三条院 さんじょういん 天延四〜寛仁元(976-1017) 諱:居貞

冷泉天皇の第二皇子。母は藤原兼家女、贈皇后宮超子。敦明親王(小一条院)・陽明門院禎子(後三条天皇の皇后)の父。
天延四年正月三日生誕。寛和二年(986)、従弟の一条天皇(当時七歳)が即位した時、皇太子に立てられる。寛弘八年(1011)六月、一条天皇の譲位を受けて即位(第六十七代天皇)。時に三十六歳。眼病と神経系慢性疾患に悩み(『大鏡』)、彰子腹の敦成親王の即位を願う藤原道長の圧迫もあって、長和五年(1016)、退位した。翌年五月九日、崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集は八首。『新時代不同歌合』歌仙。

皇子(みこ)の宮と申しける時、少納言藤原統理(むねまさ)、年頃なれつかうまつりけるを、世を背きぬべきさまに思ひたちけるけしきを御覧じて

月かげの山の端分けて隠れなばそむくうき世を我やながめむ(新古1500)

【通釈】月が山の稜線の間に隠れるようにあなたが出家してしまったら、あなたが捨てたこの憂き世を、私独り取り残され物思いに耽りつつ過ごすのだろうか。

【補記】即位前、長年親しく仕えた藤原統理が出家の決意を表わした時に詠んだ歌。「月」は統理を、「隠れ」は出家することを喩える。

【主な派生歌】
今はとてそむくうき世を仮の庵に秋はくもらぬ月のみぞすむ(藤原俊成女)

月を御らむじてよませ給ける

秋にまた逢はむ逢はじも知らぬ身は今宵ばかりの月をだに見む(詞花集97)

【通釈】再び秋に逢えるか逢えないかも知らない身は、せめて今夜限りの月だけでも、心ゆくまで眺めよう。

【主な派生歌】
来む世には逢はむ逢はじもしら露の消えてかなしき野辺の秋風(木下長嘯子)
うきしづみ逢はむ逢はじも知らぬ身をみつのかしはに定めてもみむ(武者小路実陰)

例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、月の明(あか)かりけるを御覧じて

心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半(よは)の月かな(後拾遺860)

【通釈】我が意に反してこの世に生き長らえたなら、いつか恋しく思い出すに違いない――そんな月夜であるなあ。

【語釈】◇例ならず 病気をいう。◇心にもあらで 心にもあらず。我が意に反して。◇恋しかるべき (生き永らえて後には)恋しく思うにちがいない。

【補記】『栄花物語』巻十二によれば、長和四年(1015)十二月、十余日の明月の晩に、清涼殿内の御局で三条天皇が中宮に詠みかけた歌。翌年正月、譲位。

【他出】栄花物語、袋草紙、古来風躰抄、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合

【参考歌】作者不詳「古今和歌六帖」
心にもあらでうき世にすみのえのきしとはなみに濡るる袖かな

【主な派生歌】
明けぬともなほ面影にたつた山恋しかるべき夜半の空かな(藤原定家)
秋もいなば恋しかるべき今夜かなたのめかおきし有明の月(後鳥羽院)
定めなき世にも我が身のながらへば幾たび春の別れしたはむ(衣笠家良)
心にもあらで今宵の月を見て更けぬさきにと誰を待つらむ(少将内侍)
心にもあらでうき世の老の波身は捨て舟のすゑの浦風(三条西実隆)


更新日:平成17年03月27日
最終更新日:平成22年08月26日