文室真人智努
ふんやのまひとちぬ
- 生没年 693(持統7)〜770(宝亀1)
- 系譜など 長親王の子。もと智努王と称し、752(天平勝宝4)年9月、臣籍に降り文室姓を賜わった。名を智奴・珍努・珎努(珎は珍の異体字)にもつくる。のち浄三(じょうさん、又はきよみ)と改めた。兄に栗栖王(天平勝宝5年薨)、弟に大市・長田王・川内王がいる。室としては茨田郡王(まむたのこおりのおおきみ)が知られる。子には与伎・大原などがいる。
- 略伝 717(霊亀3)年1.4、無位より従四位下に初叙される。『公卿補任』の薨年によるとこの年25歳。718(養老2)年9月丁未、大舎人頭(『公卿補任』)。728(神亀5)年9.13、基皇太子が薨じ、11.3、造山房司長官に任じられる。729(神亀6)年3.4、従四位下。740(天平12)年11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮で行幸供奉者への叙位の際、正四位下に昇叙される。741(天平13)年9.8、巨勢奈弖麻呂と共に恭仁京造宮卿に就任。以後、新京・離宮などの造営に活躍し、同年9.12、藤原仲麻呂らと共に恭仁京における庶民の宅地班給・左右京の設定に従事する。742(天平14)年8.11、聖武天皇が紫香楽村行幸を計画した際には、高丘河内と共に造離宮司に任命される。746(天平18)年1月、左大臣橘諸兄らと共に元正上皇の中宮西院に雪掃いに奉仕し、肆宴に参席。同年4.22、正四位上に昇叙。747(天平19)年1.20、従三位。748(天平20)年4.21、元正上皇崩御の際、石上乙麻呂らと共に御装束司に任命される。
752(天平勝宝4)年9.22、文室真人を賜姓され、以後文室真人智努を名乗る。同年11.25の新嘗会の肆宴で応詔歌を奉る(19/4275)。753(天平勝宝5)年7月、亡夫人茨田郡王の供養のため、仏足石及び21首の仏足石歌の碑を造立(薬師寺に現存)。754(天平勝宝6)年4.5、摂津大夫。7.19、太皇太后藤原宮子崩御の際、橘諸兄らと共に御装束司を務める。756(天平勝宝8)年5.2、聖武上皇崩御の際、藤原豊成らと共に山作司。12.30の梵網経購読の際、豊成・仲麻呂らと共に各寺に派遣される。757(天平勝宝9)年3.29、道祖王の廃太子を決める議に列席。4.4、天皇が群臣に立太子の件を諮問した時、左大弁大伴古麻呂と共に池田王(舎人親王の子)を皇太子に推薦するが、結局大炊王が立太子。6.16、治部卿に就任。この時下僚(少輔)に大原今城がいた。758(天平宝字2)年6.16、参議に出雲守(遥任)を兼ねる。同年8月、大炊王の即位(淳仁天皇)の後、仲麻呂らと共に官号改易に従事する。
759(天平宝字3)年6.22、意見封事が披露された際、参議文屋智努の名が見える。760(天平宝字4)年1.4、中納言。同年6.7、光明皇太后崩御の際、池田親王・白壁王らと共に山作司を務める。761(天平宝字5)年1.2、正三位。この時文屋浄三とあり、智努より改名したことが判る。同年10.11、保良宮遷都に伴い、稲四万束を賜わる。762(天平宝字6)年1.4、御史大夫(大納言)に就任。同年8.20、高齢のため扇を持ち杖をつくことを許される。764(天平宝字8)年1.7、従二位。同年7.12、高野天皇(孝謙上皇)は紀寺の元奴紀益人ら76人を解放、良民とする旨、御史大夫浄三・仁部卿朝狩を召して口勅する。同年9.4、退官。天皇(孝謙上皇か)より労いの詔を賜わる。致仕により半減された職分の雑物は、押勝の乱後、旧に復される。768(神護景雲2)年10.24、大宰の綿(新羅交関物購入用)六千屯を賜わる。
770(神護景雲4)年8.4、称徳天皇崩御。この際、『日本紀略』に引く藤原百川伝によれば、右大臣吉備真備は文屋浄三を皇太子に立てようとして固辞され、次に弟の大市(67歳)を立てようとしたがこれも固辞された。百川・永手・良継ら藤原氏は謀って偽の遺言の宣命を作り、白壁王を立てた、という。白壁王が即位し宝亀に改元された直後の10.9、薨ず(78歳)。従二位。薄葬にして鼓吹を受けざることを遺言し、諸子はこれを遵奉したという。『日本高僧伝要文抄』に「沙門釈浄三菩薩伝」があり、伝燈大法師位を授けられたとある。
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