インド西部、マハーラシュトラ州



(インド南部2編から)

1.デカン高原縦断鉄道の旅(バンガロール→アウランガバード、3月12、13日)

 3月も半ばに近づき山岳部など一部地域を除いてインドの旅行シーズンは終わりつつあった。 私もそろそろインドを出て4月にはパキスタン入りする予定だったので北上しなければならない。 首都デリーとバンガロールの間にあるインド最大の商業都市ボンベイへは初めから立ち寄る予定だったが、まだ時間に余裕があったのでボンベイからそれほど離れていない、いにしえの人々が残した彫刻や壁画がのこる石窟群があるエローラ、アジャンタを訪れる事にした。

 石窟群の拠点になるのはアウランガバードという町。 バンガロールから直通の鉄道便がないのが、かつてのマハーラシュトラ州を治めていたマラータ王国の古都プーナにバンガロールからボンベイへ向かう列車が停車する。 そこからアウランガバードへはバスが頻発しており所要時間が5時間とのことなので朝にプーナに到着する列車に乗ってバンガロールを出た翌日の午後にアウランガバードに着くようにした。
 バンガロールからプーナは1,200km離れているのでまた奮発してエアコン3段寝台の3Aにした。

 列車の始発はバンガロールではなく所要時間7時間のコインバートルという町からだったので荷物を置く場所が確保できるか不安だったが予想に反して車内はガラガラだった。 出発してとなりのバンガロール・カントメント駅から人が乗ってきたがそれでも3段の寝台のうち中段は空いていた。 もう行楽シーズンは終わったということだろう。
 私の近所には分厚いグジャラート州の言語グジャラティーで書かれたジャイナ教の本を持った品のよさそうな年配の女性と出張中のパンジャブ出身でボンベイ在住の年配の男性、ケーララ出身でバンガロール在住の若い男性だった。 上のクラスのお客だけあって皆落ち着いていて穏やかな人達だった。

 ジャイナ教徒の女性はヒンディー語は話せるが英語が苦手でケーララ出身の男性は英語は話せるがヒンディー語が苦手だったので会話は主に英語、ヒンディー語どちらもOKなパンジャブの男性がそれぞれと別々に話しをして3人一緒の会話は少なかった。 南インドの人がヒンディー語が苦手というのは本当らしい。
 インド内で州を越えて仕事をする人はまず英語を覚えなければならないらしい。 ヒンディー語は一応国語という地位だがタミルナドゥ、ケーララ、カルナータカの南インドの州は中央政府への反発意識が強いのでヒンディー語教育が盛んではないらしい。
 とはいえ他の地域(バンガロールを含む)でヒンディー語映画が普及しているところを見るとヒンディー語もそれなりに普及しているらしい。

 車窓はデカン高原おなじみの乾燥した大地に畑といった風景だが時折寺院や立派な彫刻が見える。 インド中の寺院や彫刻はどんなに賢い人が一生がかりで調査しても全てを把握するのは不可能だろう。

 翌朝に外を見ると緑が濃くなっていた。 ヒンドゥ教寺院へのお供えに良く用いられる花の畑が印象的だった。
 プーナには定刻通りに到着。 現地の取引先を訪れるケーララの男性と一緒に列車を降りると空気がヒンヤリしていて北上した事を実感。 駅前のバスターミナルからアウランガバードへのバスが出ているバスターミナルへ向かった。 看板の文字はマハーラシュトラ州で一般的なマラティ語だろうか?ヒンディー語同様文字の上が直線でつながっていた。 文字からも北上した事を実感させられる。

 鉄道沿線ではイスラム教徒を多く見かけたが、この町ではほとんど見かけなかった。 その代わり、インド初代首相ネルーが被っていた白い帽子を被った年配の人が多かった。 よそでは見かけなかったのでこの地方独特の風習かと思ったが土地の人に聞いてみると「あれはただの日よけでよそでも被っている人はいるよ。」とのことだった。
 この町を外れるとイスラム教徒を見かけた。

