パキスタン2



(インド北部編から)

1.日本の皆さん、ようこそ!(ラホール、4月7〜11日)

 国境を越えて5ヶ月ぶりにパキスタンに再入国した。
国境らしくないのどかな雰囲気は相変わらずだ。 インド側国境の両替屋は強気だったが、こちらの闇両替はインド100対パキ130とまずまずでその上「細かいお札があった方がいいよね。」と良心的だった。 インドでは高額紙幣を両替するのに苦労したのがウソの様だ。

 国境からラホール市街へは大型の路線バスが運行されていた。 40年前にタイムスリップしたような国産のおんぼろバスが多いインドと違って日本製の新車だった。 音は静かで乗り心地は段違いだ。
 バスで1時間ほどでラホール・シティ駅前に到着した。 そこから馬車でラホールの庶民的な商業地区のアナルカリ・バザールへ行って以前、人から教えてもらったQueens Way Hotel(S150Rs)に落ち着く事にした。

 宿を拠点に近所を歩いてみるとあちこちから声がかかった。
 例によって「どこの人?」と聞かれる事が多い。 「日本人だよ。」と答えると大抵反応がいい。
 「意地でも国産」のインド人と違って日本製品に囲まれているし、中国やインドと違って日本政府が様々な援助をしていることをパキスタンの政府が発表しているのと両国の間に政治的な問題が無いこともあるだろう。
 

2.甘い緑茶はいかが?(ペシャワール、4月11〜13日)

 ラホールにあるイラン領事館でビザの申請をしたのだが、「10日後に来て下さい。」と言われたのでその間にまだ行った事が無かったペシャワールを訪れる事にした。

 ラホールからペシャワールまではいろんな種類のバスが運行されているらしい。 4月に入ってパキスタンは1年で一番暑い時期に入っていたので、高速道路を通るエアコンバスを利用する事にした。
 高速道路は日本か韓国の援助で作られたものらしく、どことなく日本のものに似ていた。 前回、ラワルピンディからラホールへ移動した時は道路事情を知らなかったので一般国道経由のバスに乗ったのでこんなものか?と思っていた。 ところが、予想外に近代的な道だったので驚いてしまった。

 この辺も「意地でも国産化」のために外資を否定し規制だらけにしたために経済的に停滞を招いてしまったインドとは大違いだ。 もっとも、今のインドはその反省から規制緩和の方向にあるが。

 高速道路は途中のラワルピンディで終わったが、日本車の性能をフルに活用するパキちゃんだけに一般国道でも飛ばし続けて450kmを9時間で走破した。 パキスタンの経済レベルからみると大した物だろう。

 バスターミナルからパキ名物の派手な装飾のギンギラバスに乗って新市街、ペシャワール・カントメント駅近くのTourist Inn(D100Rs)に荷物を置いた。 入ったばかりの時は「ここはインドか?」と思わせる派手な西洋人旅行者が多かったのでちょっと引いてしまったが、なじんできたのか?いつのまにか色々話しをするようになっていた。

 ペシャワールの町は中国新疆のカシュガルの様に「民族の十字路」と言える風情の町だった。
アフガニスタン国境に近いため、この町にはアフガン系の住民が多い。 彼らが経営しているレストランに入ると蒸し餃子の「マントウ」やニンジンと羊肉のピラフ「ポロ」が置いてあって、麺類は無いものの、中国のウイグル人の食堂とメニューが近い。 店内には椅子やテーブルの客席の他に一段高いところに絨毯敷きの座敷があった。 飲み物はパキスタンで普通に見られるミルクティーの他にミルク無しの紅茶、ブラックティーと緑茶にハーブのカルダモンと砂糖を入れたグリーンティー(カワ茶)がある。
 「緑茶に砂糖なんて!」と思われるだろうが、カルダモンが入っているのでさっぱりして、暑い時にはおいしい飲み物だ。
 

3.女医さん天国(ラワルピンディ、4月13日)

