城砦集落


 「村城」とか「城砦集落」などとよばれる集落が美浦村やその周辺の町村域には数多く存在します。それらはごくありふれた集落ですが、少し注意して歩いてみると屋敷の周囲や後背地に土塁や堀の残存が見つかることもあります。

 阿見町の「城砦集落」:実穀古屋敷君島城砦集落大形東村城砦集落大形井戸道城砦集落飯倉城砦集落
 美浦村の「城砦集落」:木村城砦集落

 「城砦集落」に関連する資料を以下に掲載しておきます。

城砦集落 [『阿見町史』p173より]
 天正期には外からの脅威が身近に迫ってきた。北からは佐竹、西からは多賀谷の勢力である。土岐氏は領国全体の城砦化をはかったが、各村でも集落の安全を守るため、小領主を中心として集落を城砦化しようという工夫がなされる。そうした集落を仮に城砦集落とよんでおこう。
 集落によってそれぞれの特色をもちながらも、いざという時には砦ともなる防備をほどこしながら、平時はそのまま共同体としての機能が発揮されるように工夫されている。かつての散居型から集村型への変化というようにもとらえられるであろう。

百姓も城をもつ [藤木久志著『戦国の村を行く』(朝日選書579)p61より]
 明らかに領主とは別に、村人は自分たちの「村の城」や山小屋、つまり拠点や避難所を、自前で造りあげ、「村の武力」を備え、同心・合力して、警固の順番を作り、自力で荘園や村を守った。
 「村の城」といえば、最近は、地域ごとの中世城郭研究者たちの、文字通り地をはう努力によって、籔林に埋もれた山城の調べが、大きく進んだ。ただ、「城(じょう)」とだけ呼ばれて、文献もなく、いい伝えさえもない、小さな中世の山城の群が、村や町ごとに、次々に姿を現してきている。だが、そうした「名もない」山城の城主を探しあぐねると、無理に名のある武将の事績に結びつけるか、さもなくば、有力な大名の支城群、つまり城郭による領国支配ネットワークの末端、とみてしまうのがふつうである。
 しかし、もしそれが村人の手になる「村の城」であったら、城の名や城主の名など伝わらないのが、むしろ自然ではないか。名のある英雄に憧れて、無理に「大名の城」に仕立て上げるよりは、むしろ地域からの目で、数多くの小さな山城は、村人が自力で造りあげた、村のナワバリや地域の生活を守る、「村の武力」の拠りどころだった、と構想してみようではないか。少なくともそうする方が、中世の地域の活力を探りあてる、楽しい仮説となるに違いない。