八田知紀 はったとものり 寛政十一〜明治六(1799-1873) 号:桃岡(とうこう)

寛政十一年九月十五日、薩摩国に生れる。父は藩士八田善助。初名、彦太郎。通称、喜左衛門。
文政八年(1825)、二十七歳の時、薩摩藩邸蔵役となり上洛。翌年香川景樹を訪問し、三十二歳となった天保元年(1830)に入門を果たして景樹晩年の弟子となる。木下幸文熊谷直好亡き後は桂園派を代表する歌人として重んぜられた。維新後、東京に出て宮内省に仕え、明治五年(1872)、歌道御用掛に任ぜられるが、翌年九月二日に没した。七十五歳。東京芝区伊皿子の大円寺に葬られる(のち同寺は東京都杉並区に移転)。明治三十六年、贈従五位。門人に高崎正風・黒田清綱などがいる。家集『しのぶぐさ』四巻は安政二年(1855)の序を持つが、維新後の歌を含み、最終的な成立は明治初年頃か。歌論書に「調の直路」「調の説」(いずれも歌学大系9に所載)などがある。
 
関連サイト:短歌王国鹿児島

以下には『しのぶぐさ』(続歌学全書一〇・校註国歌大系二〇所収)より二十首を抜萃した。集名末尾の漢数字は巻数を表わす。

  6首  1首  4首  3首  6首 計20首

社頭立春

住吉の神のともし火かすむなり御津の浜辺に春やたつらむ(しのぶぐさ四)

【通釈】住吉の神社の灯篭の火が霞んでいる。御津(みつ)の浜辺に春があらわれたのだろう。

【語釈】◇神のともし火 住吉大社の石灯籠の火。同社境内には、海上守護の祈願をこめて寄進された数多くの石灯籠が並んでいる。◇御津の浜辺 住吉の浜辺の古称。かつては「大伴の御津の浜」と言った(万葉集)。

【補記】海上にあらわれ、浜辺の神社の灯篭を翳(かす)ませる春霞。縹渺たる趣は「社頭立春」の題に相応しい。『しのぶぐさ』巻四。同書は全四巻で、巻一は即詠・嘱目詠、第二巻以後は主として題詠を収める。

一とせ国にくだりける時の紀行の中

朝日さすひむがし山の面影も遥かに霞む春は来にけり(しのぶぐさ一)

【通釈】いつも朝日が差し昇るのを眺めた東山の山々も、今ごろ霞んでいるだろう――その面影も遥かになって、時は巡り、春はやって来たのだ。

【語釈】◇朝日さす 朝日が差し昇る。「ひむがし」を導く枕詞としての役割も果たしている。◇ひむがし山 京都の東山。

【補記】若き日の立春詠。ある年、京都から故郷薩摩に下る旅中の作。『しのぶぐさ』第一巻は旅先での即興詠を中心に編んだ巻である。

【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十
冬すぎて春きたるらし朝日さす春日の山に霞たなびく

名所梅

とほ妻のたよりに聞くぞなつかしき木幡の里の梅の初花(しのぶぐさ四)

【通釈】遠く離れた妻からの便りに聞くのは慕わしい。木幡(こはた)の里に今年初めて咲いた梅の花よ。

【語釈】◇とほ妻 遠く離れた妻。万葉語彙であり、王朝和歌での用例は稀。知紀は作歌の上で万葉集を庶幾した。師の景樹と大きく異なる点である。◇木幡(こはた)の里 山城国の歌枕。今の京都府宇治市木幡。下記万葉歌より遠妻のいる里として歌枕化された。

【補記】作者の遠妻が実際「木幡の里」にいたわけではないが、切情の籠った歌いぶりで、いわゆる旧派和歌の「題詠臭」を脱している。

【参考歌】柿本人麿「万葉集」「拾遺集」
山科の木幡の山を馬はあれど徒歩(かち)より吾が来し汝を思ひかねて(万)
山科の木幡の里に馬はあれどかちよりぞ来る君を思へば(拾)

梅の盛りに伏見にありて

いめびとの伏見の里を朝ゆけば梅が香ならぬ風なかりけり(しのぶぐさ一)

