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00.03.24

小砂眼入調とは

 柳瀬尚紀『翻訳はいかにすべきか』(岩波新書、2000.01)をおもしろく読みました。
 柳瀬氏は、ジェイムズ・ジョイスなどの翻訳で知られる英文学者。この本の中で、著者は、高名な外国文学作品の日本語訳のうち、まるで日本語になっていないもの、読みにくいしろものについて、手ひどく論難しています。明らかな「誤訳」についても触れているけれど、むしろ力点は、英文和訳としては正解でも、小説としては読めない悪文が多すぎるという部分にあるでしょう。
 批判の矛先はしまいに、著者に先駆けてジョイスの『ユリシーズ』集英社版を訳した3人の訳者にも向けられています。
 この集英社版のうち「太陽神の牛」の章については、僕も疑問を呈したことがあるけれど、柳瀬氏はさらに強く、同書を根本的に否定しています。否定するだけでなく、自ら『ユリシーズ』の訳に取り組んでおり、それは現在刊行中。柳瀬氏の訳す「太陽神の牛」がどのような出来になっているか、いずれ読んでみたいと思います。
 『翻訳はいかにすべきか』の要諦の一つは、とにかく訳文を冗長にしないことらしい。たとえば、「彼」「彼女」をやたらに使うのはよくない、代名詞の「駆逐」は、「たとえインク業界に打撃を与えるにしても、断乎実践すべき」(p.133)とあります。「インク業界」というのはどういうことかというと、簡潔な翻訳を心がければ、文庫本のページ数が激減するので、それだけ印刷インクが使われなくなるから。
 これは、まったく同感です。「源氏物語」の現代語訳を読むときなど、なぜこうも翻訳というのは無意味に長くなるのか、と思います。僕はかつてこのことにも触れましたが、今思うと、長い訳は、はっきりと悪い訳だ。「原文の意味を忠実に訳そうとするため」に長くなるのではないか、と書いたのは甘すぎたかと思います。

*   *   *

 さて、ところで、この柳瀬氏の本の中に「小砂眼入調{しょうしゃがんにゅうちょう}」という章があります。
 小砂眼入とは何? 著者の説明によると「小砂、すなわち小さな砂つぶが目に入っている翻訳調だ。訳者当人の目に砂つぶが入っていても読者は痛くも痒くもないが、そういう眼{まなこ}で翻訳したものを読まされる側の身としてはたまったものではない」(p.68)ということになります。
 明治の文芸時評で、ある下手な翻訳を評して「訳文へんてつ。名づけて小砂眼入調と謂ふ」と言った人がいた(「めさまし草」という雑誌だと思います)。柳瀬氏はその用語をちょうだいして、「現代にも同じような『小砂眼入』の翻訳がある」と、告発を展開するわけです。
 しかし、柳瀬氏は勘違いをしている。「小砂眼入」というのは、そういう意味じゃないでしょう。これは、落語の「たらちね」にあることばです。長屋の大家が、店子の八五郎のために嫁を紹介してやるのですが、じつはその娘は異常にことばが丁寧だ、とうち明ける場面。金馬の語りで聴いてみましょう。

「いや、この間風の吹く日(し)に往来で会ってな、向うで言ったことが分からなかった」
「なんて言ったんです」
「今朝(こんちょう)は怒風激しゅうして小砂眼入し歩行なりがたしと言った」
「なーるほど、こりゃあ分からねえねぇ」
(「たらちね」〔三遊亭金馬落語傑作集3〕日本コロムビア 1959.06.30 CBCライヴ録音)

 明治の落語の雑誌などにも載っていると思いますが、未見。
 「けさは風が強いので砂が目に入って歩きにくい」と言えばいいのを、娘はていねいな、というよりはえらくへんてこな言いまわしで言ったのです。この娘のせりふと同じく、わざと簡単な文章をしかつめらしく訳す翻訳を「小砂眼入調」というんでしょう。
 柳瀬氏の本で何度もくり返されるこの「小砂眼入調」という用語、出てくるたびに、「なんだか、誤解してない?」と、僕は落ち着かない気分になったのでした。
 この「小砂眼入」娘のルーツは、けっこう古いですね。
 「源氏物語」にも同じようなおかしな娘が出てきます。「幾月も風邪がこじれたままなので、熱い薬湯を飲みました。臭いから、お会いできません」と言えばすむところを、「月ごろ風病重きに耐えかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなん、え対面たまわらぬ」と、学者のようなことばを使うのです。
 探せば、似たような話はほかにもあるんじゃないでしょうか。


追記 木下信一さんよりメールをいただきました。この方も同書の「少砂眼入調」に疑問をもち、著者に岩波書店気付で指摘の手紙を送ったそうです。
 「たらちね」は上方落語「延陽伯」を明治に3代目小さんが江戸へ輸入したもの、また、おそらくこの覆面の書評氏は幸田露伴であろうということです。
 著者からは早くも3日後に返事が来、指摘に感謝を述べたうえで、重版の際には該当部分を訂正し、ちょっと知ったかぶりで落語についても触れたいがよろしいか、とあったとのことです。
 木下さんの行動力と、著者の誠実さに敬服します。(2000.10.26)

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