 マハーラシュトラ州もまたインドでは先進的な地域らしく、プーナの町ではジーンズにバイクというい女性を含む若い人達をたくさん見掛けた。 インドは今、女性はサリーやパンジャビードレスといった伝統的な服装が多いが彼らを見ていると日本人と同じ洋装になるのは時間の問題かもしれない。
 また、アウランガバードへ向かうバスの沿道には大きな工場も多く見かけた。 プーナの北東50kmの工業団地には韓国の大宇の自動車工場、その近くに自動車の電装品だろうか?松下の工場もあった。 アウランガバードにはインドのバイクメーカー、Bajajの工場があった。

 6時間のバスの旅の後、バスはアウランガバードのバスターミナルに到着した。
 今回の宿探しは楽勝だった。 10分ほど歩いたところに州政府直営のユースホステルがあり、あっさりドミトリーのベットが取れた。(初日45Rs、2泊目以降40Rs) 建物は日本の地方自治体が運営しているユースホステルと雰囲気が似ていて1Fにロビーと食堂、2Fに寝室、談話室があった。 昼間は閉まっていることも昔の日本のユースホステルみたいだった。
 管理されているWardenは気難しいところがあったが管理には気を配っている上、部屋は毎日清掃されるので快適かつ安心して過ごす事ができた。 他のスタッフも親切で感じのいい人ばかりだった。

2.祭りの跡(アウランガバード、3月13〜18日)

 アウランガバードに着いた翌日に旧市街を歩いてみた。
 どこのインドの町と一緒で道が細く、建て込んでいて、露店や牛、犬がいて交通量もそれなりにあるので歩きづらかった。 とはいえ、いろんな店が建ち並び冷やかしていると面白い。

 南インドではどこでも教会があったがこの町では見なかった。 機械の部品屋をのぞくと大抵シーク教徒が店番をしていた。 北上してキリスト教徒がいなくなって代わりにシーク教徒が現れたということだろうか?

 歩いていて気が付いたのだが、店の看板が大抵ピンクに染まっていた事だった。 インドでは春の到来を祝う「ホーリー」という祭りが3月初旬に行われる。 その日は無礼講で色粉や色粉を溶いた水を相手構わずかける。 今年は3月9日がその日だった。 私はその時インドでは先進的な地域のバンガロールにいたので時々ピンクや緑の粉をかけられた人を見たが、町全体というわけではなかった。
 恐らく看板がピンクに染まっていたのはホーリーが盛大だったということだろうか? 看板や人間だけでなく、犬や牛もピンクに染まっていたものがいた。

3.安く楽しく(エローラ、3月15日)

 エローラへ向かうために早めに宿を出てバスターミナルに着いてから西洋人らしい若者が声をかけてきた。 彼はエクアドルから来たアンドレイ。 デリーの学校に留学しているらしい。 今はインド政府から課題を出されてクラスメート達と一緒にインド西部を研修旅行に出ていたのだが、その日はボンベイから分散して周辺の宗教的な遺跡を見学することになっていたらしい。 彼はアウランガバード周辺を担当して今朝ボンベイから夜行列車で着いたらしい。
 エローラは第16窟を除いて無料で見学できるが第16窟のみ外国人は米ドルで10ドル、インド人は10Rsの入場料となっている。 アンドレイは普通の観光ではないので学校から研修旅行の間だけだが全ての施設が無料になるよう協力を求める書類を持参していた。 こちらにとっては渡りに船。
 最初は観光地ということで彼の事を一応用心していたが、ただ単に彼は一人旅になれてなかっただけだった。

 1時間ほどでバスはエローラの石窟の入口に着いた。 例によって物売りの歓迎を受ける。
 最初は南側の仏教窟群を見学。 かつて読経が行われていたと思われる広い窟、天井に当時の壁画が残っていた窟、仏塔ストゥーパの前に仏像が彫ってあった窟、ヒンドゥー教の神様に似ている像があった窟と様々だった。