【通釈】伏見の里を朝歩いてゆくと、梅の香がしない風とてないのだった。

【語釈】◇いめびとの 「伏見」の枕詞。「いめびと」は「射部(いべ)人」の訛であろう。弓を射る人は叢などに伏して獲物を窺うので、地名「伏見」に掛かる。「巨椋(おほくら)の入江とよむなり射目人の伏見が田居に雁わたるらし」(万葉集巻九)。

【補記】枕詞が一首を引き締めている。同じ詞書のもう一首は「さく梅の匂ひのうちになりにけり伏見の里の春の夜の月」。

【参考歌】足利尊氏「新拾遺集」
この頃は咲ける咲かざるおしなべて梅が香ならぬ春風もなし

深山花

世の中の春をはなれて山桜すさまじきまで見ゆる色かな(しのぶぐさ三)

【通釈】世間の春を遠く離れて、深山の山桜を眺めれば、すさまじいまでに見える花の色であるよ。

【補記】「すさまじき」とは、山桜の花の冷え冷えとした白さが、深山の気と相俟って怖ろしいまでに感じられるということであろうか。因みに作者の桜花詠では「吉野山霞のおくは知らねども見ゆる限りは桜なりけり」「うつせみの我が世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり」などがかつては名歌ともて囃されたが、いずれも正岡子規によって痛撃され、文学作品としての命脈は断たれたと言ってよい。

瓶にさしたる桜をみて

野に山にあくがれはてし魂もこの一枝にかへりぬるかな(しのぶぐさ二)

【通釈】野へ山へ我が身から抜け出てしまっていた魂も、瓶に挿したこの一枝の桜によって戻って来たのだな。

【補記】『しのぶぐさ』巻二は主として題詠を収めるが、掲出歌は即興の歌。

【参考歌】下河辺長流「晩花集」
よも山にあくがれぬべき此ごろの心おちゐる家桜かな

まつりの日

卯の花の白がさねして神山のみあれ見に行く今日にもあるかな(しのぶぐさ一)

卯の花 鎌倉市二階堂にて
卯の花 ユキノシタ科のウツギ

【通釈】卯の花のように真白な白襲(しらがさね)を着て、賀茂祭を見に行く今日であるよ。

【語釈】◇白がさね 襲(かさね)の色目の一つで、表裏ともに色の白いもの。◇神山 賀茂神社の背後の山。◇みあれ 賀茂神社で葵祭に際して行われる神事。

【補記】初夏、賀茂祭(葵祭)の日の即興詠。気楽な祭見物ではなく、「白がさね」を着て出掛けることに神事への敬虔な思いがあらわれている。

物へ行きて帰りける道にて

大比叡(おほひえ)の峯に夕ゐる白雲のさびしき秋になりにけるかな(しのぶぐさ一)

【通釈】比叡山の頂に夕方居着いている白雲は寂しげである――そんな寂しい季節の秋になってしまったのだ。

【語釈】◇大比叡 比叡山の美称、または二つの山頂を持つ比叡山の大比叡岳の方を指す(もう一つは小比叡とも呼ばれる四明岳)。

【補記】比叡山に居座る夕雲に秋の寂しさを見た。斎藤茂吉は『明治大正短歌史』でこの歌を含む知紀の五首の歌を引用し、「萬葉調をさへ取りいれて、旨いところがある」と一定の評価を下している。「白雲の」までの叙景の上句を「さびしき」の叙情の下句へ繋げるあたり、また「峯に夕ゐる白雲」などの語句は、確かに万葉の風韻が感じられるが、結句「けるかな」には師景樹の影響があからさまに表れている。全体としては桂園調あるいは景樹調の歌である。

夕雁

秋萩の下葉そめむとふる雨の寒き夕べに雁なきわたる(しのぶぐさ四)

萩の下黄葉 鎌倉市雪ノ下
下葉から色づき始めた萩

【通釈】萩の下葉を染めようと雨が降る――そんな寒々とした夕べに、雁は鳴いて空を渡ってゆく。

【語釈】◇秋萩の下葉 萩の下の方の葉。他の草木に先駆けていちはやく色づく。

【補記】句切りをせず、息をつぐように詠み下した調べは、心細いような季節の風情にふさわしく繊弱な美しさ。作者の資質が最も良く発揮された歌であろう。

閑庭月

かくれがも月の訪ふ夜はしかすがに心にさはる八重葎かな(しのぶぐさ四)

