インド北部



(パキスタン編から)

1.国境を越えただけで(アムリトサル、11月10日)

 インド側の入国審査も待たされた。 最初にヘルスチェック、こんなものは初めてである。 勝手に不衛生な所と思っていた方からチェックされたのでビックリだった。 しかし、これは形式的でパスポートに余計なスタンプを押しただけだった。
 次は本当の入国審査。 これは担当者が一人だけだったので時間がかかった。 インド政府は人材の適正配置が不得意らしい。 次の税関は二人掛かりで荷物の外側を見ただけだった。 こうして無事インドに入国できた。

 イミグレーションのそばにあった両替屋で余ったパキスタン・ルピーをインド・ルピーに替えてみた。 パキスタンにいた時にインドから同じ国境を越えてきた人に聞いた所、インターネットで調べたレートインド1対パキスタン1.21に近いインド1対パキスタン1.25くらいで替えてもらったらしい。 ところが、逆は両替屋にしてみればありがたくないらしく、パキスタン1対インド0.75とインターネットで調べたレートインド1対パキスタン0.83とはえらく差がひらいていた。 粘ってみたものの、向こうはインド側の新聞を見せたりしてこれでも良心的だということを説いた。 とにかくインド・ルピーが無かったので仕方ないのでここで両替した。

 現地通貨を手に入れたらアムリトサルへ向かう事にした。 両替屋から外に出ると「ミネラル・ウオーター100Rs」とふざけた事を言う奴がいたが無視。 ガイドブックを見るとこの手の輩がごまんといるような事が書いてあった。 さっきの税関で一緒だったスウェーデン人とリンタク、サイクルリキシャをシェアしてバス停まで向かう事にした。 値段交渉でしつこい奴と感じていたが、漕ぎ出すと「お前が漕げ。」とふざけた事を言う。 この手の人間は精神年齢が幼稚園児並みに低いので平然と図々しい事をいう。 一切無視。

 無事、バスが待っている所に着いてバスに乗り換えた。 パキスタンでは日本の中古車が多く、バスは言われた時間より1時間早い。 ところが、インドは是が非でも国産するという国策で、乗ったバスはこれ以上古いバスに乗った事が無いという国産ぼろバスだった。 恐らく、インドが独立したころはこんな形のバスが西洋では普通だったのだろう。 事実、インドの乗用車はつい最近まで40〜50年前のイギリス車のライセンス生産品しかなかったらしい。 今でも同じ物が堂々と新車で売られている。 もっとも今は日本のスズキ、ダイハツ、韓国の現代、大宇の合弁会社製のものがあるのだが。 「開発」という言葉を知らないのだろうか? とにかく、インドは周囲の国とくらべても謎の多い国らしい。

 バスは1時間ほどでアムリトサルのバスターミナルに着いた。 そこから徒歩数分のTourrist Guest House(D100Rs。 交渉すれば安くなる?)に落ち着いた。

2.黄金寺院(アムリトサル、11月11日)

 アムリトサルに着いて昼食を取ってから急に疲れて体がだるくなった。 夕食は軽く済ませて早々とベットで横になった。

 翌朝も体がだるかったが、とりあえず両替したかったので銀行へ向かった。 アムリトサルは路地が複雑に入り組んでいて道に迷って犬に軽くかまれたり(犬が本気でかまなかった事、長ズボンをはいていたので足に傷はなかった。) 親切な土地の人に教えてもらったりしてなんとか銀行の前に着いた。 インドの町はどこも細い道が入り組んでいるのだろうか? 先が思いやられる。
 ところが、時間になっても開く様子がないので近くの人に聞いてみると休みらしい。 今日は土曜。 ガイドブックには「土曜も営業している。」と書いてあったが特別休みになったのか?政府の方針が変わって土曜も休みにしたのか?定かではないが民間の両替屋を使うしかないらしい。 銀行のレシートが無いと鉄道の切符が買えないという話しを聞いていた。 次の目的地ニューデリーまでは鉄道を使う予定だったので不安になった。

 銀行のある所から両替屋が多い駅前よりもこの町の観光の目玉、「黄金寺院」の方が近いので先に黄金寺院を観光する事にした。
 黄金寺院はさらに数分歩いた所にあった。 周囲は白い壁の回廊で入口で履き物を預けて、頭に布を巻いて、、手足を洗ってから境内に入った。 中は白大理石敷で四角い池があってその中に黄金寺院が建っていた。 日本人にとっては水浴びには少し寒い30℃もない気温なのに池では巡礼の男性が沐浴していた。

 土曜日だけあってシーク教徒の巡礼以外に私を含む他の宗教の人も観光に来ていた。 この町自体、思ったほど外国人観光客がいなくて珍しいせいか?寺院の片隅で座っていたら他の宗教のインド人の青年が「どこからきたの?」、「なにしにきたの?」などインドネシアではおなじみの質問攻撃をしてきたり、女の子3人と同じくらいの年の青年のグループと一緒に記念撮影したりと一時的だが人気者の気分だった。
 肝心の黄金寺院だが、巡礼者の列が長かったので中には入らなかった。