 昼食後に問題の第16窟へ向かった。 アンドレイが券売所の人に書類を見せて事情を説明したが、裁量権がないのか?「外にある事務所で問い合わせて下さい」とのことだった。 事務所ではお金を数えていた責任者らしい人に再び書類を見せて事情を説明すると無事OKの返事をもらえた。
 第16窟についてはいろんなガイドブックや本で説明されているので詳細は省くが、個人的な印象はとにかく大きかった事だった。 妹尾河童も「河童が覗いたインド」で「小さい人間の”壮大な仕事”」と評しているが全くその通りだと思う。 大した所だったが、やはり10ドルは高すぎる。 インド政府に善処をお願いしたい。

 昼過ぎから気温が上がり、お互い疲れが出てきた。 第16窟のあとにジャイナ教の第32窟を訪れた。 第16窟から第32窟は距離があり、途中木陰が無い道を歩き続けた。 第32窟も見事な彫刻で例によって聖者のレリーフは一糸纏わぬお姿だった。 この辺でお互い疲労が限界に達していたのでアウランガバードへ戻る事にした。 エローラは予想外に広かった。 2〜3日くらいかけてじっくり見学すべきだろう。

 アウランガバードに戻って休憩してからアンドレイがビビ・カ・マクバラー廟というタージマハルそっくりな所を訪れようと言い出した。 そこもインド人5Rsに対して外国人5ドルの入場料だ。
 券売所の人にエローラの時のように書類を見せて説明すると向かい側の事務所にいた上司らしい人にお伺いを立てていたが上司らしい人は「事務所で聞いて下さい」とのこと。 役所にありがちなたらい回しの様相を呈してきた。
 事務所に行ってもいろんな人をまわって最後に責任者らしい人が「一旦外に出てあなたの先生のところに電話して私のところに電話するように言っといてください。」 と繰り返すだけだった。
 アンドレイによると今回の研修旅行で訪れたアグラのタージマハルやジャイプールでは窓口の人に書類を見せるだけで無料で入場できたらしい。 多分、アウランガバードの人達は慣れない事だったので戸惑ったのだろう。 いずれにしても「タダ」というのはそれなりに骨が折れることらしい。

4.はるかな道のり(アジャンタ、3月17日)

 アジャンタはアウランガバードから100kmほど北東に離れたところにある。 バスターミナルで調べれば自力で行けただろうが、今回は州観光公社主催のツアーに参加することにした。

 当日の朝、集合場所に着くと同じツアーに参加しそうな人達がいなかったので不安になって近くの州観光公社の事務所に問い合わせると「大丈夫」とのこと。 集合時間から30分ほど遅れてTATAのRV車がやってきた。 その日はそれほどお客が集まらなかったので車を変更したのだろう。
 ツアー参加者は私の他はインド人の家族連れ1組に夫婦らしいカップル2組の他にインドは9度目の陽気なドイツ人ラルフだった。
 運転席の隣りに私、ラルフと前列3人で座っていた。 行き、帰りともラルフや運転手と色々話しをして楽しかった。
 3時間かかると思っていたが、RV車だったので2時間ほどでアジャンタに着いてしまった。

 ガイド付きのツアーだったがガイドは現地で手配することになっていた。 そのせいか、第1窟の前で30分ほど待たされた。
 私はもともと英語が得意でない上にインドの人の英語は聴き取りづらいのでガイドの説明は半分も理解できなかったが要所要所に立ち止まってくれるので見学する上で楽だった。 ガイドは全ての石窟を案内したわけでなく、1、2、9、10、16、17、19の代表的な石窟のみの案内だった。 もっともそれ以外の石窟は第26窟以外は封鎖されていたり大した彫刻や壁画が無いものだった。 ちなみに第26窟には涅槃像の彫刻があった。