 「民族の十字路」ペシャワールでのんびりしたかったが、奥歯のセメントがはがれてしまったので急遽、パキスタンで歯科が充実していると思われるイスラマバードへ向かう事にした。
 とはいえ、宿は隣接するラワルピンディにとっておいた方が便利なのでラワルピンディへ行って去年お世話になったPopular Inn(D125Rs)のベットを確保してから歯科を紹介してもらった。

 事前に電話で予約をしてからイスラマバードにある歯科を訪れると日本の普通の歯科より清潔で、先生は若い女性だった。 後で名刺を頂くと「アメリカ歯科医師会メンバー」と書いてあった。 アメリカ帰りなのだろう。
 セメントのはがれたところは虫歯ではがれたのではないとのこと。 事実、後でその奥歯が痛む事は無かった。 別の奥歯に痛みを感じたのでレントゲンを撮ってもらうとそれは虫歯だった・・・。 「治療に時間がかかるからこれはどこか落ち着いたところで治して下さいね。」とのこと。
 海外旅行で一番困るのは保険が利かない歯の治療だ。 今回の治療費はセメントの補修で1,000Rs、レントゲンで200Rs、米ドルで11ドル。 1日の生活費は300Rsなのでこれは馬鹿にならない。

 前にパキスタンの病院で診察してもらったのも女医さんだったので診察が終わってから先生に「パキスタンの医師は女性が多いのですか?」と聞いてみた。 先生は「女医がいるのは都市部だけですよ。」と言ったが、パキスタン、インド、ミャンマーでは高等教育機関で教育を受けている・あるいは受けた女性の割合が高いのは事実らしい。

4.仏教徒ギリシャ人の町(タキシラ、4月17日)

 ラワルピンディで時間があったので前回、行けなかった遺跡の町、タキシラを訪れる事にした。 タキシラはラワルピンディからバスを乗り継いで1〜2時間ほどの所なので日帰り観光にもってこいだ。

 最初に遺跡を訪れたが、考古学に興味がある人以外はあまり面白くないかもしれない。 昔の人が大勢いた集落はこんなに小さかったのか?と思わせる。 もっとも昔は今みたいに人口が多くなかっただろう。

 博物館の展示は面白かった。 展示によると、タキシラは紀元前5,6世紀にアケメネス朝ペルシャが開いた町で紀元前4世紀のアレクサンドロスの東方遠征以降にギリシャ人の入植地となった。 パキスタンに瞳の青い人が多いはずである。 ギリシャ文字のコインの展示を見ても実感させられた。
 その後、仏教のこの地域への伝播で西洋的な顔立ちの仏像、ガンダーラ仏が生まれた。 ここ、タキシラは仏教徒ギリシャ系の町だったということらしい。

 ここでギリシャと御対面とは、いよいよ西方文化が近づいてきたということだろう。

5.ビザ取りはつらいよ(ラホール、4月18〜23日)

 ラホールのイラン領事館から指定された10日後が近づいたので、再びラホールへ向かった。 申請が4月9日の月曜日だったので4月19日の木曜日に再度領事館へ行くと、警備をしていた警官に「今日明日は休みだよ。 あさっての朝8時から開いているよ。」と言われてがっかりした。 イスラム教では毎週金曜日が休日となっているが木曜日までとは・・・。 さらに、日曜も休みなので週休3日ということだろう。 うらやましい限りだ。

 4月21日、土曜日の朝に再び訪れると、パスポートと引き換えに代金の払い込みをする銀行の振込用紙をもらった。 その日のうちにビザ代金米ドル50$相当の3,200Rsを指定された銀行で振り込んで翌々日の月曜日の午後に振り込み領収書と引き換えにビザのシールが貼ってあるパスポートを受け取れた。 3ヶ月有効の14日滞在可能のツーリストビザだった。

