白壁王
しらかべのおおきみ
- 生没年 709(和銅2)〜781(宝亀12)
- 系譜など 天智天皇の孫。施基皇子の第六子。母は紀朝臣橡姫。高野新笠との間に山部親王・早良親王・能登内親王、皇后井上内親王との間に他戸親王・酒人内親王、尾張女王との間に{稗}田親王(注)がいる。漢風諡号は光仁天皇、国風諡号は天宗高紹(あめむねたかつがす)天皇。
- 略伝 737(天平9)年、無位から従四位下。746(天平18)年、従四位上。757(天平勝宝9)年、正四位下。758(天平宝字2)年、正四位上。759(天平宝字3)年、従三位。760(天平宝字4)年6月、光明皇太后葬儀に山作司。762(天平宝字6)年、中納言。764(天平宝字8)年、仲麻呂の乱の直後、正三位。翌年、乱鎮圧の功により勲二等。同年、称徳天皇の紀伊行幸に際し御前次第司長官。766(天平神護2)年、大納言。770(神護景雲4)年8月、称徳が崩ずると、左大臣藤原永手らの支持を受け、11月即位(光仁天皇)。時に62歳。『続日本紀』即位前条によれば、孝謙朝以後、皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れ、「酒を縦(ほしいまま)にして迹を晦(くら)ま」していたという。770(宝亀1)年、井上内親王を皇后とし、翌年他戸親王を皇太子に立てたが、772(宝亀3)年、巫蠱の罪に連座した皇后を廃し、続けて皇太子も廃した。皇太子の地位には、翌年山部親王が就いた。781(天応1)年4月、病により皇太子に譲位し、同年12月23日、崩御。翌年広岡山陵に葬られ、786(延暦5)年、田原陵に改葬された。万葉に歌は伝わらない。光仁朝において万葉集が現在の形に近いところまで編纂整備されたとの説は有力視されている。
(注) {稗}は、正しくは草冠あり。
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