源雅定 みなもとのまささだ 嘉保一〜応保三(1094-1162) 号:中院入道右大臣

村上源氏。右大臣顕房の孫。太政大臣雅実の二男。母は田上二郎の娘、または藤原経生の娘郁芳門院女房(尊卑分脈)。大納言顕通の異母弟。内大臣雅通・大納言定房の養父。通親の祖父。藤原顕季の婿となり、その中院邸を本居とした。実行長実顕輔らは義兄弟にあたる。
元永二年(1119)、参議右中将。大治六年(1131)、中納言右衛門督。保延二年(1136)、権大納言。久安五年(1149)、内大臣左大将。同六年、右大臣正二位左大将に至る。仁平四年(1154)五月、出家。法名蓮如。
永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合、同年および元永元年(1118)の六条宰相(実行)家歌合、保安二年(1121)の内蔵頭長実歌合、長承三年(1134)の中宮亮顕輔歌合などに出詠。永久四年(1116)四月、元永元年(1118)五月には自邸で歌合を催した。金葉集初出。勅撰入集十九首(金葉集は二度本で数える)。歴史物語『大鏡』の著者とする説がある。有職故実に詳しく、また笙の名手であったという。後鳥羽院撰『時代不同歌合』に歌仙として撰入。

毎朝見花といへる心をよみ侍りける

たづねきて手折る桜の朝露に花の袂のぬれぬ日ぞなき(千載53)

【通釈】毎朝尋ねて来ては、手で折り取る桜の花――その朝露に、色美しい袂が濡れない日とてない。

【補記】「袂が濡れる」と言えば、恋歌では涙を暗示するが、掲出歌は桜に対するひたすらな恋情が耽美的に詠まれている。

【他出】時代不同歌合、六華集、題林愚抄

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
穂にもいでぬ山田をもると藤衣いなばの露にぬれぬ日ぞなき

実行卿家の歌合に鵜川の心をよめる

大井河いくせ鵜舟の過ぎぬらむほのかになりぬ篝火の影(金葉151)

【通釈】大堰川(おおいがわ)の鵜飼舟は、いくつの瀬を過ぎていったのだろう。篝火の影も遠くなり、ほのかに見えるばかりだ。

【語釈】◇大井河 大堰川。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。

【補記】元永元年(1118)六月二十九日、藤原実行が主催した右兵衛督家歌合、七番右勝。

題しらず

逢ふことはいつとなぎさの浜千鳥波の立ち居にねをのみぞ鳴く(金葉361)

【通釈】逢うことをいつとも約束していないので、渚の浜千鳥が寄せては引く波に鳴き声をあげるように、私もふだんの立居につけて泣いてばかりいる。

【語釈】◇いつとなぎさの 渚に「無き」を掛け、「いつとなき」の意味をだぶらせている。◇立ち居 立ったり座ったりすること。日常のささいな動作・ふるまい。

【補記】「なぎさの浜千鳥波の」は「立ち居」の序詞となっている。

月あかかりける夜、西行法師まうできて侍りけるに、出家の心ざしあるよし物語してかへりにけるのち、その夜の名残おほかりしよしなど申しおくるとて

夜もすがら月をながめて契りおきしそのむつごとに闇は晴れにき(新後撰650)

【通釈】一晩中、月を眺めて語り合い、出家する約束をあなたにしました。あの夜の親しい語らいに、私の心の闇は晴れたのです。

【補記】雅定が西行に出家のことを相談したのである。西行の返歌は「すむと見えし心の月しあらはればこの世も闇のはれざらめやは」。

【他出】月詣集、山家集、西行歌集、玉葉集(異本歌。重出)

禎子内親王かくれ侍りて後、悰子内親王かはりゐ侍りぬと聞きて、まかりてみければ、何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて、女房に申し侍りける

ありす川おなじ流れはかはらねど見しや昔の影ぞ忘れぬ(新古827)

【通釈】有栖川の流れが昔と変わらないように、斎院のご様子はお変わりないようですが、昔拝見した斎院のお姿は決して忘れはしません。

【語釈】◇禎子内親王 白河天皇の皇女。保元元年(1156)正月五日、薨。◇悰子内親王 堀河天皇の皇女。禎子内親王の姪にあたる。◇ありす川 有栖川。賀茂斎院の本院の傍を流れていた川。斎院を象徴する。◇同じ流れ 両内親王が血筋を同じくすることを含意する。

【他出】時代不同歌合、歌枕名寄

【参考歌】
ちはやぶるいつきの宮の有栖川松とともにぞ影は澄むべき(藤原師実[千載])


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年03月18日