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98.08.03

「b」と「v」

 前回の最後でボーヴォワールの名を出しましたが、サルトルの愛人の女性は「ボーヴォワール」だったか「ボーワール」だったか、よく迷います。
 とりあえず『講談社カラー版 日本語大辞典』を見ると、「ボーボワール」で立項され、「Simone de Beauvoir」と原綴が添えられている。「v」だから、「ボーヴォワール」でもいいはずだと理解しました。
 もっとも、平凡社の『世界大百科事典』(CD-ROM版)では「ボーボアール」で、「ワ」か「ア」かという問題も出てきますが、それはこの際置いておこう。
 「ベートーヴェン」(Beethoven)は、「ベートーン」とは書きたくない。これでは駅弁売りの掛け声みたいだ。しかし、発音するときは間違いなく「ベートーベン」と言い、「ボーボワール」と言っているから、つまりは書いたときの見た目の問題です。
 1991年6月に内閣告示された「外来語の表記」では、「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」の表記は一般的に用いる「第1表」に入っていず、「第2表」に入っています。だから、無理せずに「ボーボワ(ア)ール」「ベートーベン」でいいとも言えます(が、僕はあまり好きではありません)。
 小説家は、ちょっと気取って書きます。筒井康隆氏は、「残像に口紅を」(1989)で、小説世界から次第に日本語の音(おん)が消えていく様子を描きました。冒頭で、音の消え方のルールについて小説家が友人と話す場面があります。

「とすると、ひとつ問題が生じるんだがね。母音に濁音をつけてもいいんだな。ぼくは普通『ビジョン』『ベテラン』『ボーカル』とは書かない。『ヴィジョン』『ヴェテラン』『ヴォーカル』と書く。『ビ』や『ベ』や『ボ』が先に失われている際、これは許されるね」
「原語の発音に忠実ならそれも許そう。君はBとVの区別がつかないほど教養のない人間じゃないからね」(『残像に口紅を』中央公論社版 p.23)

 なるほど、「b」と「v」を区別するにはある程度の教養がいるのだな。教養を示そうと思えば、「ボーヴォワール」「ベートーヴェン」がいいわけだ。しかし、そういう筒井氏みずからも、ちょっと勘違いによるらしいミスを犯しています。

「ユダヤ商会が次つぎと焼き打ちされている。ここにアラヴのやつはいるか。いたら前に出ろ。片っ端からぶち殺してやるぞ」
 レバノン、サウジアラビア、ヨルダン・ハシムなどアラヴ諸国の国王や大統領がいっせいに立ちあがり、わっとシャザールにおどりかかって、たちまち拳銃をとりあげてしまった。(筒井康隆「日本以外全部沈没」『農協 月へ行く』(1973.11)所収・角川書店版 p.70-71)

 「アラヴ」はおかしい。辞書を見ると「Arab」とありますから、「アラブ」がいいんだろうと思います。ただしアラビア語の音韻組織がどうなっているのか知らないので、自信はありませんが。
 一方「スラブ人」は「Slavs」なので、気取って書こうと思えば「スラヴ人」となります。
 辞書を引く立場からは、「b」も「v」も一緒に「バ・ビ・ブ・ベ・ボ」で出していてくれた方が便利でしょう。先の『講談社カラー版 日本語大辞典』はその方針です。『広辞苑』は、「ボーヴォワール」「ベートーヴェン」派で、ちょっと引くのに戸惑うことがあります。

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