 白い壁の回廊の一部は博物館になっていて、シーク教徒受難の歴史が絵画で紹介されていた。 政治的背景があるかもしれないが、主にイスラム教徒のムガール帝国が釜ゆでにしたり頭から鋸を引いたりと残酷の限りだった。 独立後も政府との摩擦が絶えなかったらしく、特に78年の暴動だろうか?よくわからなかったが犠牲者の惨たらしい死顔の写真が展示されていた。
 その後、83年に時のインディラ・ガンジー首相がこの黄金寺院に立てこもるシーク教徒に対してインド軍に総攻撃を指揮。 黄金寺院は陥落して大勢のシーク教徒が犠牲になった話しは当時の日本の新聞でも大きく紹介された。 その恨みを買ったのか?インディラ・ガンジー首相はシーク教徒の衛兵に暗殺されたのは皆さんもご存知だと思う。 その後、インド政府はシーク教徒と和解したのか? これといった摩擦は聞いてない。
 シーク教側も83年以降の事については政府との摩擦を避けてか?博物館では触れてなかった。

 インディラ・ガンジー暗殺でかなり過激なイメージがあったシーク教徒だが、今ではまじめにそれぞれの仕事に励んでいるらしい。 旅行者の間でも彼らは「まじめ」というイメージが浸透していて評判がいい。

3.穴が空いたお札(アムリトサル、11月11日)

 黄金寺院観光の後、駅前の両替屋で両替をした。 前日に様子を見に行った所がまじめそうで感じが良かったのでそこを訪れた。 100ドルのTCを替えてもらったが一つ気に入らない問題があった。 穴が空いたお札が多いのだ。
 その事を店の人に指摘すると半分以上は程度がマシなものに替えてくれたが残りは替えてくれなかった。 こんな事は他の国では考えられないのでしばらく粘ってみたが、店のオヤジさんが「これは銀行が悪いんだ。」と言ったが良く分らなかった。 最後にはオヤジさんは怒って「お前は悪い奴だ!」などと言い出した。 別に悪人呼ばわれされても構わないが、程度のいい札が欲しかった。 程度の悪い札はどこでも受け取ってもらえない。
 しばらく粘ってみたが本当にこれ以上持ってないらしいので諦めて穴が空いたお札も受け取った。

 後日、銀行へ行ってみて穴が空いた理由が解った。 なんと、銀行では札束を針の長いホッチキスで止めてまとめているのだ。 銀行員は必要な分だけ傷つけない様注意しながら針で止めた束から抜いて残りの札束の1枚目にその束の残高らしい事を書いていた。 注意しているとはいえ何度も繰り返してはどんなに質のいい紙を使っても穴だらけになってしまうだろう。 両替屋のオヤジさんは正しかった。
 それに、銀行のカウンターは映画の西部劇の銀行と感じが似ていた。 一つのオリの中で行員一人が業務しているのだ。 独立以来変えてないらしい。 治安面の問題もあるだろうが、おそらく彼らに聞くと「使っている上で問題ないからいいじゃないか?」というだろう。 ひょっとしたらお札をホッチキスで止めるのは昔はどこでもしていたのかもしれない。 インドはかなり保守的な所かもしれない。

 ちなみにニューデリーの商業地、コンノート・プレースのある外資系銀行では客が立つ形式で東南アジアでは普通のオープンなカウンターだった。

4.切符を買うのに一苦労(アムリトサル、11月11日)

 両替の次はニューデリーへ向かう列車の切符を買いに駅へ向かった。 案内所で聞いて駅構内の跨線橋を渡って反対側の入口で並んだ。 そちらの案内所で予約申込書をもらってどこで並べばいいのか聞くと面倒くさそうに「どこでもいい」と言った。 隣りの列が少なかったので並んでみた。

 前には中流家庭らしい若いカップルがいた。 彼らは英語で会話していた。 上のクラスの人は普段でも英語で会話しているのだろうか? 旅行作家の宮脇俊三氏の著書でインドの鉄道旅行のものがある。 もちろん、VIPの彼は鉄道では上のクラスを利用している。 ある時コンパートメントで一緒になった家族は英語で会話していて、気になった宮脇氏は同行した日本語が話せるインド人ガイドに聞いてみると「見栄だね。」と返ってきた。 彼らも「見栄」なのだろうか?

 しばらく待つと午後2時に急にあちこちの窓口が閉まった。 前のカップルに聞くと訛りのない英語で休憩時間になっただけですぐに窓口は営業を始めるとのことだった。 一応壁にも15分くらい休憩するということになっていたが、30分くらいして営業再開した。 それから後ろで並んでいたおじさんが「ここは婦人用窓口ですよ。」と教えてくれた。 奥さんの切符をだんなさんがそこで並んで買っても構わないのだろうか? とにかく私は該当しないので男ばかり並んでいた所の後に付いた。 一から出直しである。

 長く見えた列だが意外と流れは速かった。 しかし、窓口付近であることに気が付いた。 待っていたのはほとんどがダフ屋らしい。 彼らは手に切符を買う際に必要になる顧客のプロフィール(氏名、性別、年齢、住所・・など)を書いた紙を手にしていた。 仲間同士は譲り合い、私のような部外者には割り込みをしてきた。 私が注意するとへらへら笑って諦める。 どうせすぐ買えるから余裕なのだろう。 中国のダフ屋にもそんなおじさんがいたっけ。 こうしてやっと私の番が来た。 駅員は上のクラスの「エアコンクラスか?」と聞いたが2等で十分だろうと思い2等にした。 こういう場所に限らずなぜかインドは釣り銭が必要なお金のやり取りする場所に釣り銭が用意されてない。 おかげで1Rsだけだが、余計に取られてしまった。
 案じていた銀行のレシートだが、ここでは掲示を求められなかった。

