ネパール



(インド北部編から)

1.お釈迦様が生まれた所(ベラヒヤ、ルンビニ、12月2日)

 国境のゲートを越えるとネパール王国ベラヒヤの町になる。 すぐにイミグレーションへ向かって入国審査となった。 ネパールも入国にはビザが必要になるがイミグレーションで申請、取得ができる到着ビザの形をとっていた。 申請書の所定の項目を記入し、写真1枚とUS$30の現金を支払うとすぐに60日有効のシングル・ツーリストビザが取得できる。
 入国手続きが終わると両替。 私設の両替屋が数軒あって、手数料が1%と安い所で余ったインド・ルピーを少々残してネパール・ルピーに替えた。 ちなみに1インド・ルピー=1.6ネパール・ルピー、1US$=72,3ネパール・ルピーだった。

 この日は近郊にあるお釈迦様が生まれたルンビニの町を訪れる事にしていた。 夕方に次の目的地カトマンズへと向かう夜行バスがあったのだが、さすがにバス2泊は辛いのでバスターミナルもある国境付近の宿に1泊することにした。 久々に個室にした。(New Cottage Lodge、S125Rs)

 宿の人の家族の人がバイクでルンビニへ行くとのことで便乗させてもらうことにした。
 バイクは田園風景の中を走った。 ネパールというと「山国」というイメージがあるが南側は標高がそれほど高くない。 ちなみにベラヒヤ、スノウリで標高100m。 風景はインドと変りないが、なぜかこちらの方がのんびりしているような気がする。 結構寒かったが40分くらい走っただろうか?バイクは小奇麗なレストランの前に止まった。 ドライバーはここのオーナーだった。 「帰りに寄ってね。」と言われた。

 レストランはルンビニ聖園のそばだった。 規模は小さいものの、参道には土産物屋が数軒立ち並び観光地の様相を呈していた。 それでも騒々しさは無く静かだった。 聖園には沐浴池、アショカ王の石柱、聖堂などの遺構が残っていたくらいのあっさりした所だった。 週末のせいか、ネパーリの高校生らしいグループが見学に来ていた。 年相応に明るく元気な彼らだが、日本の高校生の様な身勝手な騒々しさは無かった。 中流以上の階級の家の子供達なのだろうか? 他にもネパーリの家族連れ巡礼者とビルマ人らしい巡礼者が来ていた。

 夜行で疲れているからこの辺で帰っていいだろうと例のレストランへ行った。 予想以上にきれいな所で、西洋や日本など海外からの団体さん向けレストランらしかった。 お茶と軽いスナックでもと考えていたが、メニューを見ると予想外に高かったので30Rsのヨーグルト・ドリンクのラッシーにした。
 オーナーは予想以上に早く来たと感じたらしく、もっと居ようよと周辺の地図のコピーを持って来てくれた。 せっかくなのでもうちょっと散歩してから帰る事にした。

 あとは仏教徒が多い国の仏教団体がお釈迦様縁の地での修行のために建てたお寺のある一画を見る事にした。 意外と思ったのは日本のお寺が凝ったデザインのものを建設中という事だった。 別にあばら屋で修行しろとは言わないがもうちょっと考えた方がいいのでは?と思わせるものだった。 土地の人は「お金持ちのする事だから・・・。」と思っているだろう。 あまり現地の生活水準からかけ離れていると無用なトラブルを呼ぶ恐れがある。

 昼はベラヒヤの隣町でルンビニの中間にあるこの地域の拠点らしいバイラワでとった。 英語が話せる若い女の人に豆のスープ、ダルを指差して「これとご飯」と言っておいたが、出たものはネパールでおなじみの食べ放題の定食、ダル・バートだった。 わんこそばと一緒で「もういい」と言うまでご飯とおかずが少なくなると盛られる食い意地の張った旅行者にはありがたい料理だ。 お代は30Rsなり。 十分食べて落ち着いたら店の女の人がそばにやってきて「あなたどこの人?」など質問を始めた。 無表情だったが好奇心旺盛らしい。 ここにはあまり外国人が来ないのだろう。 と言うより外国人旅行者には通過だけの所らしい。

2.信州みたいな・・・(ベラヒヤ→カトマンズ、12月3日)

 ネパール到着の翌日早朝6時半、首都カトマンズへ向うためにベラヒヤのバススタンドへ向かった。
 軽い朝食をと考えていたが、早すぎたのか?ミルクティー・チャーの屋台ぐらいしかやってない。 仕方なくインドで用意した袋詰めのお菓子を食べながらチャーを飲んだ。