 ビザ取得は何かと不便なことが多いが、大概代金が30ドルほどで長くて1週間くらいだった。 イランビザは代金が50$と高額な上、申請から受領まで2週間かかりしかも滞在は14日という今までで一番待遇が悪かった。 同じ隣国でもトルコでは1週間ほどで3週間のビザが取れる話しを聞いた。
 イランは産油国なので観光に力を入れなくても十分外貨を得る事が出来るということと、パキスタンからの人の流入を防ぐ事もあるだろう。 パキスタンの隣国のインドビザは対立関係にあるので大使館で不愉快な思いをしたし、中国もパキスタン人の流入を防ぐためか?ビザの処理が非常に遅いらしい。 パキスタンで隣国のビザを取得するのは面倒らしい。

6.暑さに負けた(ラホール、4月23〜25日)

 やっとイランビザが取得できたのでイラン国境へのバスが出ているパキスタン西部の交通の要衝、クエッタへ向かう事にした。 
 ところが、イランビザを受け取ってから鉄道予約事務所を訪れると、厄介な事にクエッタ行きのエアコン寝台は1週間待ち、エアコン無しの1等寝台でも4〜5日待ちらしい。 パキスタン国鉄はありがたい事に割引証を取得すれば外国人に対して25%の割り引き、学生証があれば半額で切符が購入できる。 その事を予約事務所の人に問い合わせると今日の発給業務は既に終わったとのことだった。

 インドのデリーから喉の調子が悪くて夜に咳が出て眠れない日が続いた。 更に、ラホールの町はその頃には日中の最高気温が40度くらいまで上がっていた。 そのせいか、予約事務所を訪れた時に具合が悪くなっていた。 宿に戻ると何も食べないで寝てしまった。

 翌朝にラホール・シティ駅へ向かって割引証の事を聞いてみた。 ラホールの割引証を発給する事務所は駅から離れていたので歩くのが辛かった。 割引証の申し込み用紙に日付を記入する「〜up to_」という欄があって、1等寝台が取れるだろうと適当に5日後の日付を記入した。 割引証は簡単に取得できた。
 割引証を発給する事務所と予約事務所も離れていて、やはり歩くのが辛かった。 ところが、予想に反して1等寝台は5日後も満席だった。 割引証申請書類の日付は「〜まで有効」という意味だということは後で知った。
 もう一度割引証を取得しなければならないということだろう。 気分が悪くてすでにそんな気力が無かった。 その日も宿に戻った。

7.マサラの無い物が食べたい!(ラワルピンディ、4月25日〜5月5日)

 やはりその日も具合が悪く、食欲がほとんど無かった。 ラホールにはマサラと呼ばれる香辛料をふんだんに入れる胃腸にあまり良くないパキスタン料理を除くとパンとヨーグルトくらいしか食べるものが無かった。
 もし、切符が取れたとしてもクエッタまで早くて24時間かかる。 恐らく、クエッタで寝込んでしまう事になるだろう。 そこで、その翌日25日の朝にラワルピンディのPopular Innへ戻る事にした。 そこなら外国人旅行者が多いのでパキスタン料理以外の食べ物があるし、近所に中華に近いウイグル料理の店がある。

 6時間のバスの旅を辛抱してみて正解だった。 ラホールの宿には他にも日本人旅行者がいたが、グループだけだったので相手にしてもらえなく、一人で悩んでいた。 Popular Innは一人旅の旅行者が多かったので話し相手に困る事が無かった。 丁度、その頃にダラムサラで知り合った丸山さん、庭山さんにインドカニャクマリで知り合った小林さんも宿に来ていたので毎日が楽しかった。

 食事も宿やウイグル料理レストランで採ったので日々体調が良くなってきた。 ラホールの医院で処方してもらったビタミン剤の効果で喉の調子も良くなってきた。 湿度が低い内陸部ではビタミン不足になりやすいのだろうか? 以来、ビタミン剤は欠かす事が出来なくなった。 パキスタンではマルチビタミンの錠剤が30錠入りのビンで64Rs、約1ドルと安い。
 他にも胸の違和感、皮膚のできものが出来ていたが、イスラマバードにある診察料が1回当たり5Rsと安価な大学病院、PIMSで診察した。
 胸の違和感はレントゲンで問題なし。 皮膚のできものは処方してもらった薬で治ってしまった。