5.油断ならない移動(アムリトサル→ニューデリー、11月12日)

 出発の前夜、また下痢になってしまった。 しかし既に切符は買ってあるし、その日の午後に着くし、しかも朝6時発だったので我慢することにした。

 当日、まだ日が昇ってない朝5時に起きて荷物をまとめて5時半には宿を出た。 前夜のうちに宿側に言っておいたが、入口の門におじさんが一人、ベットの上に横になっていた。 申し訳ないが起こして門の鍵を開ける様お願いした。 彼は「ブルーム」と私に聞いてきた。 何回か聞いているうちにおじさんが英語で「Room」と言っているのかな?と思って部屋番号を言うと門を開けてくれた。 インド英語はてごわい。

 歩いて発車時刻の30分前に乗車したがガラガラだった。 ところが、指定された座席のボックスにはすでにシーク教徒のおじさん、おばさんの先客がいて彼らの荷物はボックス上の網棚を埋めていたので仕方なく荷物を隣りの網棚に、自転車のワイヤーロックで固定しておいた。
 2等車の座席はリクライニングや回転しない固定のもので横に3人掛け。 ビニール張りのちょっと固いシートだった。 一つのボックスで6人と少々窮屈だった。 通路を挟んで反対側も同じだった。 インドはレールの幅が1,676mmと日本より600mmも広い。 中国の2等座席、硬座は横3列+2列だったので中国よりも大きな車体を使っているらしい。 ところが窓が狭く、鉄格子があったので視界が悪く、他の国の鉄道より外の景色を楽しむことがしづらい。
 発車時刻の10分前になると大体座席は埋まっていた。 なぜか知らないが、5分遅れての発車となった。

 明るくなって景色は見えてきたが農村ばかりで単調だった。 だが、1点だけ気になる事があった。 豚を飼っている家があるのである。 まず、イスラム教徒ではない。 ではヒンズー教徒だろうか?
 いくつか駅を止まると混みだしてきた。 そのうち、助け合いの精神からか?3人でも狭いと思った座席に4人座っていた。 私は窓際で隣りは太ったおばさんだったので窮屈だった。 おまけに窓の位置が低いので変な姿勢でじっとしていた。

 車内にはひっきりなしに車内販売が来ていた。 ミルクティー、コーヒーにアルミフォイルで包んだサンドイッチが主だった。 サンドイッチは割高感がするのか?ほとんど売れてなかった。 ミルクティーやコーヒーは人気があってどんどん売れていた。 私も3度利用したが1回馬鹿でこすっからい奴に当たった。 ミルクティーは1杯4Rs。 5Rsコインを渡すと「釣りはあとで」と言った。 大抵これでドロンである。 ところが、この馬鹿者は他の客にはちゃんと釣りを渡していた。 私が指摘するとヤケになって1Rsコインを渡した。 横で見ていたシークのおじさんは爆笑していた。

 昼を過ぎてしばらくすると家が建て込んできた。 デリーの町に入ったらしい。 さらに進むとゴミの山、ヘドロの池があってそばに人が住んでいるらしいテントがあった。 デリーのスラムらしい。 インドネシアのジャカルタにもスラムがあるが、ここまで汚くない。 ここでは奇形児がたくさん生まれるのではないかと思った。
 前の列車が詰まっているせいか?所々で列車は止まったり進んだりを繰り返してようやくニューデリー駅に20分ほど遅れて到着した。

 荷物のワイヤーロックを解除しようとしたら様子が変だ。 よく見ると端の部分のビニールが剥いてあって針金を束ねたワイヤーが露出していた。 誰かが私が居眠りしている間にワイヤーを切ろうとして諦めたらしい。 幸い荷物は無傷だった。 全く油断もスキも無い。

 幸い移動中に体調の悪化は無かった。 次の問題は駅から徒歩で行ける宿街への移動である。 インドの物売り、客引きはかなりしつこいと聞いていたからだった。 でもそれらしい輩はいるものの、意外としつこくなく、無視しておしまいだった。 人が多いから構ってられないのだろうか? うれしい誤算だった。 宿はガイドブックでおなじみのHotel Payal(D80Rs)にした。

6.盗品展示の国立博物館(ニューデリー、11月18日)

 ニューデリーの見所の一つに国立博物館がある。 首都にある国立博物館だけに展示に期待が持てるので行ってみた。

 入場料はなぜか外国人150Rsという納得できないものだった。 ガイドブックには土日無料となっていた。 土曜日に訪れても請求されたと言う事は土日無料がなくなったらしい。 インドでは今年に入って名所の入場料の値上げが著しい。 無料、数Rs、10Rsだった入場料が外国人は5$、世界遺産は10$、タージマハルに到っては20$と法外な入場料が政府から請求されるのである。 中国でやっと外国人料金無くなりつつあるのにインドでは外国人料金が増えつつある。 とことん謎の多い国だ。

 事前に入場料の事は聞いていたが、まだマシな部類だったので我慢して入ってみた。 イギリス時代から建っていたのだろうか?インドだけではなくパキスタンのインダス文明の展示もあった。 古代だけでなく、この国が豊かな事を示すムガール帝国など王朝やマハラジャの象牙や貴金属の手工芸品、ガードマンが監視していた宝石の展示は見物だった。 他にもインドらしい細密画やバングラディッシュ、ブータン、ミャンマーに囲まれ、アッサム州でかろうじてインド本国と接している東部各州の少数民族の展示が面白かった。

