天智天皇の第二皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂のむすめ遠智娘(おちのいらつめ)。叔父の大海人皇子に嫁ぎ、草壁皇子を生む。父帝崩御の後、夫に従って吉野へ逃れ、壬申の乱に勝利した夫が即位した後は、皇后として政治を輔佐した。天武天皇崩後、皇位を継承し、引き続き律令政治の確立に努める。持統八年(694)、藤原京遷都。同十年(696)、孫の文武天皇に譲位し、史上最初の太上天皇となる。大宝二年十二月二十二日崩御。五十八歳。
万葉集に歌を残す。確実に持統天皇作と言えるのは、「春過ぎて…」(1-28)、及び天武天皇崩時の挽歌三首(2-159/160/161)、あわせて四首である。また2-162もほぼ持統御製とされて動かない。「春過ぎて」の歌は、新古今集・百人一首などに採られ、古来名歌とされた。
天皇の志斐嫗に賜ふ御歌一首
いなと言へど強ふる
【通釈】いやだと言うのに、無理に聞かせる志斐の婆さんの押しつけ話。最近は聞かなくて、なつかしがっているよ。
【語釈】◇天皇 どの天皇を指すのか、確証がない。持統天皇とする説が有力だが、文武天皇説などもある。
【主な派生歌】
かしましと面伏せには言ひしかどこの頃見ねばさびしかりけり(*良寛)
又さらに折り焚く柴のしひがたりさすがに夜さへあくべくはなし(加納諸平)
天皇の
やすみしし 我が大君の 夕されば
【通釈】我が大君の御霊(みたま)は今も、夜になればご覧になっているのでしょうね。朝が明ければ、お尋ねになっているのでしょうね。「神岳の山の林は、もう紅葉したか」と。今日だって、大君が生きておいでならそうお尋ねになるでしょうに。明日だって、ご覧になるでしょうに。その山を、私は仰ぎ見ながら、夜になれば無性に悲しみ、朝が明ければ心寂しく過ごし、粗布で織った喪服の袖は、乾く間もありません。
【語釈】◇やすみしし 「おほきみ」に掛かる枕詞。◇神岳 不明。雷丘とも言う。
【補記】天武十五年(686)九月九日、天武天皇崩御。その時に持統天皇が詠んだという歌。
一書に曰く、天皇の
燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面智男雲(万2-160)
【通釈】燃える火も、取って袋に包んで入れることができると言うではないか。それなら人の魂だって取っておくことができるはずではないか。
【語釈】◇面智男雲 訓義未詳。「智」は「知」とする本もある。「も知るといはなくも」「あはなくもあやし」などの訓み方がある。「火を袋に入れるように魂も取っておけるはずだが、私は亡き夫(天武天皇)に会うすべがない」と歎いた歌であろう。
北山にたなびく雲の青雲の星
【通釈】北山にたなびく雲、その青雲が、星を離れてゆき、月からも離れて行って…。
【語釈】◇北山 原文は「向南山」。初句は「神奈備山(かむなみやま)」「神奈備(かむなび)に」と訓む説もある。◇青雲 雲はしばしば死者の魂の暗喩。ここでは亡き天武天皇の御霊をたとえるか。◇星・月 残された皇后や皇子を暗喩していると思われる。
天皇の
【通釈】飛鳥の浄御原の宮に、天下をお治めになった、我が大君、日の神様の御子であらせられる天皇陛下は、どのようにお思いになってか、伊勢の国の、沖の藻を靡かせる波に揺られ、潮の香りばかりする国においでになったまま、お帰りにならない。無性にお会いしたくてなりません、日の神様の御子よ。
【語釈】◇やすみしし 「おほきみ」に掛かる枕詞。◇高光る 「日」に掛かる枕詞。◇日の皇子 天照大神の子孫であることを言う。◇神風の 「伊勢」の枕詞。◇味凝 「うまき織り」で美しい織物のこと。それで「あや(綾)」に掛かる枕詞になる。
【補記】天武崩後八年を経た持統八年(694)九月九日、故天皇のために内裏で御斎会(金光明最勝王経を講説する法会)を行った夜、持統天皇が夢のうちに習い覚えたという歌。因みに日本書紀では持統七年(693)九月十日、故天武天皇の為に「無遮大会(かぎりなきをがみ)」を内裏で挙行したとある。
太上天皇御製
飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(万1-78)
【通釈】明日香の里をあとにして藤原の新しい都へ去って行ったなら、あなたの眠っておられるあたりは見えなくなってしまうのでしょう。