 アジャンタはエローラと比べるとかなりこじんまりしているのだが例によって入場料がインド人10Rs、外国人10ドルなので外国人旅行者の間では評判が良くない。 しかし、壁画を見ていると描かれていた人物は違うが建物の描き方、人物の配置の仕方が中国や日本の伝統的な絵画と似ている。 仏像も東南アジアのものよりも日本の仏像に似ていた。 仏教がはるかな道のりを経て日本に伝わったということだけでなく日本の芸術にも深く影響を与えたことも実感させられた。
 去年訪れた中国敦煌の莫高窟とは周囲の環境が似ているのでここで修行した僧侶が伝えたのだろうか? 莫高窟の方が一つの石窟が小さかったが壁画や彫刻が繊細だったような気がする。 壁画の人物はエローラ、アジャンタはインド人、莫高窟はモンゴロイドが主というのは当然の事だろう。
 アジャンタも大した所だったがそれでも10ドルは高く感じた。

5.やったもの勝ち(アウランガバード→ボンベイ、3月18、19日)

 エローラ、アジャンタを見てから再び「現代のインド」を見るためにインド最大の商業都市ボンベイへ向かった。
 今回は350kmとそれほど離れてなかったのとインドの座席の柔らかいバスに乗ってみたかったので夜行バスにした。 ボンベイへのバスはいろんな会社からバスを運行しているらしく、夜になるといくつもバスが走っていた。 乗ったばかりの頃は空席が目立ったが1時間ほど町をぶらつくと満席になってボンベイへと向かった。

 バスにはビデオが付いていてインド映画を上映した。 最初に上映したものがあるお客が気に入らなかったのか?変更を要求した人がいた。 変更後のものは日本ではすたれたアクション物。 かえって新鮮に感じた。
 それにしてもインドでは程度があるものの、自分の主張を通した者勝ちという風潮だろうか?リクライニングは後ろを見ずに徹底的に傾けるし窓際にいた私に隣りの通路側のおじさんは「カーテンを閉めろ」「窓を閉めろ」とうるさかった。 後ろにいたおじさんは「窓は閉めないでね」と言うし。

 交通ルールも通ったもの勝ちといった感じで前に進む事しか考えてないような気がする。 物売りも外国人ならだれ彼構わず売りつける者が多いので相手の行動を考えずにやったもの勝ちといった気がする。
 教育が普及してないことが考えられるが、なにせ10億を越える人口。 激しい競争社会では相手の事を考えるなどと悠長な事を言ってられないのだろう。 その辺は中国と似ている。

 何回か寝起きしたあとに幅の広い幹線道路に出た事に気が付いた。 持参のコンパスを見ると南南西に向かっている。 ボンベイに近づいているのだろう。 次第にビルが増えて交通量も増えてきた。 最初は日本の団地みたいだったが傷んだ高層ビルが増えてきた。 バスは所々でお客を降ろして7時ごろにMunbai CST駅近くに着いた。
 トランクを開ける前に車掌が真剣な表情で「荷物代30Rs」と言って来たがとぼけていると20Rsに下がって最後は諦めてトランクを開けた。 まったく油断も隙も無い。

 前に旅行者から教えてもらったSHIP Hotel(D120Rs)に行ってみると「9時がチェックアウトだから9時過ぎに来て」と言われて待たされたが9時前に空いたベットに案内してもらった。 部屋には2段ベットがびっしりでインドネシアの国営船以上に狭く感じたが管理がしっかりしているし1日に何度か掃除しているので清潔だった。 テレビがあったしインド人客と一緒に寝起きしていたので彼らの習慣を垣間見る事ができて面白かった。

6.活気あふれる大都会(ボンベイ、3月19〜22日)