 それらを上回る興味ある展示があった。 それは19世紀にハンガリー生まれのイギリスの学者スタインが当時の清朝、今の中国の敦煌、新疆各地から持ち去った仏教画、仏像などが多数展示されていた。 つい1ヶ月前まで私は展示物がもともとあった所にいたのであった。
 特にトルファンのアスターナ古墳の出土品が多数展示されているのを見て嫌な気分がした。 現地には壁画があるだけで何も残っていない。 これらの事は以前から知っていたが、スタインの他にも同時代に日本の大谷探検隊を始めとする外国の調査団が中国の新疆、甘粛の遺跡の発掘品をかなり持ち去ってしまったらしい。 彼らはどんな気分で持ち帰ったのだろうか? 「清朝は崩壊寸前だから保護のため」とか「人類全体の歴史を知るための研究のため」とか大義名分、建前を言うだろうが実際は「自分のお宝を見つけて持ち帰って大喜び」程度のものなのではなかろうか?
 昔、ロンドンの大英博物館へ行った事があるが、中近東からの古代のものはほとんど盗品だろう。 中で売られていたパンフレットの案内には初めて来た人が見やすい様に展示を抜粋したコースが紹介されていた。 私は素直にそのコース通りに見学した。 パンフレットの最後に抜粋から外れた展示の案内が「次回のために」と紹介されていた。 そこには中国など東洋の展示も含まれていた。 その中にもスタインが中国から持ち去ったものが展示されているかもしれない。
 他の西洋の国の博物館も五十歩百歩かもしれない。 もしかしたら日本の博物館もそうなのかもしれない。
 ちなみにここの博物館ではスタインのプロフィールを紹介していたが、どのような経緯で中国にあったものがここにあるのかということは触れてなかった。

 スタインのしたことは結果的には清朝崩壊後の混乱、文化大革命の混乱から出土品を守った事になる。 それでも個人的に思う事だが、政治的などの事情で混乱している、もしくはそれが予想される場合を除いて昔持ち去ったものはもとあった場所に戻すべきだと思う。

7.効きすぎに注意(ニューデリー、11月12〜26日)

 アムリトサルの下痢はデリーで薬を飲んで3〜4日で治したが、胃の痛みと体のだるさは1日おきくらいのペースで良くなったり寝込んだりした。 旅行者がなりやすい病気で「肝炎」というものがある。 食事や飲み水から感染するものなので不衛生な環境ではかかりやすい。

 肝炎ではと思いシンガポールの保険会社の連絡先に電話をしてみた。 出た相手は研修を受けずにアルバイトかなにかでここにいますという素人でこちらの分りきっていることを言ってから「病院は御自分で調べて下さい。」と言った。 大抵、そこに電話すると支払方法はともかく現地の提携病院を紹介してもらえることになっている。 運悪くひどいのにつながったらしい。 電話をするだけ無駄だった。
 本来なら怒鳴って調べさせるのだが、幸い同じ宿にいたある日本人旅行者がガイドブックに載っている大きな病院に通っていて、そこの状況を聞いていたのでその病院に行く事にした。 たとえ調べさせても本当にやるのか信用ができなかったということもある。
 幸い宿に戻ったらその病院で診察を受けた事がある人がいたので病院までの行き方を教えてもらって、担当した医師を紹介してもらった。

 その病院、Apollo Hospitalはニューデリーの南東郊外にあって、宿から結構距離があった。 バスはニューデリーの商業地、コンノートプレースを通って英国時代は英国人官僚や上流階級が住んでいて、今は「英国人」が「インド人」に入れ替わっただけの高級住宅地、学生があふれる街を通って東京の環八にあたる環状道路をしばらく進んだが右に曲がった。
 ここで、教えてもらった通りに近所の英語が話せそうなおじさんにApollo Hospitalの事を聞くと近くで立っていたおじさんが「近くになったら教えるよ。」と言ってくれた。 近くになると隣りに座っていたおばさんと例のおじさんが「次だよ。」と教えてくれた。 なかなか親切な人が多いらしい。

 降りてみると目の前に近代的な鉄筋のビルが建っていた。 Apollo Hospitalだ。 案内所で紹介してもらった医師、Dr.Tarun Sahniの部屋を教えてもらった。 それからDr.の部屋の近くの受付できれいなサリーを着た事務の若い女性にDr.に診察してもらいたい旨を告げると部屋まで案内してもらった。 取り込み中だったらしく、Dr.に紹介してもらった経緯を説明すると外で待つ様言われた。
 待っている間、受付の様子を見ていた。 男性は清潔な白のカッターシャツにグレーのスラックス、女性は案内してもらった若い女性同様きれいなサリーを着ていた。 皆、下町のインド人と違ってテキパキと仕事をこなしていた。 もっとも、どこの国でも病院は忙しいものと相場が決まっている。 高等教育を受けた上のクラスの人でないとこなせないのだろう。

 Dr.に呼ばれて診察となった。 Dr.は人のよさそうな穏やかなインテリ風の人だった。 やはり多忙の身らしく、私の診察中にも内線や携帯電話から何度もベルが鳴った。 私から症状を聞くとこれから何が必要で、費用はどれくらいかかるかを説明してもらった。
 早速、超音波診断に移った。 秘書の男性に案内してもらって装置がある所へ行くとベットに寝かされお腹を出す様オペレーターの人に言われた。 指示どうりシャツをめくってお腹を出すとアルコールの入った透明な軟膏みたいなものに覆われたPCのマウスみたいなものでお腹をグリグリされた。 それで診断はおしまい。 Dr.のところに戻ると薬を処方してもらった。 とりあえず肝炎など大きな病気ではないとのことだった。
 5日後にまた診察に来いとの事。 最後にもらった名刺に「英国にて留学経験有り」らしいことが書いてあった。 英国で留学経験がある医師は経過を見るために5日後に再診するよう教育をうけているらしい。