 今までの疲れが出たのだろうか? 予定を変更して標高の高いフンザへ再び訪れてしばらく静養する事にした。

8.ごゆっくり!(イスラマバード、5月3日)

 4月7日に入国したのでそろそろ、パキスタンビザが切れそうになった。 イスラマバードにあるパスポートオフィスで延長させてもらう事にした。

 パキスタンにはのんびりするつもりは無かったので30日で十分と思っていた。 以前、数ヶ月連続して滞在した国のうち、インドネシアは政府がビザ延長に消極的なので一旦船でフィリピンまで行ってとんぼ返りした。 中国は香港で6ヶ月のビザを取得し、インドは観光ビザは6ヶ月だけなのでビザ延長作業をした事が無かった。

 ビザ延長作業は到って簡単だった。 最初に担当者から申請用紙をもらって記入、パスポートの顔写真のページとパキビザのページのコピーを一緒に提出して、担当者の上司のサインをもらって終了。 あとは午後2時に受け取るだけだ。
 延長期間の話しが無かったので担当者に聞くと、「3ヶ月ですよ。」と言った。 なんとも太っ腹な話しである。 「どうぞごゆっくり。 のんびり滞在して下され。」ということだろうか?

 どんな人が申請に来ているのか?見てみると、ビジネスマンらしいイエメンの3人組み、留学生らしいフランス人の若者、家族に会いに来たのか?デンマークのパスポートを持ったアフガン系らしい若者にミャンマーのパスポートを持った女性がいた。

 午後2時に再び事務所を訪れると担当者の言う通り、「5月3日から8月2日まで滞在可」らしいことがパスポートに記入してあった。

9.もう一度日本へ行きたい(ラワルピンディ、5月3日)

 ビザの延長へ向かう時に久々に日本へ出稼ぎ経験がある男性と話しをした。 会話はほとんど日本語によるものだった。 日本を離れてから日本語で会話したことがないとのことだったが、なかなか上手だった。

 彼は12年前に鉄工所で働いていたらしい。 私はパキスタン滞在中に食事で苦労したが、彼も宗教上の事情(イスラム教では教義に則った方法で食肉の加工をしなければならない。 ユダヤ教も方法は違うかもしれないが同じである。) などだろうか?食事は自炊していたらしい。
 「イラン人はどうしている?」など最近の日本にいる外国人労働者の話しになってから、彼は今の身の上を話した。

 彼は今ガソリンスタンドを経営していて人を何人か雇っているほど羽振りがいいのだが、それでも月収20万と日本で稼いだ時より10万円近く低いらしい。
 「もう一度日本で働きたいけどスポンサーがいないと日本大使館はビザを出してくれないんですよ。」
こういう問題は国という政治的な囲いの間で経済格差がある限り続くのだろう。

10.和食で太ろう!(ギルギット、5月5〜13日)

 ラワルピンディでの雑用を終えると休養のために北パキスタンへ向かった。 最初は北パキスタンの玄関で拠点都市のギルギットへ向かった。

 ギルギットへのバスは途中、故障したため到着が3時間ほど遅れた。 午前中に到着の予定が昼過ぎになった。 標高1,800mだが、ラワルピンディよりましとはいえ暑かった。

 宿は前回お世話になったNew Tourist Cottage(D80Rs)にした。 ギルギットに寄らなくても最終目的地のフンザ・カリマバードへその日のうちに移動できたが、暑さ負けで減らした体重を回復させるために和食が食べられるNew Tourist Cottageで滞在することにした。 前回は中国から来たので実感がなかったが、今回はさすがにここの和食の有難さを実感した。
 また、ここには日本語の本、漫画本がたくさん置いてあるので精神面でのリフレッシュにもなった。
 

11.再び天国へ(カリマバード、グルミット、5月13〜23日)

