吉備朝臣真備
きびのあそみまきび
- 生没年 695(持統9)?〜775(宝亀6)
- 系譜など 旧氏名は下道(しもつみち)朝臣。746(天平18)年、吉備朝臣に改氏した。名は真吉備にも作る。父は右衛士少尉下道国勝。母は楊貴(八木)氏(奈良県五條市で発見された墓誌がある)。男子に泉、女子に由利(姉妹ともいう)がいる。下道氏は吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族。姓は初め臣、684(天武13)年に朝臣賜姓。
- 略伝 716(霊亀2)年8.20、22歳のとき、第8次遣唐使の留学生に任命される。留学生には他に阿倍仲麻呂、留学僧には玄ム(げんぼう)らがいた。
717(霊亀3)年3月、遣唐使船出航。押使多治比県守、大使大伴山守、副使藤原宇合。真備は玄ム(げんぼう)と共に18年間唐に留まることになる。
732(天平4)年8.17、第9次遣唐使任命される。多治比広成、大使。中臣名代、副使。翌年4月進発。真備・玄ム(げんぼう)らを迎えることを目的の一つとする。
735(天平7)年3.25、遣唐大使多治比広成・玄ム(げんぼう)らと共に帰国拝朝。同年4.26、唐礼130巻・暦書・音階調律器・武器各種を献上する。この頃正六位下に昇叙され大学助となる。以後、玄ム(げんぼう)と共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速に昇進を重ねた。
736(天平8)年1.21、外従五位下。
737(天平9)年2.14、従五位下。この頃中宮亮の地位にあった。同年中、さらに従五位上に昇叙。
738(天平10)年7.7、天皇、西池宮で下道真備ら文人30人に梅樹の詩賦を命ず。
739(天平11)年、母を失う(奈良県五條市で発見された楊貴(八木)氏墓誌)。
740(天平12)年8.29、大宰少弐藤原広嗣が上表文にて時政を批判。玄ム(げんぼう)・下道真備を除くことを主張。この時右衛士督とある。同年10月、関東行幸に従駕。11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮に至り、供奉者として正五位下に叙位される。
741(天平13)年7.3、東宮学士に任命され、皇太子阿倍内親王に典籍を講説する。
743(天平15)年5.5、内裏の宴で皇太子、五節を舞う。天皇は詔で真備の冠を二階上げることを命ずる。この日、従四位下に昇進。同年6.30、春宮大夫(兼皇太子学士)。この年、男子泉が生まれる。母は不詳。
745(天平17)年11.17、玄ム(げんぼう)は筑紫観世音寺に左遷される。
746(天平18)年10.19、吉備朝臣を賜姓される。
747(天平19)年3.11、春宮大夫を解任される。後任の石川年足は仲麻呂に近い人物と見られ、藤原仲麻呂による真備排除の意図が実現されたか。同年3.16、大養徳国を改め大倭国に戻す。一説に大養徳国の名称の提案者は真備で、この名称復帰を真備の失墜と関連付ける説がある(野村忠夫)。同年11.4、右京大夫。
748(天平20)年4.21、元正上皇が崩じ、山作司に任じられる。
749(天平勝宝1)年7.2、阿倍内親王即位(孝謙天皇)。この日従四位上に昇叙される。
750(天平勝宝2)年1.10、筑前守に左降される。直後、さらに肥前守に転任。広嗣の怨霊を鎮めるための左遷ともいうが、孝謙が私淑していた真備の勢力伸長を恐れた藤原仲麻呂が真備を天皇から遠ざけるための計略で、むしろ広嗣の怨霊はそのための口実であろうとする説もある。なお『今昔物語』本朝仏法部巻十一によれば、陰陽道を良くした真備はその術を以て我が身を固め広嗣の霊を調伏したという。
