舟子城

概説 舟子城の歴史的推移については不明な点が多いが、舟子の「福田家文書」に、観応2(正平6=1351)年8月、附名古御館の主として佐野次郎義英が小田家より送られ、地名を舟子と改め、4代で子がなく廃城となったと記されている。この初代は、母が野州佐野右京之亮の女であったため母方の佐野姓を名乗ったようである。舟子の海源寺本尊薬師如来坐像から見つかった明応十年の銘のある墨書に、「大旦那土岐原源治郎、旦那佐野吉秀」と書かれていることから、当時、舟子城は小田氏の支配から土岐原氏の支配下に移っていることが証明される。[『美浦村誌』より]
 なお、字城ノ内一帯は「城ノ内(しろのうち)遺跡」という名称で最近登録された。
木原城本丸展望台からの眺め。右手に霞ヶ浦と筑波山。手前の宅地と農地はかつては布佐沼
    その他の写真
  1. 舟子小字御城にある登り口
  2. すぐに右手に巨大な土塁
  3. 薮のなかにかなりしっかりとした土塁が残る
訪問記[1998/04/20]本城は宅地造成工事中。南側の土塁も分からなくなっている。
[2000/11/13]畑の脇を登るとすぐに右手に巨大な土塁があり、そのすぐ奥に平行してもうひとつの土塁がある。その奥が本城跡だが薮がすごくて近付けない。左の竹薮を進むと古墳や別の土塁があった。1998年4月20日に来たときには本城部分は宅地造成中だったのだがその後放置されて藪へ戻ってしまっている。ただ単に遺構が湮滅しただけの造成工事だったわけだ。
所在地稲敷郡美浦村舟子字城ノ内1736外。
参考書『美浦村誌』、『舟子城のおもかげ』