江戸崎城   関連ページ:『江戸崎城周辺の戦国土塁』『江戸崎土岐氏用語事典』『江戸崎土岐氏年表』

概説江戸崎城は、室町時代から戦国期にかけて土岐原氏が信太庄支配および霞ヶ浦の水上権益を守るために築いた城。市街化のため遺構の残存程度は良好とは言えないが、県南の重要な城郭遺構のひとつである。
[地理と歴史]江戸崎土岐氏の本城で、北方は霞ヶ浦、東方は小野川河口、南方は小野川の作る沼沢地に囲まれた要害の地に築かれている。城域は江戸崎の町の中心部と重なり、稲敷台地の一部が小野川に沿って舌状に張り出した標高25mの台地先端部に立地する。築城は室町時代初期の応永〜永享の頃(1400年代)と推定される。歴代城主土岐原氏は美濃の守護土岐氏の一族で、山内上杉氏の被官であった土岐原秀成が元中4(1387)年頃、信太庄惣政所としてこの地へ入部し、江戸崎城主への第一歩を築いた。永正の頃(1500年代初期)、小田氏との紛争や内紛によって一時江戸崎城を失っている時期もあったようだが、その後龍ヶ崎城を足掛かりに奪還した。天文12(1543)年頃、土岐原氏は姓を土岐氏へ変えているが、これは美濃土岐氏の滅亡により江戸崎土岐原氏が土岐氏の惣領となったためであろう。小田氏の衰退と入れ替わるように支配域を拡大し、現在の稲敷郡から龍ヶ崎にかけての広大な地を支配するようになった。現在も、周辺地域には土岐氏関連と思われる稲荷神社を祀った城郭が多く点在している。また、江戸崎城周辺の主要街道に数多く残る街道閉塞土塁群はその頃から造られていたものと考えられる。戦国末期には後北条方に付き、「江戸崎城 龍かミね 木原 三ヶ所 千五百騎」(毛利家文書)の兵力を持って佐竹氏・多賀谷氏などと対立したが、豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受け、天正18(1590)年5月20日、浅野長吉軍方の神角介が要害(本丸)へ乗り込み土岐治綱は江戸崎城を開城・高田須(現江戸崎警察署付近)へ退去、その後上之島(現東町)で没したと伝えられている。土岐治綱退去の後、佐竹義宣の実弟芦名義広(盛重)が入城し城下町を整備するが、関ヶ原の役後の慶長7(1602)年、秋田転封となり江戸崎城は廃城となった。
[構造と遺構]小野川の低湿地帯へ突き出た台地南端に本丸(要害)がある。現在台地上には、町民研修センターおよび民家が一軒ある。郭周囲は土塁で囲まれていたと考えられるが、現在は東側から北側にかけてわずかに残存する。東側土塁下には犬走り、腰郭が認められる。民家北東側の畑の中の窪みに欅が植えられているが、これは井戸跡と言われている。本丸の北側、現在江戸崎小学校運動場になっている所には、本丸とほぼ同程度の標高の見晴らし山(別名桃山)が太平洋戦争の頃まで存在した。本丸と見晴らし山は木橋で連絡されていたものと考えられる。そして北側の鹿島神社のある郭とは堀によって区画されていたようだ。鹿島神社北側に残る土塁はかなり大きなものだが、これはこの郭が低地にあるためだろう。その北側の瑞祥院境内と羅漢山までを郭と考えてよいだろう。羅漢山の一段下には中段の郭が、また、細尾根の基部付近には竪堀も見られる。このように江戸崎城は小野川の低湿地を天然の堀に見立てた直線連郭式構造の城郭である。さらに北側の伊勢ノ台(現江戸崎中学校)も城域だとする説があることを付け加えておく(北側斜面には大形の竪土塁・竪堀が複数本見られる)。
[出土遺物について]昭和60年7月15日、鹿島神社北西角の丁字路(堀跡)での地下ケーブル工事の際に、多数の人骨・若干の獣骨・五輪塔・塔婆・素焼土器・木椀・古銭が出土した。人骨の個体数は30体弱だが、本来100体近く埋められていたと考えられる。内訳は、成人男女、一部幼少年も含まれ、特に人骨に残る刀創は通常の戦闘で形成されるよりもはるかに高頻度で、その形状には虐待(据え物切り)を物語る特徴があり、鑑定をした獨協大学馬場悠男氏らの報告では、天正18年の江戸崎城落城に関連する惨劇によるものと考察している。異説として、小田軍によるものだとの解釈もある。
二ノ丸の土塁(鹿島神社境内)
江戸崎古城図(クリックで拡大)
江戸崎城残存遺構図(クリックで拡大)
その他の写真