751(天平勝宝3)年11.7、入唐副使。
753(天平勝宝5)年12.7、真備等を乗せた遣唐使船、唐より帰国途上、屋久島に漂着。
754(天平勝宝6)年1月、帰国。同年2月、唐より来日した鑑真を東大寺に安置した際、真備は勅使として派遣され、以後受戒伝律のこと和上に一任との勅を伝える(唐大和上東征伝)。同年4.5、大宰大弐(少弐は小野田守)。同年4.7、遣唐使としての功績により正四位下に昇叙される。
756(天平勝宝8)年6.22、筑前国に怡土城を築く(新羅に対する警戒)。
758(天平宝字2)年12.10、遣渤海使小野田守、渤海で得た安史の乱(三年前の11月勃発)などの情報を奏上。同日、淳仁天皇は大宰府(帥船王・大弐真備)に対し、「万一安禄山の軍が攻めて来た時のために奇謀を設けよ」と命ずる。この勅で船王・真備を当代の碩学と呼ぶ。
759(天平宝字3)年、道セン(注)の伝記『唐福光寺沙門道セン(注)行実』を著す(散逸)。
760(天平宝字4)年11.10、授刀舎人・中衛舎人等を大弐真備のもとに派遣し、諸葛亮・孫子の兵法を学ばせる。
761(天平宝字5)年10.17、西海道節度使に任命される。船・兵士・水手などを検定。
764(天平宝字8)年1.21、造東大寺長官に遷任される。14年ぶりに都の重職につくが、病と称して家居。同年9.11、恵美押勝の乱に際し、従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮し、乱鎮圧に功を挙げる。同じ頃、参議に任命される。
765(天平神護1)年、勲二等。
766(天平神護2)年1.8、中納言。同年3.12、大納言藤原真楯の薨去に伴い、大納言に昇進。同年5.4、官司から不当な処置を受けている者や官司から誤った判断を下された者の救済措置として、二柱を立てて人々に申訴させるよう奏上する。同年10.20、道鏡の法王就任に伴い右大臣に昇進。
769(神護景雲3)年2.24、称徳天皇、右大臣邸に行幸。正二位に昇叙される。
769(神護景雲3)年頃、『私教類聚』を著す。儒仏・忠孝を説く。医方を知れ、飲食を慎め、性行為を正しく行え、との三箇条がある。逸文のみ伝わる。
770(神護景雲4)年6.10、天皇不豫に際し、左大臣藤原永手に近衛府・外衛府・左右兵衛府を管轄させ、右大臣真備に中衛府・左右衛士府を管轄させる。同年8.4、称徳天皇は崩じ、左大臣永手らの協議により白壁王を立太子。『日本紀略』の藤原百川伝によれば、右大臣真備は文屋浄三(長皇子の子、77歳)を皇太子に立てたようとしたが、百川(当時は雄田麻呂)と左大臣永手・内大臣良継は浄三に子が13人もいるため後世を配慮してこれに反対。結局浄三には固辞され、次に参議文屋大市(浄三の弟、67歳)を立てたがこれまた固辞される。百川・永手・良継は謀って偽の遺言の宣命を作り、白壁王を立てたという。また『水鏡』によれば大市立太子の宣命が起草されたが、百川らが偽の宣命にすり替えた。浄三を立てようとした真備はこれを慨嘆したという。同年10.1、白壁王即位(光仁天皇)。10.8、真備は老齢(76歳)を理由に辞職を願い出るが、天皇は兼職の中衛大将のみ解任を許し、右大臣の職は慰留する。
771(宝亀2)年3月以前、再び辞職を願い出、許可される。
775(宝亀6)年10.2、薨ず(81歳。続紀に83歳とあるのは誤りか)。続紀に異例に長い薨伝があり、軍略・建築・儒教の知識などを称揚されている。著書「私教類聚」「刪定律令」等を残したともある。
(注)センの字は
関連サイト:吉備真備公(わがまち吉備町)
吉備真備(ようこそ真備町へ)
表紙へ