【語釈】◇太上天皇御製 この前書は万葉集に「一書に云く」として記してある題詞脚注からとったもの。下記参照。◇飛ぶ鳥の 明日香にかかる枕詞。◇君があたり この歌を持統天皇作とみる立場からは、この「君」は亡き夫天武天皇を指すと思われる。
【補記】この歌の作者ははっきりしない。万葉集の題詞は(訓読すると)「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春三月、藤原の宮より寧樂の宮に遷りませる時、長屋の原に御輿(みこし)停めて古郷を廻望(かへりみ)したまひてよみたまへる御歌」とあるので、平城京遷都の際の天皇、元明天皇の御製とする説もある。ここでは『万葉集略解』の本居宣長説に従い、題詞は誤伝と見て、持統天皇の御製としておいた。「宣長云、此の歌を一書には持統天皇の御時に飛鳥より藤原へうつり給へる時の御製とするなるべし、然るを太上天皇といへるは、文武天皇の御代の人の書る詞也。又和銅云々の詞につきていはゞ、和銅のころは持統天皇既に崩り賜へば、文武の御時に申しならへるまゝに太上天皇と書る也。此歌のさまをおもふに、まことに飛鳥より藤原の宮へうつり賜ふ時の御歌なるべし。然るを和銅三年云々といへるは、傳への誤なるべしといへり」(『万葉集略解』)。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、今鏡、古来風体抄、新古今集(元明天皇御製)、定家八代抄、歌枕名寄、夫木和歌抄
【主な派生歌】
冬はただ明日香の里の旅枕おきてやいなん秋の白露(藤原定家)
飛ぶ鳥の明日香の里のきりぎりす君があたりの秋や恋ふらむ(後鳥羽院)
風かよふ明日香の里の梅が香に君があたりは春ぞ過ぎ憂き(*二条為重)
天皇御製歌
春過ぎて夏
【通釈】春は過ぎ去って、夏がやって来たらしい。白い布でつくった衣が乾してある。天の香具山に。
【語釈】◇白たへの衣 栲(たえ)で織りあげた白布で製った衣。栲は楮(こうぞ)などの樹皮から採った繊維。◇天の香具山 奈良県橿原市南浦町。大和三山の一つ。天から降ってきた山であるとの伝承があり(伊予国風土記逸文)、それゆえ「天の」が付いた。
【補記】新古今集・百人一首などでは「春すぎて夏きにけらし白たへの衣ほすてふあまのかぐ山」。この歌についての詳しい注釈は百人一首持統天皇の頁へ。
【他出】家持集、五代集歌枕、古来風躰抄、新古今集、定家八代抄、詠歌大概、秀歌大躰、百人一首、歌枕名寄、夫木和歌抄
【主な派生歌】
いつしかと衣ほすめりかげろふの夏きにけらし天のかご山(藤原隆季)
白妙にゆふかけてけり榊葉に桜さきそふ天のかぐ山(藤原俊成[続拾遺])
白妙の衣ほすてふ夏の来て垣根もたわに咲ける卯の花(藤原定家)
大井川かはらぬゐぜきおのれさへ夏きにけりと衣ほすなり(〃)
花ざかり霞の衣ほころびてみねしろたへの天のかご山(〃)
名に高き天のかぐ山けふしこそ雲ゐにかすめ春やきぬらん(〃[続古今])
夏の来て卯の花白くぬぎかふる衣乾すらし天のかぐ山(作者不明「未来記」)
雲晴るる雪の光や白妙の衣干すてふ天のかぐ山(藤原良経)
春霞しのに衣をおりかけていくかほすらん天のかご山(〃[続後撰])
白雲の衣ほすてふ山がつの垣ほの谷は日影やはさす(藤原家隆)
白妙の衣ほすなり郭公天のかぐ山おりはへてなけ(〃)
春ををしみ天の香具山袖ぬれてあすは卯月の衣ほすとも(〃)
いまよりの秋風たちぬしろたへの衣吹きほすあまのかぐ山(〃)
白妙の衣ふきほす木枯しのやがて時雨るる天のかぐ山(藤原雅経[続古今])
みねたかき天のかご山しろたへのたが衣手を雲にほすらん(藤原信実)
かぐ山のあまぢのかすみおりはへて神もやむかし衣ほしけむ(藤原基家)
五月雨は雲のおりはへ夏衣ほさでいくかぞあまのかご山(藤原為家)
朝あけの霞の衣ほしそめて春たちなるる天のかぐ山(土御門院[続古今])
冬きては衣ほすてふひまもなく時雨るる空の天のかぐ山(後嵯峨院[続後撰])
佐保姫の衣ほすらし春の日のひかりに霞む天のかぐ山(宗尊親王[続後拾遺])
佐保姫の霞の衣をりかけてほす空たかき天のかぐ山(二条為重[新後拾遺])
香久山やあまぎる雪の朝がすみそれとも見えずほす衣かな(正徹)
さくら花よそめは雲になりはてて衣はほさじ天の香久山(木下長嘯子)
水無月のテラス手負のラガー出て白妙の裂帛を干したり(塚本邦雄)
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月11日