代抄、古今著聞集

兄の服(ぶく)にて、一条にまかりて

春の夜の夢のなかにも思ひきや君なき宿をゆきて見むとは(後撰1387)

【通釈】はなかく短いという春の夢の中でさえ、思っただろうか。あなたのいないこの邸に来てみようとは。

【語釈】◇兄の服 亡き兄の喪に服すること。この場合時平の喪か。延喜九年(909)薨。◇春の夜の夢のなかにも はなかく短いという春の夢の中でさえ。◇思ひきや 思っただろうか。ヤは反語。小野篁が用いて以来、歌によく使われるようになった言い方。


公開日:平成12年08月11日
最終更新日:平成21年01月25日