【通釈】隠れ家のようにひっそりと住む我が家とはいえ、月の光が訪れる夜は、やはり邪魔に感じられる八重葎であるよ。

【語釈】◇しかすがに そうは言っても。さすがに。◇八重葎(やへむぐら) 庭に生える雑草の類、特に蔓草の類を言う。

夕紅葉

南淵(みなぶち)の細河まゆみたつ霧の色までそめて暮るる空かな(しのぶぐさ二)

【通釈】南淵の細川の岸辺に生える檀(まゆみ)の木は、夕日に染まったように赤々と紅葉しているが、あたりに立ちこめる霧まで同じ色に染めて暮れてゆく空であるよ。

【語釈】◇南淵 奈良県高市郡明日香村。飛鳥川の上流。◇細河 多武峰の南に発し、飛鳥川に合流する小川。

【補記】万葉歌の風趣を取り入れつつ、やはり紛れもない桂園派の歌となっている。

【本歌】作者未詳「万葉集」巻七
南淵の細川山に立つ檀弓束まくまで人に知らゆな

暁落葉

鳥が音におき出でてゆけば山科の岩田のを野に(ははそ)ちるなり(しのぶぐさ三)

【通釈】鳥の鳴き声に起き出してゆくと、山科の岩田の野に柞の黄葉が散っている。

柞紅葉 鎌倉市二階堂にて
柞の紅葉 写真左は櫟(くぬぎ)

【語釈】◇山科の岩田のを野 山城国の歌枕。京都市伏見区の石田から日野にかけての地。奈良から近江へ向かう近江路のほとり。◇柞 里山の雑木の類、すなわちクヌギやナラなどの総称。植物学上の分類ではブナ科の落葉高木。晩秋、赤褐色や黄褐色、濃淡さまざまに色づく。

【参考歌】藤原宇合「万葉集」巻九
山科の石田(いはた)の小野の柞原見つつや君が山道越ゆらむ

師走ばかり龍安寺の水鳥見に行きて

しづかにも暮れわたるかな水鳥の折々はぶく音ばかりして(しのぶぐさ一)

【通釈】あたりは静かに暮れてゆくことよ。水鳥が折々羽を打つ音がするばかりで。

【語釈】◇龍安寺 京都市右京区にある寺。宝徳二年(1450)、細川勝元の創建。寺の南側にある鏡容池は鴛鴦(おしどり)の名所であったため、鴛鴦寺とも呼ばれた。

【参考歌】源頼実「後拾遺集」
日も暮れぬ人もかへりぬ山里は峯の嵐のおとばかりして

雪中眺望

白雪の中に流るるみこし路のにひがた河は見るにさやけし(しのぶぐさ二)

【通釈】白雪の降り積もる中を流れる越路の新潟川は、目にも清らかで美しい。

【語釈】◇みこし路(ぢ) 越路。北陸地方の古称。◇にひがた河 新潟川。信濃川の異称か。

【補記】本格的に万葉調を取り入れた一首。雪の中を流れる北陸の大河という趣向に相応しく、万葉調が歌柄を大きくしている。

【参考歌】舎人娘子「万葉集」巻一
ますらをがさつ矢たばさみ立ち向ひ射る円方は見るにさやけし

一とせ大和国にゆきけるとき、所々にて物しつるが中(十八首中二首)

あさづく日にほへる時に久方の天のかぐ山見るがたふとさ(しのぶぐさ一)

【通釈】朝日が美しく映える時に天の香具山を見ることの貴さよ。

【補記】ある年、大和国(今の奈良県)を旅した時の作。京都に居を定めていた青年期の作と推測される。結句「見るがたふとさ」は万葉集巻十九、大伴家持の歌に先例がある(「…ゑらゑらに つかへまつるを 見るがたふとさ」)。

 

暁の枕の上にひびくなり飛鳥の森の八ひら手のこゑ(しのぶぐさ一)

【通釈】暁の枕の上に響いてくる。飛鳥神社の森で拍手(かしわで)を拍っている音が。

【語釈】◇飛鳥(あすか)の森 飛鳥坐神社の森。奈良県高市郡明日香村。◇八ひら手 八度拍手をうつこと。

藤川に物しけるとき

宿るべき麓の里に聞こゆれどかなしきものか入相の鐘(しのぶぐさ一)