 1週間ほど読書ばかりして疲れてきたのでフンザ・カリマバードへ移動する事にした。
 ギルギットから3時間程度の楽な移動だった。

 宿は今回も「勝新」のOld Hunza Inn(D50Rs)にした。
 前回と比べると気温が高くて昼間は暑かったことと長期滞在組が多かったのでかなり雰囲気が変わっていた。
 ただ、やっていたことは前回同様、毎日ゴロゴロして何もしてないことが多かった。 1週間ほど滞在してさすがに飽きてきたがいい休養になった。

 カリマバードから一気にラワルピンディへ戻ることも考えていたが、フンザで評判のいい部落の一つ、グルミットへ行く事にした。 グルミットへはOld Hunza Innと隣りのHider Innから総勢14人でワゴンをチャーターして向かった。

 村に着いた早々、近所の子供達の歓迎を受けた。 好奇心旺盛な可愛い子供達だった。
 この部落は谷の中に部落があるフンザにしては展望が開けていて、いろんな山が見えた。 とにかく、景色がいいのだ。 評判がいいのも納得できる。
 宿はVillage Guest House(ベット一つで100Rs)にした。 味がある建物の旧館?と部屋にシャワー・トイレが付いている新館?があって、新館前には芝生の庭がある。 庭の片隅から村の広場が見えて、朝、昼に通学の小中学生達、午後にはコーランの勉強に来た村の女性の姿が見えた。 椅子に座って様子を見ているとあっという間に時間が過ぎてしまう。

 一旅行者の勝手な希望かもしれないが、いつまでも素朴なところであり続けて欲しい。

12.たまには読書でも(ギルギット、5月23日〜6月19日)

 フンザからギルギットへ戻ると再び読書の日々となった。 そもそも、ギルギットは旅行者にとって交通の要衝及びトレッキングの準備をするだけの町で、特に見所があるわけではない。

 しかし、宿の食事がいい事、面白そうな本、漫画本がたくさんあっていろいろつぶしているうちに1ヶ月近く経ってしまった。 1年以上旅行を続けていると身心ともに疲れが出てしまう。 たまには「休養」するのはいいことだろう。

13.もっとトマトを!(ギルギット、5月23日〜6月19日)

 New Toursit Cottageの食事は西洋人旅行者の間でも有名なのか?たまに食事に訪れる西洋人がいた。
 彼らにとっても野菜が少ないパキスタン料理よりは和食の方がいいのだろう。

 ある日、宿で食事を採っていた西洋人がスパゲッティの皿を持って従業員へ駆け寄ってこう言った。「このトマトスパゲッティはトマトが少ない! これで60Rsもするのか? これはトマトスパゲッティではない!」
 なんとも大人げない仕種だ。 様子を見ていた日本人達は笑いをこらえていた。

 それから一週間ほどしてまた彼がやってきた。 事情を知っていた日本人旅行者は何を注文するか?と思っていたら性懲りもなく「トマトスパゲッティ」を注文し、後でトマトを追加させた。 別室にいた日本人旅行者は大爆笑となった。

 大概、外国人向けの宿で調理をするのは現地の人間である。 特にパキスタンの庶民はなかなか「ホンモノのスパゲッティ」を食べる機会がないだろう。 食べた事がないものを作らせるというのは難しい事である。
 彼はそんなことを知らずにどこでも同じ事をしているのだろうか?

14.パキスタン鉄路の旅(ラワルピンディ→クエッタ、6月23,24日)

 休養期間が2ヶ月になり、体の調子が良くなったのでいよいよイランへ向けて移動することにした。
フンザで顔なじみになった面々は中国、インドへ陸路で移動かヨーロッパへ飛んだりパキスタンにて滞在を続けていたりでイランへ移動という話しは少なかった。 イランは夏真っ盛りで暑いので無理もない。

