萩原宗固 はぎわらそうこ 元禄十六〜天明四(1703-1784) 号:百花庵

本姓は鈴木。本名は貞辰(さだとき)。通称、又三郎。萩原家に養子に入り、幕府与力として勤める。隠居して法号宗固。天明四年五月二日死去。八十二歳。墓は東京都新宿区須賀町の本性寺にある。
烏丸光栄・武者小路実岳らに学び、のち冷泉為村の門人となる。石野広通・磯野政武と共に江戸冷泉派を代表する歌人。師の教えを書き留めた『冷泉宗匠家伺書』、堂上諸家の教えを蒐集した『雲上歌訓』、随筆『一葉抄』などの著書がある。家集は天明六年(1786)刊『志野乃葉草(しのの葉草)』。『霞関集』にも少なからぬ歌が載る。門下に塙保己一がいる。
関連サイト:萩原宗固の墓(新宿歴史博物館)

立ちよりし袖にうつれる梅が香は()のもととほく過ぎてこそ知れ(志野乃葉草)

【通釈】梅の木に立ち寄った時袖に移った花の香は、木のもとを遠く過ぎてから初めて気づいたのだ。

【補記】梅の花は、そばを通る時は匂わず、しばらくしてふと香ったりするもの。それを古歌の修辞に従って梅の香が袖に移ったと言いなしたのである。掲出歌は冷泉門人の秀歌撰『冷泉家御襃詞詠藻』にも見える(小学館日本古典文学全集『近世和歌集』に抄訳注がある)。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
梅が香を袖にうつしてとどめてば春は過ぐともかたみならまし
  冷泉為村「為村集」
にほはずはいづれを梅とたどらましこのもと遠く霞む夕日に


公開日:平成19年12月21日
最終更新日:平成19年12月21日