【通釈】宿をとることになっている麓の里に聞こえるけれども、やはり悲しいものである、入相の鐘の響きは。

【語釈】◇藤川 鹿児島県薩摩郡東郷町に藤川の地名が残る。古来、梅の名所。◇かなしきものか この「ものか」は、万葉集巻三の「わたつみは くすしきものか」などを思わせる、詠嘆的な用法。一種の万葉調と言える。

【補記】二首のうち。一首目は「かぎりなく並木の松の見ゆるかな嵐の下に日をや暮らさむ」。

はじめて都にのぼりける時の紀行の中
野坂の浦すぐるころ、波たつなともいはぬ海のおもて、例の追手ふつにたえぬれば、舟子どもえいやごゑを出してただ漕ぎに漕げども、船は後ざまへのみゆくやうにて、日も暮れにけり(二首)

天草の上にかがやく夕づつの隠れぬほどに舟は漕ぎてよ(しのぶぐさ一)

【通釈】(詞書)野坂の浦を過ぎる頃、(万葉集に)「波たつなゆめ」と歌われたが、今はそんなことも言わない海の面は、例の追風がふっと絶えたので、水夫は「えいや、えいや」の掛け声をかけてひたすら漕ぐけれども、船は後方へばかり行くようで、日も暮れてしまった。
(歌)天草の島の上空に輝く宵の明星――あの星が島影に隠れない程に舟は漕いでくれよ。

【語釈】◇野坂の浦 熊本県芦北町。八代海を隔てて天草群島に対する。万葉集に詠まれたのと同地(下記本歌)。

【補記】文政八年(1825)、薩摩から初めて上洛した時の紀行中の歌。八代海を航行していた時、西空にあらわれた金星が島影に隠れてしまわぬようにと、水夫に呼びかける心。

【参考歌】長田王「万葉集」
葦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ浪立つなゆめ

 

茜さす夕日のなごり去りがたみ焦がれて見ゆる浪の上かな(しのぶぐさ一)

【通釈】茜色に照り映える夕日のなごりが中々去らず、まるで波の上が火に焼かれたような色に見える――そこから去りがたく、その美しさが切に慕われて見える舟の上であるよ。

【語釈】◇茜さす 「日」の枕詞。但しこの場合「茜色に照る」意を帯びる。◇去りがたみ 去り難いので。「夕日のなごりが海上をなかなか去ろうとしない」「それを眺める船上の人(作者や水夫)が去りがたい」の両義を帯びる。◇焦がれて見ゆる 下記参考歌(連歌の発句)からの借用。「こがれて」は「焦がれて」「漕がれて」の掛詞。「火に焦げたように見える」「恋い焦がれて見える」「(水夫も去りがたく)自然とゆっくり漕ぐように見える」と三様の義を帯びる。◇浪の上 「波の表面」「波に揺られる舟の上」の両義。

【補記】野坂の浦からは、天草群島の彼方に沈む夕日が美しく眺められる。

【参考歌】良暹「俊頼髄脳」
もみぢ葉のこがれてみゆる御舟かな

伏見の(うまや)に着きたりけるに、我が君の江戸へ下り給ふとて、ここの御館(みたち)に物し給ふ程なりけり。まことや此のあたり、さきつ君の御世にはいと辛き(いくさ)し給ひ、人々も心くだきし所なるを、今かうめでたき御時にしもあへること(かしこ)しなど言はむはおろかにこそ

のどかにも太刀の緒ときて我が君のあたり近くも寝たる夜半かな(しのぶぐさ一)

【通釈】(詞書)伏見の駅家に着いたのであったが、主君が江戸にお下りになるとて、ここの御館(薩摩藩邸)にいらっしゃったのであった。まことにこの辺りは先君の時代には大変苦戦をなさり、人々も心を砕いた所であるのを、今ではこのようにめでたい時代に遭ったこと、有り難いと言うのも愚かである。
(歌)のんびりと落ち着いた気持ちで太刀の緒を解き、我が主君のお泊り所から程近くに寝ている今宵である。

【補記】前歌と一連の作で、これも文政八年(1825)の初めての上洛の旅における歌。伏見でたまたま主君(薩摩藩主島津斉興か)の近くで泊ることになった感慨である。詞書の「まことや」以下は、維新後、家集をまとめた際の添え書きであろうか。「辛き戦」は鳥羽伏見の戦を、「先つ君」は島津久光を指すと思われる。


公開日:平成19年11月17日
最終更新日:平成20年05月16日