 とりあえず、ギルギットからラワルピンディへ移動し、着いたその日に駅でイラン国境へのバスが出ているパキスタン西部の交通の要衝、クエッタへの切符の手配をした。
切符は3日後の1等寝台を取り、その間ラワルピンディで溜まったメールの処理、見たいページをインターネットカフェでこもって見ていた。 なにせ北パキスタンではギルギットでだけしかネット屋がなく、1時間75Rsと割高である。  北パキスタン滞在の2ヶ月の間に1回しかメールを見てなかった。

 当日の早朝、ラワルピンディの駅で乗車すると噂通りビニールを張っただけの2段ベット2組のコンパートメントだった。 1等がこれなのでパキスタンの列車の設備はいいとは言えないだろう。 ちなみに1等寝台の上にエアコン・クラスというのがあって、こちらはまずまずの設備らしい。
 ラワルピンディからクエッタまでは1日2本の列車が毎日運行されているが、もう1本の方に乗車した人の話しでは速度が遅かったので蚊が車内へ侵入したらしい。 その列車は二晩かかるらしい。 ラワルピンディ→クエッタ間は約1,500km。 私の乗車したのは早い方で、それでも30時間かかるので平均時速50kmらしい。
 高速道路が充実しているのと対象的だ。

 乗車してしばらくすると中年の男女と10歳くらいの男の子の3人がやって来た。 クエッタまで御一緒させていたいた人達で、家族とのこと。 クエッタにいる親類の所へ夏休みを利用して遊びに行くそうだ。
 家族の中に他人が一人ということで家族のお父さんは気を遣っていた。 上段ベットの私が横になるまでお父さんは横にならなかった。 イスラム教徒の家庭は亭主関白というイメージがあるが、このお父さんは奥さんに「使われている」様な感じだった。

 列車は初日は思ったより早く進んだ。 それでも時速70kmくらいだろうか? 2日目の早朝に通過予定のRohriまでカラチへの幹線を通るからだろう。 ラホールからムルタンまでは電化されていたので強力な電気機関車で列車を引いていたのだろう。
 かなり暑いと脅されたが、6月に入ってから曇りや雨の日が多く、この日も曇りだったのでそれほど気温が上がらなかった。 沿線はラホールまではインドを彷彿させる農村、ラホールからはマンゴー園を見かけるようになった。
 パキスタンはその時マンゴーが旬だった。 町のジュース屋や八百屋でマンゴーをたくさん見かけた。 4月にパキスタンに入ったばかりの頃はオレンジをよく見かけた。 他に私の滞在中にリンゴ、さくらんぼう、ウリを見かけた。

 車内販売は一応あったが、ジュース類だけだった。 食事は?というと、機関車の付け替えなどで30分くらい停車する駅のホームの売店でカレー、薄いパンのチャパティ、スパイスが入った炊き込み御飯のブリヤーニといったパキスタン料理を立ち食いか社内に持ち込んで食べた。 もちろん、ミルクティー、ジュース、お菓子も売っていた。

 パキスタンで一番暑いと言われるムルタンで日が暮れた。 もう暑さで困る事はないだろう。 夜行列車の常で日が暮れるとする事がないので早々と歯を磨いてベットに横になった。

 夜中に列車の通過する音で目が覚めた。 どうも、しばらく停車していたらしい。
 朝7時過ぎに目が覚めると3時間遅れていたことに気が付いた。 やっとカラチへの幹線から別れてクエッタへ向かう路線に入った所だったらしい。 どうやらクエッタへの路線で何かがあって、分岐のRohriで待たされたらしい。
 それから列車は回復することなくどんどん遅れて行った。

 少しずつ進んで行くうちに車窓は田園風景から草がまばらに生える乾燥した山々という荒々しいものになった。沿線で一番いい車窓だろう。 標高も上がってきたのか?徐々に涼しくなってきた。 標高1,600mとギルギットに近いクエッタへと徐々に登って行くらしい。

 結局、クエッタには5時間遅れの午後6時前に着いた。 パキスタン鉄路の旅は時間に余裕のある人向けだろう。

15.やっぱりマサラは辛い(クエッタ、6月24〜27日)