 私が滞在していたのはボンベイでも古い地区、と言ってもインドの歴史からみれば古くない18世紀以降にイギリスによって建設された施設が建ち並ぶ町だ。 建物だけ見ているとヨーロッパの都市みたいだが、道行く人、交通量の多さはやはりインド。 似たような背景で建設された中国の上海と雰囲気が似てないでもない。

 上海では行政指導によりすたれた露店の物売りはここボンベイでは盛んだった。 降りしきる日差しをものともせずに声を張り上げて自分達の存在をアピールしていた。 多いのは衣料、ジュース、スナックでよそなら10Rs以上するジュースがここでは5Rsと安かった。 物価が高いといわれる大都会ボンベイだが、さばけるものは薄利多売で安くなるらしい。

 この町は南北に連なる7つの島をイギリスが埋め立てて繋げたので南北に細長い地形になっている。 町の開発は南の端から始まったので時代とともに町が北に伸びて行ったらしい。 今でも市街の北の郊外にベットタウンができて鉄道で結ばれている。
 インドの大抵の町ではバスが市民の足だが、ニューデリーやカルカッタ、マドラスにボンベイは日本の大都市の郊外を走るような電車が運行されていて、バスとともに市民の足になっている。 特にボンベイのように商業地区と住宅地が離れていると電車を利用する人の割合が増えるだろう。
 沿線から走っている電車を見ると扉が開けっ放しで人が少しはみ出していた。 インドネシアの首都ジャカルタを走る電車も同じだった。 いつもはのんびりしているインド人だが、移動に関してはせっかちになる。 少しでも早く降りようと待機しているのだろう。

 町の南の端はバックベイと呼ばれる湾を挟んでイギリスが建設したフォート地区の半島とマラバール・ヒルと呼ばれる半島の地区がある。 マラバール・ヒルは日本の神戸の高級住宅地に感じが似ていた。 眺めの良い斜面に高級マンションが建ち並び、インドではめったに見かけないベンツの自家用車を何台も見た。

 この町の繁栄を支えているのは港である。 インドの海上輸送のかなりの割合を占めているらしい。 その港の様子を見たかった。
 「海のエローラ」といった感じの石窟の島エレファンタ島への船に乗ると見えただろうが入場料がこれまた10ドルだったので諦めた。 もっともインド海軍にとっても重要な港湾だろうから外国人の目には触れさせたくないだろうが。

7.西から来た人達(ボンベイ、3月21日)

 繰り返す事になるが、インドでは様々な宗教が存在している。
 その中の一つに火を崇拝するゾロアスター教がある。 現在のイランが起源だがイスラム教徒に追われてインドに落ち延びた人々の末裔らしい。 インドのゾロアスター教徒はパルシー(ParsiまたはParsee)と呼ばれている。 現在のイラン人(ペルシャ系)はFarsiと自称しているので彼らも自称が由来なのだろうか?(どちらも最初のaと最後のiにアクセントがある)

 落ち延びた人々だがもともと素質があったのだろうか?今ではその人達の子孫がインドの政財界に大きな影響力を持っている。
 彼らの歴史、現在の地位については日本でもいろんな本で扱われているだろうし私も帰国してから学びたいと思っているのでこのへんで止めておく。

 毎度おなじみ妹尾河童の「河童が覗いたインド」によるとパルシーのほとんどがボンベイに居住しているが、全体の人口は25万らしい。 中流以上の彼らは子供をたくさん作らないだろうから今でも30万もいないだろう。 そんな少数の集団だからだろうか?ガイドブック「地球の歩き方・インド編」には彼らのことがほとんど触れられていない。
 ただ、彼らの葬儀を行う場所、「沈黙の塔」の位置が地図に示されているが。(「沈黙の塔」はいわゆる鳥葬を行う場所で鳥葬の現場は外から見えない様になっている。 鳥葬は彼らにとって重要な意味を持つ「火」「大地」「空気」「水」を汚さないというポリシーに乗っ取った葬儀法。)