 バスの屋根に荷物を置いて車掌から指定された場所に坐る。 朝6時50分にバスは出発した。 隣りのバイラワの町で運転手、車掌の朝食タイムになってしばらく停車した。
 ここで近くの席に名古屋で留学経験がある人が坐った。 彼は一目で私が日本人であることがわかったらしく「日本人ですか?」と話しかけてきた。 カトマンズへは仕事で、翌日にはバイラワに戻るらしい。

 バスは次の町で東へ向きを変えた。 時々、林の中を進み少しずつ高度を上げていった。 途中、ナラヤンガートの町でみかん売りがバスの周りに集まってきた。 皆「スンダラ、スンダラ」と言っていた。 「スンダラ」とはみかんの事。 なんとなく植木等の「スーダラ節」を思い浮かべる。 つまらない関連付けで覚えてしまった。

 ナラヤンガートからバスは北上した。 すぐにドライブインに止まってお昼となった。 良く分らなかったので元留学生の人が食べていた鶏肉付きダルバートを注文した。 去年の東南アジア旅行以来、スプーン、フォークを使わずに手で食べることに慣れていたので手で食べていると元留学生の人に「僕はハシでは食事ができないなあ。」と言われて子供みたいだがちょっとうれしくなった。

 バスは再び北上すると山村を通りながら曲がりくねった山道を進んだ。 民家の感じといい、山に挟まれた谷といい信州そっくりな車窓だった。 ネパールの人はチベット人の血が濃いのか?我々日本人に近い顔立ちだ。 ネパールと日本はどこかでつながっているのだろうか?
 さらに進むとカトマンズ−ポカラを結ぶ幹線道路に出た。 国で有数の幹線道路だが先ほどの道より広い谷の中を走る2車線道路で、地元新潟から福島県会津地方へ抜けるR49、信州のR19、山陰と山陽を結ぶ国道に雰囲気が似ていた。
 やがてヒマラヤらしい白い山々が見える峠を越えると建物が多い平地が見えてきた。 カトマンズ盆地だ。 やや霞んだ空気の中をバスはカトマンズの町の西郊を進んで午後4時にバスターミナルに着いた。

 最初、宿は旧王宮近くのジョッチェン地区にとった。 旧王宮や三重の塔の寺院が集まるダルバール広場に近く、あたりはいい下町で2泊ほどしたが日本食レストラン、古本屋、両替屋と旅行者に便利な店がそろったタメル地区のYeti Guest House(S150Rs)に移った。 タメル地区はタイ・バンコクのカオサン通りに雰囲気が近い、いかにも「外国人向け宿地区」といった感じでそれだけネパールの雰囲気はなくなるが、便利さにはかなわなかった。
 それだけ軟弱な旅行者になってしまったということだろうか?

3.カトマンズお寺巡り(カトマンズ、12月5〜9日)

 あえてここで紹介する必要は無いがカトマンズにはたくさんの寺院があった。 何の宗教のものか?と聞かれると難しい。 なぜならヒンドゥー教徒と仏教徒、正確にはチベット仏教徒の両方が参拝しているからだ。
 大抵の寺院にはチベット仏教寺院でおなじみの回せばお経を読んだのと同じ功徳を積めるというマニ車があり、バターを使ったらしいくせのある臭いがするランプがあった。
 数あるカトマンズの寺院の中で有名なものを3つと隣町のパタンを訪れた。

 外国人旅行者の間でモンキーテンプルとも呼ばれているスワヤンブナートは町の西の丘の上にある寺院でカトマンズの町西側の所至る所で良く見える。 入口にマニ車があり、猿が戯れている坂を登った所に寺院があった。 寺院から見たカトマンズの町は自動車やたき火による大気汚染で霞んでいた。 寺院の周りにもマニ車があって巡礼者が回していた。 有名な所なので例によって西洋人、他は仏教徒の多い日本、タイそれにインドからも人が訪れていた。

 ボダナートはカトマンズの東にある寺院で、こちらはチベット仏教の方が強いのか?周囲の土産物屋はチベット風のものがあふれていた。 この寺院は途中まで登ることができ、登ってみるとヒマラヤの白い山が見えた。 あまり掃除をしてないのか?歩いていたらすべってひっくり返ってしまった。

 パシュパティナートは完全なヒンドゥー寺院で木造の三重の塔がいくつか立ち並んでいた。 もともと修行のためのものか?坂が多く、雰囲気が名前は忘れたがインドネシア・バリ島にある大きな寺院、日本の神社、お寺に似ていた。 南アジアの精神文化は東に広く影響を及ぼしているのだ。
 この寺院は谷にまたがる様に敷地があって、川岸には火葬場があった。 バラナシと違って見ていても金を請求人間がいないので向こう岸から様子を見ていた。

