HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
99.11.23

紅葉の「じや」と「ぢや」

 戦前は「歴史的仮名遣い」(旧仮名遣い)が行われていたわけですが、今想像されるほどには、きっちりとその仮名遣いが守られていたわけではありません。
 尾崎紅葉の「金色夜叉」から例を挙げましょう。

「貴様は善くないぞ。麁相{そさう}を為{し}たと思うたら何為{なぜ}車を駐めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻する、」(「続金色夜叉」第一章・春陽堂版 p.9 〔 〕内はルビ。一部省略)

 「逃ゲヨウ」は、歴史的仮名遣いでも「逃げよう」でいいのです。しかし、夏目漱石なども「借りるとしやう」「気を付けやう」(「しよう」「付けよう」で良い)などと書いており、助動詞「ヨウ」を「やう」と書くことは多かったようです。
 次に断定の助動詞「ジャ」は、歴史的仮名遣いでは「ぢや」ですが、紅葉は「じや」としている。本来は「デアル」「デア」だったものがなまったものだから、ザジズゼゾではなくダヂヅデドの仮名で書くのがいいでしょう。すると「ぢや」になるべきところです。紅葉はほかにも「何じや」「呼止めたんじや」などと使っています。
 ところが、彼は一方では「ぢや」も使っています。「じや」と「ぢや」が混用されているところさえある。

「可{い}かん、そりや可かん。間{はざま}に殺されても辞せんと云ふ其の悔悟は可{よ}いが、それぢや貴方は間{はざま}有るを知つて夫{をツと}有るのを知らんのじや。夫は奈何{どう}なさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。(「続金色夜叉」第二章 p.25-26)

一体然{さう}した貴方{あなた}は了簡ぢやからして、始{はじめ}に間をも棄てたんじや(「続金色夜叉」第二章 p.27)

空想を誨へて人を誤つては奈何{どう}もならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言ひ得んのじや(「続金色夜叉」第二章 p.30)

などと出てきます。短い引用文中に、「ぢや」もあれば「じや」もある。こういうところを見ると、紅葉は、「ぢや」でも「じや」でもどっちでもいいと思っていたのかな?
 いや、そうではないのですね。ほかのところも見て行くと、「ぢや」は「では」に置き換えられる場合がほとんどです(ただし「ぢやからして」は無理)。一方、「じや」は「では」には置き換えられません。
 紅葉は、「じや」を終助詞のように考えていたのではないか。「知らんのよ」「知らんのさ」などの「よ」「さ」などと同じつもりで「知らんのじや」と「じや」を使っていたのだろうと思います。これはこれで、筋が通っています。
 ただし、例外に見える個所もあります。

一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗{すこぶ}る有るのじやけれども、訪ねもせんので。(中略)世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日の有様では生効{いきがひ}の無い方ぢやけれど、此儘〔このまゝ〕で空{むなし}く死ぬるも残念でな、(「続金色夜叉」第二章 p.31)

 「ジャケレド」という同じような言い方なのに、一方では「じや」を使い、一方では「ぢや」を使ってある。するとやはり、気分によって適当に使い分けているのかな、とも思います。
 まあ、結論を急ぐのはやめましょう。連載していた「読売新聞」の紙面ではまた違っているかもしれません。ちなみに、この個所は新潮文庫では、前者が「有るのぢやけれども」、後者が「無い方じやけれど」となっていて、「ぢ」と「じ」が逆になっています。これはどうしたことでしょうか。

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 1999. All rights reserved.