紀皇女 きのひめみこ 生没年未詳 略伝

天武天皇の皇女。母は蘇我赤兄女。同母兄妹に穂積皇子・田形皇女がいる。
 
兄穂積皇子の推定生年などから推測して、天武年間の生まれであることはほぼ確か。『日本書紀』天武二年二月条から、生母と同母兄妹が知られる。万葉集3-424・425「或本反歌」の左注に「或云、紀皇女薨後、山前王、石田王に代りて作れり」とあり、石田王(出自・伝未詳)の妻であったかと推測される。またこの歌は万葉集の排列からすれば平城遷都以前の作なので、紀皇女は和銅三年(710)以前に薨去したかとも考えられる。万葉集に2首の歌を載せる。また異母兄弟弓削皇子の「紀皇女を思ふ歌」があり、弓削皇子と恋仲であったか。

譬喩歌 紀皇女の御歌一首

軽の池の浦廻(うらみ)行き()る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(万3-390)

【通釈】軽の池の岸に沿って行き巡る鴨ですら、藻の上で独り寝などしないのに。

【補記】「軽の池」は軽の地(奈良県橿原市大軽あたり)にあった人工の池。夫木抄・玉葉集に第二句「入江めぐれる」として入集。

物に寄せて思ひを()ぶ歌

おのれゆゑ()らえて居れば葦毛馬の面高斑(おもたかぶた)に乗りて来べしや(万12-3098)

右の一首は、平群文屋朝臣益人伝へて云く、昔聞く、紀皇女竊かに高安王()ひて責められし時、此の歌を御作(よみたまへ)りと。但し高安王は左降して、伊与の国守に()けらる。

【語釈】「おもたかぶた(だ)」は語義未詳。葦毛で斑(ぶち)模様のある馬のことをいうか。

【補記】左注の大意は「昔紀皇女が高安王と密通して罪を責められた時の御作で、高安王はこのため伊予国守に左降された」。高安王は初叙の年齢からして天武末年または持統初年頃の生まれと推定され、紀皇女とは年齢差が大きいことから、左注の作者名は「多紀皇女」の誤りであろうとする説もある(吉永登)。


最終更新日:平成15年08月22日