 火葬は淡々と行われていた。 葬儀の後、布にくるまれた遺体を薪の上に載せ、遺族が見守る中で点火する。 途中、遺体を竹の棒で折ったりして焼け残る部分が無い様まんべんなく焼いて灰にする。 最後に灰と作業に使った竹の棒をすべて川に押し出し、水で残った灰を流す。 作業をしていた人は下着を残して服を川に流す。 もっとも、対岸に服と竹の棒を回収する男がいたので完全にヒンドゥー教の火葬のモットー「この世に何も残さない。」と言うわけにはならない。
 さらに、キリスト、ユダヤ教のみが全てで他の宗教に対して敬意を払わない西洋人が写真を撮りまくるのでインドの様に完全にならない。 この辺が外国人観光客に依存しているネパールの弱い所なのだろう。
 立ち去る前に見た葬儀が悲壮感漂うものだった。 遺体は年配の女性で遺族の娘らしいおばさんが「ママー、ママー!」と大声で泣き叫んでいた。 ただ見ているだけのよそ者の私も悲しくなった。

 隣町のパタンはボダナートより近いのではと思わせるくらいバスの乗車時間が短かった。
 一時は王宮があったこの町にもあちこちに寺院があった。 ただ、カトマンズほど交通量がないので静かな所だった。 この町にもダルバール広場があって、カトマンズ同様見事な彫刻の木造寺院が集まっていた。 木材が入手しやすいからだろう。

4.ちょっとだけギャンブラー(カトマンズ、12月8日)

 カトマンズにある高級ホテルHotel Del'Annapurnaには24時間営業の外国人専用カジノがある。 ここでは米ドルトラベラーズ・チェックでの支払が可能で、UST/Cをカジノ専用コインに替えて賭けなければT/C分の米ドル・キャッシュが手に入る。 簡単に言えば手数料無しでUST/Cを米ドル・キャッシュに替えることができる。
 ある程度の米ドル・キャッシュは持っていたものの、念の為にもうちょっと追加したかったのでカジノへ向かった。

 カジノには西洋人の姿が見えたもののインド人のお客が多かった。 おなじみルーレットの他に、ルールが分らなかったがカードのゲームもあった。
 追加分のT/Cをコインに替えてそのまま米ドル・キャッシュに替えるのも気が引けたので分かりやすいルーレットへ向かった。 

 1回で賭ける額は米ドルでは最低が1ドルなので30ルピーがどうのという生活をしていた私には割高感がする。 ここではインド・ルピーも使えて、インド人は最低何ルピーかわからないが1ドルより小口で賭けができるらしく、人によっては結構長い時間遊んでいた。
 やってみるとあっという間に3ドル分すってしまった。 以前会った日本人旅行者が300ドルすってしまったと言っていたがこれでは無理ないと思った。 どこかで線を引かないと損害が増えるだけだろう。
 最後にもう1回1ドルコインを適当な場所に置いたが空しくはずれてしまった。

 程々で止めてコインを現金に換えてもらうと100ドル紙幣の一つにインクのシミが付いていた。 インドネシアではお札のシミ、シワは両替レートが悪くなり、所によっては両替させてもらえない。 これから訪れる所でもそんな所があるかもしれないので別の100ドル札に替える様お願いしたが担当者はネパール人にしては珍しく横柄な男でイヤイヤ替えたと言った感じだった。 多分、私の格好を見て「なんでこんなやつここにがいるんだ?」とでも思ったのかもしれない。
 とはいえ結局、無事米ドル・キャッシュを入手できた。

5.久々の読書(カトマンズ、12月5〜19日)

 カトマンズのタメル地区には何軒か古本屋があった。 大抵、読み終わると売った値段の半額で買い取るという貸本屋みたいなことをしている。

 私も以前他の旅行者と交換した本が偶然ここの本屋で買ったものらしく、買い取ってもらって別の本を買った。 当然のことだが交換と違って自分の趣味で本を選んだ。 選んだものは・・・

井上靖著 「敦煌」
井上靖、司馬遼太郎の西域についての対談集
宮脇俊三著 「中国火車旅行記」

 この辺は中国旅行を振り返るものだ。 宮脇俊三の本は読んだことがあったが、結構同じルートをたどっているので面白い再読だった。 中国に関しては現代、古典と様々な本が出版されている。 帰国してからの楽しみいや、一生がかりでも読み切れないだろう。

宮脇俊三著「インド鉄道旅行記」(だったかな?)
妹尾河童著「河童が覗いたインド」
落合信彦著「モサド」(だったかな?)

