藤原関雄 ふじわらのせきお 延暦二十四〜仁寿三(805-853)

真楯の曾孫。内麻呂の孫。真夏の五男。
承和元年(834)、淳和天皇に見込まれて出仕、翌二年(835)、勘解由(かげゆ)判官となる。少判事・刑部少輔などを経て、従五位下治部少輔兼斎院長官に至るが、病のため退官し、東山に籠居した。俗塵を嫌って林泉を愛し、世の人々から東山進士と呼ばれた。仁寿三年二月十四日、四十九歳で卒去。東山の旧宅は禅林寺(京都市左京区)となった。
琴に秀で、淳和天皇から秘譜を賜わったという。また書にも堪能であった。古今集に歌二首を残す。

宮仕へ久しうつかうまつらで、山里に籠り侍りけるに、よめる

奥山の岩垣(いはかき)もみぢ散りぬべし照る日のひかり見る時なくて(古今283)

【通釈】山奥の岩垣紅葉は、美しく色づきながら、光をあびることなく、散ってしまうだろう。そのように我が身も、世間の栄光に浴することなく、ひっそりと世を去ることだろう。

【語釈】◇岩垣もみぢ 岩壁に生えている紅葉した木や草。

【補記】山里から眺められた実景であろう「岩垣もみぢ」に寄せて、我が身の境遇を詠んでいる。一首全体で寓意をあらわした歌。

【他出】家持集、綺語抄、古来風躰抄、色葉和難集

【主な派生歌】
奥山の岩垣紅葉ちりはてて朽葉が上に雪ぞつもれる(大江匡房[詞花])
おく山の岩垣紅葉いたづらに時雨にそほちをる人もなし(後鳥羽院)
まだしらぬ人に見せばやおく山の岩垣紅葉ちりまがふころ(藤原秀能)
奥山の岩垣紅葉このごろはあした霜おき夕べ散りかふ(上田秋成)

題しらず

霜のたて露のぬきこそ弱からし山の錦の織ればかつ散る(古今291)

【通釈】霜の縦糸、露の横糸は弱いらしい。山の錦が織り上げるはしからほどけてゆく。

【語釈】◇霜のたて露のぬき 霜や露が木の葉を鮮やかに色づかせると考えられたので、こう言う。◇山の錦 紅葉を山が身に纏った錦織物に喩えている。

【補記】紅葉を縦糸・横糸で織り成した織物になぞらえる趣向はすでに万葉集に見える(下記参考歌)が、掲出歌は、霜と露が葉を色づかせるとした当時の常識からさらに一ひねりを加え、紅葉の散るさまを華麗に描き出している。

【他出】新撰和歌、俊頼髄脳、定家八代抄、桐火桶

【参考歌】大津皇子「万葉集」巻八
(たて)もなく緯(ぬき)も定めず娘子らが織れる紅葉に霜なふりそね

【主な派生歌】
もろく見し霜と露とのたてぬきは風のおりける錦なりけり(慈円)
霜のたて山の錦をおりはへてなくねもよわる野べの松むし(藤原定家)
山がつの夜寒の秋の露のぬき霜のたてまでうつ衣かな(良聖[新千載])


公開日:平成12年02月09日
最終更新日:平成15年03月21日