 処方してもらった薬は緩やかに効いてきた。 最初の2日目は具合が悪かったのに3日目になると気分が良くなってきて再診の日にはバッチリなおった。
 再診に伺うとDr.は忙しかったらしく待たされた。 その間に秘書の方から超音波診断の報告書を頂いた。 辞書を片手に見ると「肝臓、腎臓などの臓器は異常なし、胃に炎症有り。 急性胃炎である。」らしいことが書いてあった。 恐らく、パキスタンで下痢した時に処方してもらった薬が効きすぎて後で胃に炎症ができたらしい。
 その後の診察で具合が良くなったことを告げるとDr.は「そうだろう」といった感じでうなずいた。

 お礼を言うと「友達で具合が悪くなった人がいたら紹介してね!」と言った。 実は抜け目無い人だということがわかってしまった。

8.胡散臭い宿の人間(ニューデリー、11月12〜26日)

 インドは謎の多い国である。 ニューデリーで宿泊していた宿の人間も謎が多かった。

謎1.用が無いのに客室に入ってくる
    よその国では宿の人は掃除など特別な用が無いと客室に入ってこない。 ところが、ここの従業員は日に
   何度か私と日本人旅行者がいた相部屋にやってきて、ライターを借りたり、自分達が買えないお菓子があ
   るとたかったり、珍しいものがあると値段を聞いたりしていた。

謎2.他人が置いたものは自分のもの
    部屋にはテーブルがあって以前宿泊した旅行者が置いていった本が何冊かあった。 ある日、従業員が
   その本をみんな持ち出してしまった。 古本屋にでも売ったのだろう。 また、客がチェックアウトするとベット
   メーキングは二の次で何かおいしい忘れ物がないか探している。

 彼らは一応宿の従業員だが、部屋の掃除は毎日しているわけでもなくいい加減みたいだ。 宿の従業員と言うよりも客の忘れ物、置いていったものを拾う事を本業にしているような気がする。 謎1.では下手すると泥棒に早変わりすることもありそうだ。 宿では安月給だからだろうが、我々が持っているプライドと言うものが無いらしい。

9.定員オーバーの寝台車(ニューデリー→バラナシ、11月26,27日)

 体調が良くなったし、デリーには寝込んでいたとはいえ2週間もいてしまったので次の目的地でインドで有数の聖地でありかつ観光地でもあるバラナシへ向かう事にした。
 今度の移動も鉄道を利用する事にしたのであまり並ばないで済むニューデリー駅の外国人用窓口へ向かった。 そこでは西洋人を始めとする外国人旅行者が椅子に座って、先頭の椅子に座った人が空いたカウンターへ行くと詰めて待っていた。 待っている間に予約申請書の所定の項目に記入をして本を読んでいると自分の番が来た。 担当者はサリーを着た人のよさそうなおばさんだった。
 まず、両替のレシートの提示を求められた。 アムリトサルで心配した事だが、外国人用窓口で切符を購入する時に必要になる。 アムリトサルの両替屋のレシートでも良かったらしいが、数日前にアメリカンエクスプレスで両替したときのレシートの方が頼りになりそうだったのでこちらを提示した。 もちろんOK。 続いて予約申請書を渡してオンラインで調べてもらった。
 今回は夜行だったので二等寝台にチャレンジした。 バラナシにも鉄道が通ってデリーからの列車が止まるが、宿から離れたデリー駅発だったり、ニューデリー駅発の列車は毎日出ているわけではないのでニューデリー駅から毎日出ているバラナシ近郊のムガールサライ駅に停車する列車にした。 「一番下のベットならあるけど。」と言われた。 2等寝台は日本の3段ベットのB寝台、中国の硬臥と同様3段ベットが向かい合った開放型のボックスで中国では一番いいといわれる真中は寝る時にのみ使えるもの、下段は起きている人が坐っているで上段が一番いいとされている。 でも明日発のものなのでこの際、切符が取れただけでもと思い発券してもらうことにした。
 ここで私はうっかり細かいお金を用意してなかった。 数Rsなら諦めがついたが20Rsだったのでそうは行かない。 おばさんも困っていたが、お釣ができたらということで「待っててね」と言った。 次の次の人が細かいお金を持っていたので幸いお釣を受け取れた。 インドでは細かいお金がなくなったら銀行にでも行って細かくしてもらうしかないのだろう。 インドはつくづく粘りと忍耐が必要な所らしい。

 当日、出発の30分前の19時30分に乗車するとすでに座席下は荷物があった。 よく見ると、通路側にも上下2段のベットがあって網棚というものが無い。 近くにいたおじさんが向かいの座席の下を指差した。 確かに空いていたのでそこに入れる事にした。 結局、後から大荷物を持ってきた人が向かいに来て整理していたら私が坐っている側の下に収まった。 荷物を固定するには座席の下に付いた細いワイヤーの輪に持参のワイヤーロックをつなげるしかない。 少々不安。
 さっきの荷物の事で話しをしたおじさんはインドにいがちな陽気で人懐っこそうな感じだったので「どちらまで?」と話し掛けてみた。 やはり思った通りの人で、この列車の終点パトナまでとのこと。 アラブ首長国連邦のドバイまで恐らく仕事で行ってきたらしく、デリーで飛行機を降りて夜行列車に乗り換えたということだった。 まだ私はインド英語に慣れてなかったので解りづらかった。

