足利尊氏 あしかがたかうじ 嘉元三〜延文三(1305-1358)

清和源氏。三河・上総の守護を勤めた足利貞氏の子。母は上杉頼重女、清子。庶腹であったが、父の正妻に子がなかったため嫡男として家を継いだ。幼名は又太郎。直義の同母兄。執権北条高時を烏帽子親として元服し、高時の名より一字を得て高氏を名乗る。
元応元年(1319)、従五位下に叙され、治部大輔に任ぜられる。正慶二年(1333)三月、幕府の命により後醍醐天皇方を討つため上洛するも、途中で討幕に翻意、六波羅探題を滅ぼして京を掌握した。鎌倉幕府滅亡後、建武中興の大功労者として後醍醐天皇より諱の一字を賜り尊氏と改名する。元弘四年(1334)正月、正三位に昇叙され、同年九月には参議に就任。建武二年(1335)七月、北条時行が信濃に挙兵し鎌倉を占領すると、翌月討伐のため関東に下向。この際征夷大将軍の地位を望んだが、天皇は征東将軍に任ずるに留めた。鎮定後、環京の命を拒絶して鎌倉にとどまり、建武政権に反旗を翻す。やがて尊氏追討に下向した新田義貞の軍を箱根に破り上洛したが、北畠顕家らの奥羽勢に敗れて九州へ落ち延びた。この際、光厳院に新田義貞追討の院宣を請い受け、やがて勢力を盛り返し摂津湊川に楠木正成を倒して再上洛。建武三年(1336)八月、光明天皇を即位させ、同年十一月、建武式目を公布して室町幕府を開く。同月、権大納言に任ぜられ、翌暦応元年(1338)八月、待望の征夷大将軍に任命された。しかし前年末に後醍醐天皇は京より吉野に脱出して南朝を樹立、南北朝動乱の時代が幕を開けた。暦応二年(1339)八月、後醍醐天皇が崩御すると喪に服し、光厳院の命により亡き帝を弔うため天龍寺の造営を計画、康永四年(1345)に完成させて夢窓疎石を住持にすえた。
幕府の政務は弟の直義に委ねていたが、やがて執事高師直との対立を深めた直義は観応元年(1350)に蜂起し、高氏一族を滅ぼした。尊氏は直義を討つため南朝と和睦した上、関東に兵を率い直義を降伏させた(翌年、直義は急死。尊氏による毒殺とも言われる)。文和元年(1352)、光厳院の第三皇子後光厳天皇の即位を実現。その後、直義の養子直冬と結んだ南朝方に京都を奪われるなどしたが、文和四年(1355)三月、子の義詮とともに京都を恢復した。延文三年(1358)四月三十日、京都二条万里小路邸で病没。享年五十四。法名は仁山妙義。等持院と号し、鎌倉では長寿寺殿と称された。贈左大臣、のち贈太政大臣。墓所は等持院(京都市北区)。
和歌・連歌を好み、二条為定に師事、また頓阿を厚遇した。貞和元年(1345)冬、為定より三代集の伝授を受ける(新千載集)。延文元年(1356)、新千載集の撰進を企画、これは勅撰集の武家執奏の先蹤となった。元弘三年(1333)七月立后の月次御屏風和歌、暦応二年(1339)六月の持明院殿御会、建武二年(1335)の内裏千首、建武三年の住吉社法楽和歌、暦応二年(1339)の春日奉納和歌などに出詠。貞和・延文百首に詠進(続群書類従に『等持院殿御百首』として収録)。続後拾遺集初出。風雅集には十六首、新千載集には二十二首入集。勅撰入集は計八十六首。

足利尊氏木像 京都市北区 等持院

  2首  1首  5首  2首  3首 計13首

梅をよみ侍りける

軒の梅は手枕ちかくにほふなり窓のひまもる夜はの嵐に(風雅86)

