穗積皇子 ほづみのみこ 生年未詳〜霊亀一(715) 略伝

生年は天武二年(673)頃か。天武天皇の皇子。母は蘇我赤兄女、石川夫人。同母妹に紀皇女・田形皇女がいる。子には上道王・境部王がいる。孫の広河女王も万葉集に歌を載せる。大伴坂上郎女を妻としたことが知られるが(万葉集巻四)、正妃が誰であったかは不明。
慶雲二年(705)九月、知太政官事に就任する。翌年、右大臣に准じて季禄を賜る。和銅八年(715)正月、元日朝賀に際し一品に叙せられる。同年七月二十七日、薨ず。
万葉集には四首の歌が載る。万葉集巻二によれば高市皇子の宮にいた但馬皇女と密通し、同じ頃勅命により近江志賀寺に派遣されている。

但馬皇女の薨じて後、穂積皇子、冬の日雪降るに、遥かに御墓を望みて、悲傷流涕して作らす歌一首

降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)猪養(ゐかひ)の岡の寒からまくに(万2-203)

【通釈】降る雪はそうたくさん降らないでくれ。吉隠の猪養の岡が寒いだろうから。

【補記】但馬皇女は天武天皇と氷上娘(中臣鎌足の女)の子で、高市皇子の妻。万葉集巻二には、穂積・高市・但馬をめぐる三角関係を窺わせる記述がある。皇女は和銅元年(708)、六月二十五日に薨去。同年冬、穂積皇子がその墓を見ての悲傷歌である。「吉隠の猪養の岡」は奈良県桜井市初瀬の東北の山だろうと言う。なお末句は旧訓「塞(せき)にせまくに」。また「塞なさまくに」とも訓まれた。この場合、「岡への道のさえぎりとなるだろうから」ほどの意となる。現在では金沢本に「塞」を「寒」とするのを採るテキストが少なくない。

穂積皇子の御歌二首

今朝の朝明(あさけ)雁が()聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し(万8-1513)

【通釈】今朝の明け方、雁の鳴き声を聞いたなあ。きっともう春日山は紅葉したことだろう。私の心は感じやすくなり、胸苦しい思いがする。

 

秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば(万8-1514)

【通釈】野の秋萩はそろそろ咲く頃だろう。私の家の庭の茅花が散ってゆくのを見れば。

【補記】秋雑歌。「浅茅(あさぢ)」は丈の低いチガヤ。群生する。初夏に白い花穂をつける。

穂積親王の御歌一首

家にありし(ひつ)(くぎ)さし(をさ)めてし恋の(やつこ)のつかみかかりて(万16-3816)

右の歌一首は、穂積親王の宴飲(うたげ)の日にして、酒(たけなは)なる時に、好みて()の歌を誦して、以てつねの(めで)と為したまひき。

【通釈】家にあった匣に錠をさして閉じ込めてしまったはずなのに、恋のやつめが、またもや私の胸に取りついて…。

【主な派生歌】
恋は今はあらじと吾は思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる(広河女王[万葉])
したひくる恋のやつこのたびにても身のくせなれや夕とどろきは(*源俊頼[千載])
山のはに豊旗雲をさしあげて恋のやつこのせめくるをみよ(正徹)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日