 この辺はこれからの旅行の予習と言った感じである。 宮脇俊三のものはこれも読んだことがあったが、実際に2等座席、寝台と乗ったので長距離でグレードアップする時のことを考えるといい予習になるだろう。 妹尾河童の本は良く出来ていて、宿情報がなんとかなればこれだけでもガイドブック代わりに持参して旅行できるだろう。 この本だけは売らずに持っている。

 時間があったら読んでみたい本もあった。

沢木耕太郎著「深夜特急」
馳星周「不夜城」

 今、ネパールビザは最低でも60日なのでこうやって本屋に通い日本食を1日1回たべたりしていると沈没するのだ。

6.寒い夜(カトマンズ、12月3〜16日)

 カトマンズに着いてから困ったことがあった。 午後3時から夜明けまでの気温が下がる時に体が震えるほど寒くなった。 ひどい時は一晩中震えて眠れなかった。

 当時のカトマンズは最高気温20度近くで昼は暖かい。 ところが、最低気温0度近くまで下がるので寒暖の差が激しい。 震えはそれによるものだろうと思っていた。 寝る時に上はTシャツ、長袖シャツ、フリース。 下はパンツ、股引、ズボンで寝袋、シュラフ・カバー、毛布を被ってもだめだった。 ところが、持参していたキャンプ用マットをベットの上に敷くと暖かくなった。
 寝不足のせいか?時々頭痛がしだした。 世の中、うまく行かないもので頭痛薬には必ず解熱剤も入っていた。 夜に薬を飲むと下着だけでも暑くてしょうがなくなった。 ところが薬が切れると寒くなりだして震えが始まる。

 そのうち自分で調節できるだろうと思っていたが震えが始まってから1週間近くたった日の夜に震えながら外出から帰って来ると宿のオーナーに見つかってしまった。 彼は善意でしているのだが、おせっかいな人でちょっと辟易していた。 「俺はなんともないのにおかしい。 明日にでも医者に見てもらった方がいいぞ。」と言った。 なんともないのは土地の人だから慣れているだけだろうと思ったが念のため医者に見てもらうことにした。

 翌日、病院で診察してもらうと「Sinusitis」と診断された。 辞書に載ってなかったので何か分らなかったが鼻の病気らしい。 トレッキングだめ、酒だめときびしい制約。 薬をもらって終わったが、この病院は外国人を受け入れたことがないのか?医師が忙しすぎて横着したのか?保険のフォームで病院側で書いてもらうことを記入するのにえらく手間がかかり、最後には自分で書いた。。

 薬は8時間おきと珍しい時間配分だった。 私があせって早く飲んだため、午前11時、午後7時、午前4時とへんな時間になってしまった。
 薬は7時間で効き目が切れるのか?飲んで7時間後で気温の低い夜だと震えが始まった。 特に夜中は辛かった。 さらに顔の表面、頬のあたりが熱を持って腫れる時があった。

7.バンコクへ(カトマンズ、12月17〜19日)

 ネパールの医療は一般に評判が良くない。 さらに首都カトマンズは大気汚染が深刻な所だ。 良く分らない症状が出たし、ネパールを出て設備のいい病院で診察した方がいいと思った。
 バンコクには保険会社とキャッシュレスの提携をしている病院がいくつかある。 気温は20〜30度と高い。 食事は中華に近いのでおいしいし、外食が発達しているので滞在して治療するのもいいだろうと思い診察の2日後にバンコク行きを決定した。 代理店もやっている宿の人に頼んでバンコク行きチケットを手配してもらった。

 出発まで準備のために1日空けておいた。 その間に余ったネパール・ルピーを米ドル・キャッシュに再両替、トレッキング・シューズの売却、新しい靴の購入、読み終わった本の売却・・・。 結構忙しかった。

 当日は朝に霧が出たが、10時には晴れてきた。 盆地にありがちな天気だ。 再両替できない余ったお金はお菓子を買ったり少額紙幣は甥っ子姪っ子たちのお土産、残りは空港の募金箱行きになった。
 発券してもらったタイ航空TG320便はカトマンズ時間13時50分発。 11時には宿を出てタクシーで空港へ向かった。 空港に着くとすでにチェックインが始まっていた。 所定の手続きをして、待合室で待機。

 乗客は西洋人、台湾のおばさんの団体、日本人がチラホラといった感じだった。 台湾の団体さんは見ていてほほえましかった。 仲間にお菓子をふるまったり、席を離れる時に近くに身内がいるとはいえ自分の荷物を置いて場所を確保したり。 日本人のようなそうでないような。 この人達を見たら、この旅を終えたら1週間ぐらいで台湾へ行ってみたいなという気になってきた。

 なんだかんだと待たされて搭乗。 ほぼ満席だった。 宿の人達に感謝。
 搭乗しても待たされてから出発。 飛行機は高度を上げてヒマラヤの白い山々を背にバンコクへ向かった。 トレッキング目的でネパールに来たのに何も出来なかったので複雑な思い。

 「定年にでもなったら団体で再チャレンジしてみよう。 それまでは山岳会にでも入って日本の山を登って体力、経験をつけよう。」そう自分に言い聞かせた。

(タイ5編へ)

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