塙保己一 はなわほきのいち(-ほきいち) 延享三〜文政四(1746-1821) 号:温故堂 〔縦書表示 IE5.5以上〕

延享三年(1746)五月五日、武蔵国児玉郡保木野村の農家、小野篁の末裔と伝える荻野家に生まれる。父は宇兵衛、母は隣村の旧家斎藤氏の娘きよ。塙姓は恩師である雨富検校の本姓を継いだもの。名は寅之助、のち辰之助・千弥・保木野一・保己一と変えた。
七歳の時肝臓を病み失明する。十五歳で江戸に出、按摩・音曲などを学ぶが、やがて学問の道に進み、師匠の検校雨富須賀一(あめとみすがいち)の後ろ盾で当時一流の学者に師事した。和学・歌学の師は初め萩原宗固であったが、明和六年(1769)、宗固の勧めにより賀茂真淵の門を叩き国学を学ぶ(半年後、真淵は死去)。天明三年(1783)三月、検校(盲人の最上級の官名)となる。同年、日野資枝に入門して和歌を学ぶ。寛政五年(1793)、幕府に願い出て和学講談所を設ける。それ以前より全国各地に散らばった文献資料を蒐集し校訂する事業を続けていたが、文政二年(1819)、ついに『群書類従』正編全六百七十冊(現在は改訂を経て六百六十六冊)として完成。引き続き『続群書類従』の編纂に着手する(生前、目録のみ刊行が成った)。同四年二月、総検校職となる。同年九月十二日、没。七十六歳。墓は東京新宿の愛染院にある。門下には中山信名・屋代弘賢・石原正明らがいる。
家集『松山集』がある。二条家の流れを汲む堂上派の保守的な歌風を信奉し、近代以降、歌人として評価されることは稀である。明治四十四年、正四位追贈。
 
以下には『松山集』(校註国歌大系十五所収)より五首を抜萃した。

霞中春雨

そことなく霞む夕べも(くつ)の音にやがて雨しる庭の真砂地(まさごぢ)

【通釈】どこもぼんやり霞んで見える夕方も、庭に敷き詰めた真砂を踏む沓の音によって、すぐに雨だと分かるのである。

【補記】朧な夕暮時、沓音の湿り具合によって霞のうちに雨が降り出したことを知る。春雨の情趣を聴覚によって繊細に捉えた趣向は後水尾院御製の影響が明らかであるが、霞と取り合わせた分、縹渺たるおもむきが添わった。

【参考歌】後水尾院「後水尾院御集」
春の夜の真砂ぢしめる沓の音に音なき雨を庭に聞くかな

竹間雪

ただひとへ小枝(さえだ)の霜と降り()めてなびくもあかぬ雪の村竹

【通釈】最初、うっすらと一重だけ小枝の霜のように降り積もり、やがて重みで靡くさまも見飽きることがない、雪の日の叢竹よ。

【補記】降り始めから重みで枝が撓うまで、雪の日の竹叢の変化を繊細に趣深く歌い上げている。

箱根

松の火も木の間に見えて箱根山明けゆく峯ぞなほ遥かなる

【通釈】松明の火も木々の間に見えて、明るくなってゆく箱根山の頂きはまだ遥か遠くである。

【補記】「都へのぼる道にて」の詞書に始まる、東海道の旅歌の連作十一首より。保己一は四十九歳になる天明六年(1794)、検校の職務のため上洛している。

浮島が原にて

言の葉の及ばぬ身には目に見ぬもなかなかよしや雪の富士の()

【通釈】和歌の才が及ばない私にとっては、目に見えないのもかえって良いではないか、雪の積もった富士山よ。

【語釈】◇浮島が原 愛鷹(あしたか)山南麓に広がっていた沼沢地。富士山の絶景で知られた名所。◇言の葉 「ことのは」は和歌や手紙文など、文章表現を指す語。

【補記】前掲の歌と同じ旅の歌群にある。やはり上洛途上の作であろう。「目に見ぬ」は普通なら雲に隠れて見えないと解されるが、盲人であった作者の境遇を思えば意味深長である。安政七年(1860)刊行の『大江戸倭歌集』にも採られた保己一の代表作。因みに橘曙覧が「塙検校」の題で詠んだ「何事も見ぬいにしへの人なれど涙こぼるる不尽の言の葉」の「不尽の言の葉」は、群書類従と共にこの歌をも暗示しているのだろう。

【参考歌】源有房「続千載集」
ことのはもおよばぬ富士の高嶺かな都の人にいかがかたらん

碓氷にて

もみぢ葉のうすひの御坂越えしよりなほ深からむ山路をぞ思ふ

【通釈】紅葉の薄い碓氷峠を越えてから、さらに深くなる山道を思うのである。

【語釈】◇うすひの御坂(みさか) 群馬・長野県境の碓氷峠。万葉以来の歌枕。中山道の険路で、江戸時代には箱根関と並ぶ重要な関所があった。「薄(うす)」意を掛ける。◇なほ深からむ 山が深い意に、紅葉の色が深い意を掛ける。


公開日:平成20年01月08日
最終更新日:平成20年01月08日