 そんな彼らを象徴するものが見たかったが手がかりがない。
 ところが、ボンベイのインド政府観光局が無料で配布している「MAP GUIDE MUMBAI」に「FIRE TEMPLES」という項目があり地図に3ヶ所明記されていた。 恐らくゾロアスター教の寺院だろう。 地図をみると宿から離れてないので歩いて行ってみた。

 最初の寺院は通りに面していて、壁の上に古代のレリーフ風の人物像があった。 多分聖者だろう。 入口には「パルシー以外の立ち入りお断り」の看板が出ていた。 グジャラートの言語、グジャラティー語のような文字が門に彫ってあったので守衛さんに聞いてみるとパルシーの言葉らしい。 入口近くに火をたくのに使うのだろうか?1cm*1cm*10cm位に切った木が売ってあった。 参拝に来ていた信者の方々は男性は上が少し細くなった黒い円筒形の帽子を被り、女性はスカーフを被りスカートをはいていた。

 二つ目の寺院で入口にいた年配の男性に中に入れるか聞いたが、誤解されたらしく「我々は決して他の宗教の信者の方々との接触を拒んでいるわけではありません。 故インディラ・ガンジー前首相はパルシーと結婚されたのですよ。 とにかく、中には入れません。 行って下さい。」らいしことを言われた。 外からの撮影の許可を取ろうとしたが「行って下さい。」と繰り返すだけだった。
 仏教寺院は異教徒の寺院立ち入りについておおらかだが、大抵の宗教施設は異教徒に対して本堂にあたるところの立ち入り、厳しい所では敷地内の立ち入りを禁じている。

 三つ目の寺院の前で例の木を売っていた40代くらいの男性に寺院の撮影の事を聞くと怪訝そうな顔をされたが「敷地内ではお断りしますが、外からなら構いませんよ。」と予想した回答をされた。 彼ら自身、異教徒が寺院に近づく事を好ましいと思ってないのかもしれないがそれ以前にただの旅行者との対応することがないのだろう。
 彼に売っている木の事を聞くとやはり祭壇に捧げるものらしい。 名前を「サンダル・ウッド」というそうだ。 香木らしい。

 最後に高級住宅地マラバールヒル近くにある「沈黙の塔」を訪ねた。 と言っても周囲から見えない様に木で覆っているらしいので期待はしてなかった。
 「沈黙の塔」はハンギングガーデンという小奇麗な庭園のすぐ北にあった。 公園の守衛さんから道を教えてもらってその方角を歩くと妙にカラスと犬が多い嫌な雰囲気の森があった。 そこを通り過ぎて道の反対側にあるマンションの守衛さんに聞くと、まさに今通った向かいの森が「沈黙の塔」の敷地らしい。 奥に銀色の屋根の建物があったが何かわからない。 丁度その時タクシーが止まった。 年配の西洋人の夫婦をのせたもので観光用にチャーターされたのだろう。 運転手が建物を指差してなにやら説明していた。

 マンションの守衛さんから「沈黙の塔」の入口を教えてもらってその方角へ歩いた。 でも中には入ろうとしなかった。 断られるのはわかっていたし、許可されたとしても有意義な目的が無い限り入るべきではないだろう。

 入口を越えて坂を降りると交通量の多い普通のボンベイの町に戻った。

8.豪華列車の旅はいかが?(ボンベイ→ニューデリー、3月22、23日)

 再び鉄道の話題になるが、Indian Railways御自慢の特急列車にRajdhani、Shatabdiというものがある。 Rajidhaniは全車両エアコン寝台の長距離列車で首都ニューデリーとボンベイ、カルカッタ、マドラス、バンガロールといった主要都市間を結んでいる。 Shatabdiは全車両エアコン座席の短中距離列車でニューデリー、ボンベイ、カルカッタ、マドラスといった主要都市と数百キロ離れたその地域の主要都市を結んでいる。

