大室城

概説中世の大室城付近の歴史的環境:
 鎌倉の初期、信太庄はその本家を八条院にもっていたが、鎌倉末期には東寺の支配に変わり、小田家の祖八田氏が地頭に任命されたらしい。南北朝の動乱によって鎌倉府の支配になった。当時信太庄は上条と下条に分かれ阿見の上条は上杉重能、下条は高師冬が支配していた。応安6(1373)年頃、下条は小田孝朝に与えられ小田氏が上条へも勢力を拡げる体制になった。その後至徳3(1386)年頃、信太庄全域は上杉氏の支配に変わっていた。上杉氏の被官として、土岐原秀成、臼田氏(下条市崎郷)、近藤氏(下条伊佐郷)、大越氏(上条)らが来任した。その後土岐原景秀の代になると小田氏は再び勢力を盛り返し、信太庄は次第に小田氏の勢力下に変わりつつあった。土浦から阿見を通って江戸崎に行く霞ヶ浦湖岸の台地に構築された城館は小田進出の出城として築造されたものと言われる。掛馬館島津城塙城舟子城などは全て小田一族の配下が配置されていたようだ。土岐原治頼の代には江戸崎城は一時小田氏に占領されていた可能性がある。大永3(1523)年、治頼は信太庄奪回を開始、江戸崎城を奪還、久野辺りまで進出して久野城を構築した。享禄、天文期(1528〜1554)頃、小田氏は佐竹の脅威から土岐と友好同盟を結び、また南西部で境を接する岡見氏とも相協力して領地を拡げていった。天文末年から永禄期に入ると、佐竹、多賀谷氏などの進出に備え、小田、岡見、土岐は北条勢力下に入った。土岐氏は、江戸崎城木原城を守るため、筑波、谷田部方面から阿見を通って江戸崎、木原に向かう馬背道に土塁を築き、その数は三十余を数える。先に小田進出の拠点になっていた、掛馬館島津城は逆に土岐氏の手中に入り土岐氏はそれらの出城に増改築をして守りを固めたのではないか。天正期に入ると、佐竹、多賀谷氏の攻勢がますます激しくなり、小田氏の城館は次々に落城したが、土岐氏の城館は案外安泰であったようだ。しかし、天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原を降すと、江戸崎勢力もその軍門に降り、土岐の諸城はその後廃城になった。大室城は阿見町史編さん委員会によってその存在が初めて明らかにされたが、これは土岐氏の築城によるものと考えられる。また、築城様式が案外新しいことなどから、芦名氏の築城ではないかという見方もある。[『大室城跡発掘調査報告書』より]
本郭(右手)と西郭(左手畑地)、奥の林は古屋敷
その他の写真
  1. 本郭から霞ヶ浦を臨む(眼下には二段構えの帯郭)
  2. 西郭と古屋敷(右手の林)間の大堀切
  3. 古屋敷の竪土塁
  4. 小郭東虎口土塁の残欠
訪問記[2001/01/01]新しい宅地の奥に薮が残っているので、もしかしたらなにか遺構があるかもしれないと、希望を捨てずにいる。
[2003/03/24]『大室城跡発掘調査報告書』の縄張図を参考に周辺を歩いてみた。新興住宅地になって全てが湮滅したと思っていたが、小郭虎口土塁の残欠や本郭北側の二段構えの帯郭、古屋敷の竪土塁などを確認できたのは予想外の収穫。
所在地稲敷郡阿見町大室字台。土浦レイクサイドタウン敷地内。
参考書『阿見町史』、『阿見町史研究第6号文化財特集』、『大室城跡発掘調査報告書』