【通釈】軒端の梅は私の手枕近くまで匂ってくる。窓に吹きつけ、その隙間を洩れる夜の嵐によって。

【補記】「手枕(たまくら)」は独り寝の腕枕と取るのがこの歌の情趣にはふさわしい。初句字余り、「手枕ちかく」「窓のひまもる」といったリアリスティックな描写法に京極派の影響がうかがわれる。

百首歌たてまつりし時、梅を

この頃は咲ける咲かざるおしなべて梅が香ならぬ春風もなし(新拾遺54)

【通釈】この頃は、花の咲いている所咲いていない所、どこにいても梅の香のしない春風が吹くことはない。

【補記】新千載集撰進にあたり、延文元年(1356)後光厳院により召された延文百首。晩年の作で、この頃の尊氏は二条家の歌風に染まっている。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
春の色のいたりいたらぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ

【主な派生歌】
世は春にさけるさかざる里はあれど梅が香ならで吹く風もなし(後水尾院)
いめびとの伏見の里を朝ゆけば梅が香ならぬ風なかりけり(*八田知紀)

夏祓

麻の葉に波のしらゆふかけそへてこの夕べよりかよふ秋風(延文百首)

【通釈】麻の葉に波の白木綿を添えて川に流せば、禊ぎの祈りは神に通うだろう――その験(しるし)のごとく、六月晦日のこの夕べから、既に爽やかな秋風が吹き通う。

【語釈】◇夏祓 六月祓(みなづきばらへ)、夏越(なごし)の祓とも言う。夏の終りにあたる水無月の晦日に行なわれた大祓。白木綿をかけた麻の葉を川に流して身を浄めた。◇波のしらゆふ 白波を木綿(ゆふ)に見立てた表現。白木綿は楮(こうぞ)の繊維を細かく裂いて糸状にしたもの。◇かよふ秋風 「かよふ」には風が届く意に、祈りが神に通じる意を響かせる。

【補記】見立て・掛詞を用い、「しらゆふ」「ゆふべ」と音韻にも細心の注意を払った、巧緻な作。武将尊氏が和歌の伝統的技巧に精通していたことを窺わせるに十分である。

【参考歌】九条良経「秋篠月清集」「続後撰集」
みそぎ川なみのしらゆふ秋かけてはやくぞすぐるみな月のそら
  藤原俊成女「宝治百首」「俊成卿女集」
みそぎする麻の葉末のなびくより人の心にかよふ秋風

百首歌たてまつりし時

秋風にうきたつ雲はまどへどものどかにわたる雁のひとつら(風雅1545)

【通釈】秋風に空高く浮かんだ雲は不安定に漂っているけれども、雁の一群はゆったりと空を渡って来る。

【補記】雲の慌ただしい動きと、のどかな雁の飛行の対比の面白さ。貞和二年(1346)頃に詠進された貞和百首。風雅集の撰歌資料として光厳院より召された百首歌である。

(まがき)(すすき)

露にふす籬の萩は色くれて尾花ぞしろき秋風の庭(風雅483)

【通釈】露の重みでしなう垣根の萩は暮色に包まれて、ただ薄の穂がほの白く靡いている、秋風の吹く庭よ。

【補記】「色くれて」は伏見院の好んだ表現で(御集に四例ある)、いかにも京極風の措辞。「尾花(をばな)ぞしろき」は他例見えず尊氏の独創と思えるが、こうした印象鮮明な描写も京極派の作風に近いもの。

【本歌】作者不詳「万葉集」巻十
人皆は萩を秋と言ふよし我は尾花が末を秋とは言はむ
【参考歌】伏見院「玉葉集」
なびきかへる花のすゑより露ちりて萩の葉しろき庭の秋風

月歌の中に

ほどもなく松よりうへになりにけり木の間もりつる夕ぐれの月(風雅589)

【通釈】さっきまで木の間を漏れていた夕月は、程もなく松の梢より上に出て煌々と夜空を照らしている。

【補記】「松よりうへになりにけり」は伏見院に先蹤があるものの、尊氏のは松の傍から見上げている格好で、また違った風味のある歌になっている。この歌、新後拾遺に重出。ただし下句は「木のまに見つる山のはの月」。