 面白い事が起こった。 なんと、列車は定刻の1分前に発車してしまった。 例のおじさんに聞いているうちに丁度定刻の20時になったのでおじさんは「今ならOK」と言って笑った。 つくづく謎が多い。
 車内を見ると途中で降りるのだろうか?明らかに寝台の数より多くの人が坐っていた。 しばらくすると、私服だが車掌らしい人がプリントアウトした紙を持ってやってきた。 検札だ。 紙は乗客リストで切符と照合してチェックしていた。
 車窓は列車と並走する近郊電車とその駅、工場が目についた。 内陸とはいえ人口が多い地域なので労働力が供給しやすいからだろうか? しばらくすると町は切れて暗闇になった。 農村なのだろう。

 落ち着いてからしばらくたった22時ごろに皆で協力して背もたれを起こして中段ベットを作った。 それで一斉に皆横になった。 車内は始めは暑かったが夜が更けるとともに寒くなってきた。 私は1枚の布を被っていたが寒くなってきて荷物の中の寝袋を取り出そうとしたが床の上には人が寝ていたので諦めた。 通路にも人が寝ていた。 あの検札は意味が無かったのではなかろうか?

 明るくなるまで寒さを我慢して寝ていた。 私が起きだした頃にはほとんどの人が起きていた。 車窓は相変わらずの田園風景。 パキスタンからバングラディッシュまでこれが続いているのだろう。
 ムガールサライには定刻7時17分着だったが7時頃に着いてしまった。 例のおじさんは「ここには長く停車するから大丈夫だよ」と言った。 荷物をまとめるとおじさんと握手してお別れ。 パキスタンやインドではごく自然な事だ。 こちらも自然に手が出るようになってきた。

 駅を降りると例によってリキシャドライバーの客引きの歓迎を受けたがバラナシまでのバスへ向かった。 バスに乗っても客が集まらないのか?なかなか出発しなかった。 通りには小学生を始め制服を着た学生が学校へと徒歩、自転車、リキシャ、バスに乗って向かっていた。 そのうち、バスが発車した。 バスは町中で少しずつ客を集め、町を出る頃には満員になった。
 バスは田園風景をしばらく走っていたが草むらが多くなり、坂を登りだした。 少し進むと隣りに線路が並走し、橋が見えてきた。 橋は上が道路、下が鉄道の2層になっていた。 橋を渡っていると向こう岸には寺院や建物が密集していた。 対岸はバラナシの町で川はガンガーだ。

 橋を渡るとバスは町を走り、線路沿いの道を走った。 駅の近くで降ろされてそこからは人力のサイクルリキシャに乗る事にした。 何台か聞いてみたが、事前に宿のある所まで10Rsと聞いていたが向こうは20Rsと強気で値段が折り合わない。 そのうち、「付いて来い」と言う奴がいたがただの宿の客引きだった。 分かり次第別のリキシャを探していると適当なのが見つかったのでこれで宿のある地区へ向かう事にした。

 バラナシの市街地の道にはサイクルリキシャ、オート3輪のオートリキシャ、自動車、自転車、野良牛がひしめき合って混雑していた。 しばらく進むと自転車に二人乗りの客引きが近づいてきた。 無視するとインドネシア人のように指でつついてきたが無視。 少し進むと宿のある地区に着いた。 そこから先は目的の宿までの道が細いので歩きになる。 面倒なのでガンガーに出て歩く事にした。
 川にでると写真で見た通り、巡礼者が沐浴していた。 階段が多くて歩きづらかったが目的の宿、Vishnu Rest House(D35Rs)を発見。 評判のいい所で部屋もベットも埋まりやすいが無事ベットを確保できた。

10.バラナシでの1日(バラナシ、11月27日〜12月1日)

 バラナシの朝は早い。 暗いうちから洗濯屋が「バシッ、バシッ」と音を立てて洗濯をしている。 朝8時ごろに起き出すと周りのベットには人がいなかった。 皆、日が出ると起き出して散歩にでたり、船に乗って観光したりする。 私も1度早起きして船から朝のバラナシを眺めた。
 値段や船の雰囲気から適当な船に乗る。 ラムジーというあまり力が無さそうなおじさんの船にした。 悪さをしようとは思ってないだろう。 1時間40Rs。 船から沐浴する人達、日の出、火葬場を眺めた。 建物についての話しを聞けるのも観光地の乗り物ならではだ。 手漕ぎの船なので音が無く静かにバラナシを眺められて良かった。 最後にプラスアルファを要求したが「40Rsの約束でしょう?」というと苦笑いした。 インド人は「約束」という言葉に弱いのか? 朝の観光船は人気があって、インド人はもとよりおなじみ西洋人旅行者の他にも、日本人、韓国人に仏教の信仰篤いタイ人の団体もいた。
 インド人の朝食はとてもあっさりしていて、揚げ物のスナックを2〜3つまむだけだ。 私も朝はカレー味のゆでたジャガイモをつぶしたものを小麦粉を練って作った皮に包んで揚げたサモサをミルクティー、チャイを飲みながら食べた。

