藤原時平 ふじわらのときひら(-しへい) 貞観十三〜延喜九(871-909) 通称:本院大臣

関白太政大臣基経の長男。母は人康親王(仁明天皇の皇子)の娘。左大臣仲平・摂政関白忠平・宇多天皇女御温子・醍醐天皇中宮穏子の兄。本康親王女康子、在原棟梁女、大納言源湛女を妻とした。子に保忠・顕忠・敦忠・褒子(宇多天皇女御)ほかがいる。系図
仁和二年(886)、光孝天皇より加冠を受けて元服。侍従・蔵人頭などを経て、寛平三年(891)三月、参議に就任。その後中納言・大納言と進み、この間右衛門督・右大将・左大将などを兼任。昌泰二年(899)二月、左大臣に至る。同四年、右大臣菅原道真を排斥し、藤原氏の摂関体制を確立したが、延喜九年(909)四月四日、三十九歳で夭折した。贈太政大臣正一位。古今集初出。勅撰入集は十六首。

朱雀院の女郎花合によみてたてまつりける

をみなへし秋の野風にうちなびき心ひとつをたれによすらむ(古今230)

【通釈】女郎花は、秋の野を吹き過ぎる風に靡いて、一心に誰に思いを寄せているのだろうか。

オミナエシ
女郎花

【語釈】◇をみなへし オミナエシ科の多年草。秋の七草の一つ。「をみな」はもともと美女・佳人の意。また漢語「女郎」は高貴な女性の称。

【補記】一方にばかり靡いている女郎花の花に対し、それほど強い恋心を誰に寄せているのかと訝しんでみせた。宇多上皇が退位した翌年昌泰元年(898)に朱雀院で催した女郎花合に奉った歌。同花合の序文に「左右のとうをばおきて、みかどときさきとなむせさせたまひける」とあり、上皇と后(皇太夫人)藤原温子を中心とした催しであったと知れる。時平は野風になびく女郎花に、同母妹温子の上皇に寄せる一心の愛情を暗示したのである。

【他出】新撰万葉集、古今和歌六帖、六百番陳状、古来風躰抄、桐火桶

女につかはしける

ひたすらに厭ひはてぬるものならば吉野の山にゆくへ知られじ(後撰808)

【通釈】貴女が私をひたすら最後まで厭い続けるのなら、私は世を厭い、吉野の山に籠って行方をくらましてしまおう。

【語釈】◇吉野の山 大和国の歌枕。桜の名所として名高いが、また出家者の隠棲の地でもあった。

【補記】『伊勢集』によれば、伊勢と藤原仲平(時平の弟)の仲が絶えていた頃、時平は伊勢に言い寄ったが、逢おうとしてくれない。そこで隠棲をほのめかして恋心の強さを訴えた歌。後撰集も載せる伊勢の返歌は「我が宿とたのむ吉野に君し入らばおなじかざしをさしこそはせめ」。自分も吉野に隠れ住みたいと思っていたから、仲良く同じ桜の挿頭をさして山人になりましょう、と応じたのである。

【他出】伊勢集、五代集歌枕、古来風躰抄、歌枕名寄、雲玉集


更新日:平成16年02月18日
最終更新日:平成21年03月07日