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「茶道と十字架(角川選書)」増淵宗一 (著)(角川書店 1996年2月)

→目次など

■家族および弟子や友人との関係から利休キリシタン説を検証し、聖餐式と茶道、銀器と陶器、大聖堂の大空間とステンドグラスに対する茶室の小空間と障子窓という対比を通じて、利休の完成させたわび道の特質を知る。■

千家も認めている茶道へのキリスト教の影響。

日本人が純日本式であると見なしている文化にキリスト教の影響があり、しかも、もしかすると知らず知らずのうちに、キリスト教の神に祈りを捧げさせられているとしたらどうでしょうか。世界システム(西洋文明による侵略)や、イエズス会の悪事について興味を持つ私にとってこの本はぜひとも読んでおきたい本でした。

著者はもちろん私のような興味を持っているわけではありません。一つの器から回し飲みをする作法や、茶巾とプリフィカトリウム(聖布)の扱い方に見られる共通性、また古田織部の作品にみられる十字やイエズス会式の三本釘の模様が、果たしてキリスト教の影響であるのかどうかを検証する内容になっています。

興味深いのは、イエズス会の宣教師たちは抹茶を苦手としていた一方で、日本のイエズス会の協会には、茶の湯を点てられる空間を併設することが指針となっていたという点です。また、わび茶がほとんど利休一代で完成されていることから、私は利休と共同でわび茶の様式を決める集団がいたのではないかと空想してしまいました。

利休の回りには多くのキリシタンがいましたが、イエズス会の資料に利休の名はほとんど登場せず、したがって利休キリシタン説は否定されるだろうと著者はいいます。しかし、実はその不自然さにこそ真実があるように私は考えてしまいます。

キリスト教の影響があったにせよなかったにせよ、わび茶を通じた布教や、茶室を利用した情報交換などはなかったとみるべきのようです。そこには、禁教や、利休に命じた切腹が功を奏したのかもしれません。

器の移り変わり(漆器から陶器、中国製の陶器から朝鮮半島製、日本製へ)や、弱者を救済することで勢力を伸ばすというキリスト教の布教手段など、他にも面白い内容の多い本でした。

おすすめです。『織田信長 最後の茶会』と共通する話題も多く、両者を合わせて読むことをお勧めします。

内容の紹介


キリスト教が急速に庶民に浸透したのは、教義そのもののほかに、救貧、坊貧、治療などの社会事業を手あつく施したからである。戦乱に明け暮れる戦国時代の中、弱き者、病める者への救済は、庶民たちに広く支持された。 - 35ページ

キリスト教が進出すると貧富の差が出来るという不思議があります。また、この世は人間のために作られてなどおらず、生物である以上、弱い者をどこまでも助け続けることなどできないという現前たる事実もあります。


信長の茶頭である今井宗久、津田宗及も又、利休と同じく、堺の商人である。当時、茶人は、堺にしかいなかったわけではない。にもかかわらず奈良や京都の茶人ではなく、堺の茶人ばかり信長の茶頭になったのには、経済的政治的事情がある。
  今井宗久、津田宗及、そして武野紹鴎や利休は、いすれも、茶人であると同時に、堺の代表的な商人であった。信長は、彼らの経済力を政治的に利用したといえる。 - 42ページ

世界支配者VSライトワーカー』を思い出します。堺が東洋のベニス(ヴェニス/ベネチア)と呼ばれたことは、東西の商人たちの共謀も意味しているのではないでしょうか。


秀吉の「台子茶式の伝授の禁止」といい、それに先立つ信長のいわゆる「茶の湯御政道」といい、茶の湯が政治や権力と密接にかかわっていることが如実にわかる。茶の湯は、戦国時代の武将にとって、政治的な戦略の道具として有効に使われていたといっても過言ではない。 - 74ページ

すでに政治的な道具として使われていた茶の湯と出会ったイエズス会が、これを利用するために堺の商人利休と手を組んだ。そして利休一代で侘び茶を作り上げた。そんな筋書きが見えてきます。


もしも織部がキリシタンになる機会があったとすれb、天正十三年という年は可能性の高い機会であったにちがいない。右近との交流もあったり、後見をしていた中川秀政が播州播磨でキリシタンになったくらいだから。織部がキリスト教と無縁な状態に置かれていたとは考えにくい。だが『一五八五年のイエズス会日本年報』は、秀政の後見役である織部についてはまったく記していない。 - 142ページ

ここにも不自然さがあります。本書には、織部焼の形や文様がキリスト教の影響なのかどうかという観点から登場してきていますが、実は政治的な側面でイエズス会と関係していたのかもしれません。


共同飲食行為を儀式として行うことは、他の宗教、ことに日本人に関係の深い仏教の各宗派や神道とくらべると、類例がない。とりわけカリスという聖杯に注がれたぶどう酒をまわし飲みする共飲行為は、他に例がないといえよう。 - 116ページ

濃い茶の回し飲み(スイ茶)は山上宗二がはじめたともいわれるそうです。「濃茶の飲みまわしについては、天正14(1586)年9月28日朝、豊臣秀長の茶頭・曲音の郡山の屋敷で秀長を迎えて山上宗二がスイ茶(濃茶)を差し上げた記録が初見と思われる。」(『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」その一考察

一方、「利休は茶の湯において「吸い茶」、すなわち「回し飲み」の儀礼を確立したといわれている(古溪和尚送別の茶会記)。回し飲み自体は、すでに行われていたようであるが、利休によってその儀礼が確立したのであろう。」(天地自然の道)あります。

この当たりの経緯は本書でも多くのページを割いて検証されています。私として、茶道を隠れた聖餐式とするために意図的に行われたのであろうと思いたくなります。


図34は、十字釜で、古浄味の作である。(中略)カリス(聖杯)に注がれたぶどう酒が聖変化してキリストの血となるように、十字釜の湯は抹茶碗に注がれて聖変化することは可能だろう。(後略) - 180ページ

この後の部分にあるように、このようなキリシタン風茶道具は少数派でしかなく、意図的であったとしても成功を収めたとはいえないようです。


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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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