 午前中は宿で読書をしたり、近くを散歩したり。 旅行者は思い思いに行動していた。
 バラナシにはあちこちに小さなお寺や祠があって京都を思い出す。 石像はきれいに彩色されたもの、朱色だけで彩色したもの、彩色されてない石のままのものと様々だ。 石像は簡単に四角い石の表面に彫刻を施したものが多い。 地味なものは信州の道祖神と素朴な感じが似ている。 やはりここはインドの聖地。 遠く東に離れた日本にも影響を及ぼすほど強い所だ。

 昼は北インドの定食と言われるターリーをよく食べた。 お皿にご飯、カレー2種、豆のスープ、ダル、辛い野菜の付け合わせに別の皿に乗ったチャパティ。 チャパティはお代わりできた。
 最初にご飯にダルをかけて手で混ぜる。 チャパティは他のカレーに付けて食べた。 もっともこれは人それぞれ。

 午後も午前中と同じ。 散歩、読書、昼寝。 1日で一番暖かいので水浴びをして外に出て体を温めたりもした。 また、好奇心旺盛な宿の近所の子供たちと鬼ごっこという時もあった。 彼らは外国人と遊ぶのが珍しいのか?真剣に喜んでくれたらしい。 楽しいが疲れるので程々にした。
 夕方には宿の前に出てガンガーを眺める。 近くにチャイの屋台があるのでのんびりチャイをすする。 土地の子供は凧上げに熱中していた。

 暗くなると夕食に出た。 メニューはその時々で違った。 せっかくインドにいるので野菜、肉入りカレーを交互に食べていた。 続いて道端で売られていた揚げ物スナック、甘いお菓子をいくつかつまんだ。 デリーで寝込んだ時は食べる気にもならなかった土地の食べ物はここでは楽しめた。
 門限は夜9時。 外出は程々にしなければならない。 ここ、バラナシに限らずインドの古い町は道が細く迷路の様に入り組んでいる。 出かけたまま行方知らずというのも珍しい事ではないらしい。
 朝が早いので夜も早い。 10時ごろにはする事も無くベットに横になってしまう。

11.お釈迦様が訪れた町(サルナート、11月29日)

 バラナシの近郊にお釈迦様が最初に説法を行った所があるというので行ってみた。 バラナシ駅から30分、緑に覆われた公園のような所でバスを降りた。 ここの公園でも外国人は5$請求されたので外から見える所を写真で撮っただけだった。 公園内には建物の遺構とタイにもありそうなレンガ造りの塔の遺構があった。 塔の遺構ではチベット人らしい女性の3人組みが塔の周りを歩いて礼拝していた。 この遺構の場所でお釈迦様がお説教をされたのだろう。
 近くには仏教寺院があって、久々に参拝した。 他にもお釈迦様縁の地で日本、韓国、ミャンマーなど仏教徒が多い各国の仏教団体が建てたお寺があった。

 この地で一番の見物は考古学博物館だった。 手荷物預け代も含めて料金は4Rsという良心的なものだった。 展示品は周辺から出土した仏像やヒンドゥーの神々の像だった。 西洋的な顔立ちの仏像も良かったが、一番の見物はインドの国章でお札によく見かける四頭のライオン像だ。 一見するとうわぐすりを塗って焼いた焼き物の様だがれっきとした石像。 しかも紀元前のアショカ王時代のものらしい。 そんな感じがしない見事なものだった。

 観光だけならたいしたことない所だったが静かに仏教の修行をするには最適。 そんな所らしい。

12.小さな商店街の中の国境(バラナシ→スノウリ、12月1,2日)

 バラナシは人によっては何か感じるものがあって、大きな感銘を受けることがあるらしいが鈍感で凡人の私にはそこまで感じるものが無かった。 それよりも「早く白いヒマラヤの山々が見たい。」そんな気持ちが高まっていた。

 バラナシから最寄りの国境の町、スノウリへは時間帯によっては1時間に1〜2本バスが出ていた。 それだけ往来が多いという事だろう。 バススタンドの人に聞くと予約は必要なし、バス内でお金を払うという普通の路線バスらしい。

 当日、午後8時発のその日の最終バスに乗ると意外に空いていた。 お客はネパール人らしい東洋的な顔立ちの人達が目についた。 バスは途中、人の乗り降り以外は1回休憩しただけで明るくなりだした朝6時にスノウリに到着した。 リキシャの客引きの他に荷物代を請求するコジキがいたが一切無視。 歩いて国境へ向かった。 タタのぼろトラックがひっきりなしに出入りしていた。 地図だけ見てもネパールへは相当インドから物資が入っているのだろうということがわかる。
 国境は噂通り商店街の中にあるこじんまりとしたもので、旅行が初めての人の中には、見落としてそのままネパールに行ってしまう人がいるかもしれない。 所定の手続きをして近くで軽い食事をしてから国境のゲートを越えてネパール側に入った。

(ネパール編へ)

(インド西部編から)

13.インドの中のチベット(ダラムサラ、4月1〜6日)

 デリーではパキスタンビザの取得、不要品の郵送と事務的な手続きをしただけだった。 2度目の大都市ではこんなものか? デリーからそのまま国境の町、アムリトサルへ向かっても良かったのだがデリーやアムリトサルより空気がきれいと思われるヒマーチャル・プラデシュ州のダラムサラへ向かう事にした。