 クエッタの宿は駅に近い部屋代が安くて有名なMuslim Hotelを考えていたが、安いのはパキちゃんも一緒らしかった。 ホテルの芝生でくつろぐ大勢のパキちゃんに嫌な予感がしたが、案の定シングルが無かった。
 それで少し離れた所にあったHotel Delaxに120Rsのシングルがあったのでそこに決めた。

 ところが、そこは道幅が細いが幹線道路に面していたので深夜早朝でも車のクラクションが聞こえた。 更に、西向きの部屋だったので部屋の壁が西日で熱せられて窓を閉め切ると暑くて眠れなかった。
 せっかく北パキスタンで休養したのに翌日は移動の疲れと寝不足で下痢になってしまった。

 さらに事態を深刻にさせる事があった。 この町で外食というと胃腸に厳しいスパイス、マサラがたっぷり入ったパキスタン料理の店しかなかった。 仕方なく、クエッタ滞在中は食パンに経口食塩水ORSにお茶ばかり採っていた。

 クエッタの町は昔の地震から復興された所らしいので町並みに面白味はないが、バザールにアフガン系やパターン人など様々な人達がいてペシャワールのような「民族の十字路」的な雰囲気のある町だった。

16.砂漠は夜も暑い(クエッタ→タフタン、6月27、28日)

 体調が少し回復したのでイランへ向かう事にした。 とはいえ、国境まで距離にして600km、時間で14時間と楽ではなさそうだ。

 宿の近くの代理店で当日のバスの手配をして夕方5時に代理店を訪れた。 代理店からバスが出ると聞いたが、バスターミナルへの無料送迎の事だった。
 国境へのバスの常か?屋根にたくさん荷物を乗せたバスは午後6時過ぎにクエッタのバスターミナルを出発した。 車窓は最初に遊牧民が羊の群れを連れていた草原が続いていた。 大陸を横断しているという気分にさせる。 イランからのトラックだろうか?VolvoやIvecoといったヨーロッパのメーカーのトレーラーとよくすれ違った。

 このバスの旅もなかなか辛かった。 路面の状態が悪く、振動が多かった事、隣りの席があまり学校に行ってない感じの男で隣りの私の事を考えずによりかかったりして好きな体制を取ろうとした。 最後にゴミだらけの通路に横になっていた。 前の座席の男はリクライニングシートを深く倒さなければ気が済まないらしく、人の足をつぶしても「何が問題なんだ?」と居直っていた。 シート間隔が狭い状態でシートを倒されると私の体型では地獄なのだ。 さらにこういう時に限って後ろの席は子連れで3人だったのでこちらは倒せない。
 彼は1回諦めたが、夜中に倒したので文句を言うと「俺は問題ない!」と居直った。 「足の長さが違うだろ!」と言い返すともう2度と倒さなかった。
 パキスタンにもこういう幼稚で自分勝手な人間がいるのだ。
 休憩時間が夜中の1回だけというのも辛かった。 トイレは途中何回もあった検問の時に済ませた。

 もう一つの問題は夜になってから車内が暑くなってきたことだった。 この辺は3年前に核実験をしたところで砂漠だった。 放射能の方は定かではないが、砂漠は昼間は大変暑くなる。 学校では「砂漠は1日の寒暖差が大きく、日が暮れると寒くなる。」と聞いていたが、ここでは夜になっても熱を持ているらしい。 日が変わって午前1時ごろにようやく気温が下がって過ごしやすくなった。

 日が昇って、最後の休憩が済んで2時間ほどで国境の町、タフタンに着いた。
 すぐ側に柵があって、その向こうにはイラン国旗が翻っていた。

 持参していたガイドブック「旅行人ノート・アジア横断」によるとイミグレーションは午前10時に業務を開始するとのことだったが9時前には手続きが出来た。
 税関の手続きの後に最後のミルクティーを飲んだ。 イランではミルク無しの紅茶が普通らしい。
 余ったパキ・ルピーをほとんど替えてから出国手続きをした。 ごく事務的な手続きで約三ヶ月滞在したパキスタンを後にした。

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