 どちらも料金に食事代が含まれていて乗務員に給仕をする人がいる。 至れり尽くせりの豪華列車らしい。 ちなみにニューデリー→ボンベイ間では普通のエアコン3段の寝台が約1,000Rsだが、Rajidhaniのエアコン3段の寝台では約1,500Rsと1.5倍する。 所要時間は普通の特急が同じくニューデリー→ボンベイ間ではおおよそ22〜24時間かかるがRajidhaniは約17時間とスピードもアップする。
 そろそろ4月なのでボンベイから一気にデリーへ移動するつもりだったが、これまた奮発してRajidhaniを利用する事にした。

 当日に乗車するとやはり客層が違っていた。 私の近所には10歳くらいの男の子を連れた品のよさそうな夫婦、通路を挟んで向かいの寝台にはデリーへ出張だろうか? シークの青年と若い女性がいた。 女性は持参のパソコンでなにやらしていた。 暇つぶしのゲームかもしれないが。 彼ら同士の会話はほとんど英語だった。
 列車に乗車すると大概インド人同士で楽しそうに会話を始めるが、ここでは他人には不干渉という雰囲気だった。
 楽しみだった車窓は二重窓のどこかから空気が漏れていたらしく最後まで窓に水滴が付いていたのでだめだった。 仕方なく、文庫本を取り出して読書をしていた。

 発車してからしばらくすると御自慢のサービスが始まった。 まず、1リッターのミネラルウオーターが配られ続いておやつが盛られたトレーに小さな魔法瓶に入った紅茶(コーヒーもあった)が配られた。 日本人女性ならこれで夕食はおしまいになってしまうだろう。 他に紙パックのジュースも配られた。
 夕食は例によって事前にベジ、ノンベジか?ノンベジの場合はチキンか?玉子か?注文を取っていた。 移動中、私は消化のよさそうなベジを選択している。 内容は以前乗った厨房付き列車のものと変わらなかった。
 食事が終わってしばらくすると例によってする事が無いので例によって寝台の用意をしてお休みタイムとなった。

 翌朝、気が付くと列車が昨日より振動している。 ボンベイ周辺はインドでも先進的な地域なので線路の状態が良かったのだろう。
 7時を過ぎると給仕の人達のサービスが始まった。 まず、朝の紅茶・コーヒーに始まり、ジュースに朝食が配られた。 インドの人は朝に軽い食事をとるので、ここでも朝食はあっさりしていた。

 食事が終わってしばらくすると家族連れのお父さんが「あなたの国の文字で息子の名前を書いてもらえませんか?」と言った。 クラスが上でもやはりインド人。 見慣れない文字の本を読んでいた私に興味があったのだ。 もちろん、了解して英語で息子さんの名前を紙に書いてもらってその下に私がカタカナで書いた。 受け取った少年の明るい笑顔が印象的だった。
 家族を連れての移動はお父さんにとって忙しいことだろう。 気を遣って必要最低限の会話は避けたが、こんなことならもう少し話しても良かったのではと悔やまれる。

 デリーに近づくと給仕の人達がお盆を持ってチップを集めに来た。 大体一人10Rsなのだが丁度10Rs札を切らしていた。 仕方なく100Rs札を1枚のせて10Rs札を集めると8枚! 20Rsとチップの方も奮発してしまった。

 10時前に無事ニューデリー駅に到着。 デリーは4ヶ月ぶりである。 陸橋を越えて駅から出ると相変わらずの混沌とした町だった。
 インドの物価を良く知らなかった前回は意識しなかったが、今回はここの宿代は高く感じた。 大体、個室が150Rs。 でも探せばそれより安いところもある。 前回の宿は従業員がかなり怪しかったので止めにして、そこから離れていないNavrang Hotelにした。 初日はトイレが無い狭い60Rsの部屋にしたが、部屋が3階、トイレは1階と不便だったので次の日に隣りの隣りのシャワー・トイレ付きの部屋(W100Rs)に移った。

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