【参考歌】伏見院「御集」
山のはの松よりうへになりにけり嵐をわけてのぼる月かげ

題しらず

うたたねも月には惜しき夜半(よは)なれば中々秋は夢ぞみじかき(新拾遺1629)

【通釈】しばらく転た寝するのも月を見逃すのが惜しいので、秋の夜長というけれど、どうしてどうして秋に見る夢は短いことよ。

【補記】絶えず月のことが頭にあるので、秋の夜は転た寝してもすぐ目が覚めてしまう。春夏の夜の夢を短いと歌えばありふれているが、秋の夢が短いとは意想外。

秋山といふことを

入相は檜原(ひばら)の奧にひびきそめて霧にこもれる山ぞ暮れゆく(風雅664)

【通釈】入相の鐘はヒノキ林の奥に響き始め、霧に包まれた山が暮れてゆく。

【補記】晩鐘の奥深い響き、霧に閉ざされたまま夕闇に包まれてゆく山影。幽玄を超えて無気味なほどに暗く大きな叙景である。「ひびきそめて」の字余りは京極派の影響を窺わせる。

建武二年内裏千首歌の折しもあづまに侍りけるに、題をたまはりてよみてたてまつりける歌に、氷

ながれゆく落葉ながらや氷るらむ風よりのちの冬の山川(新千載626)

【通釈】流れてゆく落葉ともども凍るのだろうか。冷たい風が吹いた後の冬の山川は。

【補記】建武二年(1335)、尊氏は北条時行の叛乱を鎮圧するため東国に下っていた。

百首歌たてまつりし時、寒草

霜ふかき籬の荻のかれ葉にも秋のままなる風の音かな(新拾遺600)

【通釈】すでに霜が深く積もった垣根の荻の枯葉にも、風の音だけは秋のままに響いている。

【補記】荻の葉が風にさわさわと揺れる音は秋特有の情趣とされたが、枯葉が鳴る冬も哀れ深いことは秋に変わらないという発見。延文元年(1356)、後光厳院により召された延文百首。

世の中さわがしく侍りけるころ、みくさの山をとほりておほくらたにといふ所にて

いまむかふ方はあかしの浦ながらまだはれやらぬ我が思ひかな(風雅933)

【通釈】これから向かってゆく方角は明石の浦なのだが、「明(あか)し」というその名とは違って、まだ晴れきらぬ私の思いだことよ。

【補記】風雅集旅歌。建武三年(1336)、新田義貞を破って上洛した尊氏は、後れて来た北畠顕家らの軍勢に敗れ、九州へ落ち延びるべく、丹波路を経て播磨へ向かった。「みくさの山」は兵庫県加東郡社町の三草山。「おほくらたに」は明石海岸の東、今の明石市大蔵谷。都落ちの歌にもかかわらず、悲壮感はあまり感じられず、それどころかユーモアを含んだ鷹揚な歌いぶりが印象的。夢窓国師も誉め讃えた尊氏の怯懦を知らぬ心の強さ広大さ(『梅松論』)は、この歌からも一端が窺われるのではあるまいか。

暮山をよめる

山風は高ねの松に声やみて夕べの雲ぞ谷にしづまる(風雅1656)

【通釈】さっきまで激しく吹き下ろしていた山風は、頂の松のあたりでふっと音を止めたかのようで、高いところにあった雲は夕方になって谷間へ沈みじっとしている。

【補記】「入相は檜原のおくに…」の歌のような特異さはないが、これもダイナミックに大景を描ききった佳品。

【参考歌】藤原為子「玉葉集」
風だにも軒ばの松に声やみて夕べのどけき山かげの宿

山家嵐

さびしさにさびしき声ぞ友となる嵐になるる山かげの庵(北野社百首)

【通釈】寂しさのあまり、嵐の寂しい声が日頃の友となった。山陰の庵でその声を聞き馴れるうちに。

【補記】建武三年(1336)から康永二年(1343)頃の成立とされる北野社奉納百首。


最終更新日:平成15年02月08日