 デリーからダラムサラへは鉄道を乗り換えローカルバスで向かうか夜行の直行ツーリストバスの二つだが、乗り換えの煩わしさを考えてツーリストバスを使う事にした。 何かと評判の悪いインドの代理店だが、割と評判がいいらしいHare Rama Guest Houseの代理店で手配する事にした。

 当日の夕方に集合場所に行ってみると代理店の人の誘導でメイン・バザールから少し離れた比較的空いた道で待っているとバスが来た。 観光バスのお下がりと言った感じの古いバスで外見通りの乗り心地だった。
 バスは混雑している夕方のデリーの道を北上して市街地の北にあるチベッタン・キャンプに着いた。 ダラムサラは政治的にはチベット本土を追われたダライラマを中心とした旧チベット政府の首都のようなところ。 バスはもともとチベット人の集まる地域を結ぶものだったのだろう。
 デリーの市街地を抜けるとバスは国道1号線を走った。 以外と田園風景が続く単調な道だった。 一応国道1号線だからだろうか?ここもインドの国道にしては整備されていた。 途中から1号線を抜けるとバスは山道に入った。 振動や横揺れでなかなか眠れなかったが翌朝6時にダラムサラのチベット人集落、マックロードガンジに到着した。

 世界各地にファンがいるダライラマがいる町だけあって適当な部屋は昼前にならないと空かなかった。 結局、日本人旅行者から教えてもらったKalsang Guest House(S70Rs)に落ち着く事にした。

 よそのインドの町と違ってマックロードガンジは満ち行く人の半分以上がチベット人だった。 いくつかチベット人経営の食堂があって比較的中華に似たチベット料理を味わうことができた。 インド料理と比べて野菜や水分が多いので食べやすかった。
 私が宿でテレビを見ているとインド人や西洋人に従業員と間違われるほど顔つきが似ているからだろうか?彼らは我々日本人に親しみを感じているような気がする。 チベット人はもとは遊牧民なので荒っぽい所があるらしいが表情豊かな穏やかな人達が多いみたいだ。

 町ののんびりした雰囲気といい、旅行者から見れば「高原のリゾート」といった感じの町だった。 インド人の家族連れ旅行者はそう捉えているらしいが外国人にはチベット仏教という精神的な付加価値があった。
 外国人旅行者にはチベット僧と同じ格好をして仏教の研究をしているらしい人から仏教の講義を聴きながら一人旅の日本人女性にスッポンのようにくっついている煩悩丸出しのイタリア人とピンからきりまでいるらしい。

14.アムリトサルに始まりアムリトサルに終わる(アムリトサル、4月6,7日)

 ダラムサラはシーズンを迎えたこともあってこれからと言った感じだったが手持ちのインド・ルピーが少なくなったので国境の町、アムリトサルへ向かう事にした。
 外が明るくなった朝5時に起きて6時には宿を出た。 今日の移動は久々にローカルバスを乗り継いだもので、最初は日本の山村のような農家が点在する風景から自転車、牛車、自動車が混在するインドらしい道の風景と変化のあるものだった。 また、アムリトサルへ向かうに連れてターバンを被ったシーク教徒が増えてきたのが印象的だった。
 急に気温が高くて乾燥して空気が悪いところに来たからか?のどが腫れてだるくなってしまった。
アムリトサルのバスターミナルには8時間後の午後2時頃に着いた。 5ヶ月前と変わらないゴミゴミしたところだった。
 今回の宿は予算の都合もあったが興味があったのでシーク教の総本山、ゴールデンテンプルに隣接した無料の巡礼宿にお世話になった。 寺院内には無料の食堂も併設されているのでここにいればタダで滞在できてしまう。 インドでそんな所があれば住み着く外国人が跡を絶たないのでここは最大3泊としている。
 床にマットを敷いただけの巡礼宿は日本の北海道にあるオートバイの旅行者向けのライダースハウスと雰囲気が似ていた。 食事は豆のスープとインドの薄いパン、チャパティのみの質素なものだった。 まあタダなのでそれでもありがたい。
 ゴールデンテンプルへは夕方のお祈り前後に行ってみた。 空が暗くなるとライトアップされて雰囲気が良かった。 ここでも滞在して宗教の研究をしているらしい西洋人がちらほらといた。

 翌朝、お礼を兼ねて寺院でお祈りをしてから国境へと向かった。 国境はインド時間朝10時から開くのでのんびりできた。 国境へのバスは混雑していたが、道は空いていた。 インドとパキスタンの間にある唯一の国境なので両国の関係が伺える。 国境の手前にあるアタリの町でほとんどの乗客が降りてしまった。
 バスは通常、国境の町、アタリ止まりだが持参のガイドブック「旅行人ノート・アジア横断」の記述通り朝9時アムリトサルを出たバスに乗ったので2km離れた国境まで向かった。
 バスを降りると様々な人間が近づくいつもの国境の風景だった。 そこで休んでも良かったが、早く所持していたインド・ルピーを両替したかったので真っ直ぐ銀行があるイミグレーションへ向かった。 イミグレーション近くの検問にいた役人が出国手続きをしてからと言ったので出国手続きを済ませて銀行へ行ったが土曜日にもかかわらず営業してなかった。 インドルピーは国外持ち出し禁止なので途中で役人が見つけて巻き上げられるのではとビクビクしていたが、あっさり国境を通過してしまった。

 こうして落ち着き無かったが去年11月に3週間、今年の1月から4月にかけて2ヶ月3週間と合計3ヶ月半いたインドを後にした。

(パキスタン2編へ)

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