  1. 本丸(城山)北側土塁と井戸跡(欅が植えられている)
  2. 鹿島神社北側に残る二ノ丸の土塁(昭和60年、写真右手の交差点地下から多数の人骨が出土した)
  3. 瑞祥院羅漢山から臨んだ伊勢ノ台(現在は江戸崎中学校)。北側斜面には畝状竪堀竪土塁がある
  4. 最後の城主土岐治綱の卵塔は川縁の無縁塔コラージュの左隣にひっそりと立つ(東町上之島)
訪問記[2000/10/16]江戸崎城の縄張図が手許にないため遺構の正確な名称が分からないので、広島市立中央図書館所蔵の「江戸崎古城図」を参考に名称を当ててみた。しかし、何分古城図のため合理的で無い部分もあるようだ。
 江戸崎小学校と家具屋の間を上って行くと、町民研修センター、城山稲荷、民家、畑などがある。現在城山と呼ばれているこの丘は二ノ丸および本丸跡で、北から東にかけて土塁が残っている。東側土塁下の急斜面には犬走りや腰郭も見られる。畑の中央部に井戸跡と言われる窪みがある。そこの住人に聞いたところ最近その場所に欅を植えてしまったということだ。二ノ丸に位置する鹿島神社北側には土塁がよく残っている。城山よりも鹿島神社のほうが見ごたえのある土塁があると言える。城山の西側スーパータイヨー駐車場の東を流れる川は城の西側の堀の延長だったらしい。その他、江戸崎市街の道のクランクや食い違いは古城図でおおよそ確認できる。
 また、江戸崎城へ行かれる時には、鹿島神社の北側にある瑞祥院の五百羅漢のある裏山へも登ることをお勧めする。ここにも竪堀や中段の郭が確認され城郭の一部と考えられる。さらに、江戸崎城の北側遺構として伊勢ノ台も無視できない。現在江戸崎中学校や不動院のある伊勢ノ台は江戸崎城が成立する以前から存在した最も古い城郭跡ではないかという説をとなえる研究者もいる。学校敷地内には土塁、櫓台などがかなり残っているように見える。竪堀もあるらしいので次回調べる予定。
 東町上之島の共同墓地には最後の江戸崎城主土岐治綱の墓碑がある。立派な笠石塔の家臣の墓に比べて川縁に無縁塔と並んで立つ治綱の小さな卵塔は世の厳しさを訴えているといった風情。
[2001/12/10]竪堀があるという伊勢ノ台北側斜面を歩いてみた。竪堀といえばいえるかな。
[2004/05/04]再度、伊勢ノ台北側斜面を歩いてみた。竪土塁が5〜6本、その間に箕の形をした幅広の竪堀が入っていると見ればよさそうだ。
[2004/12/19]江戸崎城内の残存遺構を確認するため再度一回りしてみた。城山北東斜面下にも腰郭がありその縁には土塁が残っていた。江戸崎中学校北側斜面の畝状竪土塁を数えてみたら10本あった。ところで、2000年10月16日の訪問記に「学校敷地内には土塁、櫓台などがかなり残っているように見える」と書いたが、あの後中学校整地時の様子をご存知の方から「当時から城の遺構は無かった」との情報をいただいた。校庭にある土塁や櫓台風のものは整備時に土盛りされたものだったという事になる。しかし、北側斜面の竪土塁群は遺構と考えてもよさそうなので、「伊勢ノ台、城郭説」はこのまま残したいと思う。
所在地稲敷郡江戸崎町江戸崎。城山と呼ばれる台地南端が本丸および二ノ丸の一部。江戸崎小学校地は本丸北側部分で、かつては城山と同程度の高さの桃山と呼ばれる台地だったが終戦直後に校地にするために削平された。鹿島神社、瑞祥院にかけてが二ノ丸跡。少し離れて、江戸崎中学校のある伊勢ノ台という丘も古い時代の城跡と考えられる。
参考書どう言う訳か『江戸崎町史』は江戸崎城についてほとんど触れていない。口絵の江戸崎古城図は現在の地図と比較すると興味深い。江戸崎古城図は『江戸崎歴史巡りガイド』にも載っていて、これは中央公民館や町役場の経済課あたりでもらえると思う。現在の地図に照らし合わせると道のクランクや土塁の位置、川になっている堀跡など参考になると思う(ただし、縮尺や方位はむちゃくちゃですが)。
江戸崎城と土岐氏についてはむしろ『龍ヶ崎市史中世編』 、『龍ヶ崎の中世城郭跡』、『牛久市史原始古代中世』などが参考になる。出土人骨の調査報告は『江戸崎町史編さん史料(3)江戸崎城関係資料編』に載っている。参考書ではないが、江戸崎町では江戸崎城を3D復元した解説ビデオ2巻を作製販売している。