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「遥かなる野菜の起源を訪ねて〜イネ・ムギ・野菜 日本への道〜」池部 誠(著)(ナショナル出版 2009年8月)

→目次など

■1982年から1989年にかけてと2002年に行われた世界中で大規模に作られている野菜と穀物の原産地を訪ねる旅の記録。■

『人間は何を食べてきたか』という8巻セットのDVDがあります。1985〜94年にかけてNHKで放送されたドキュメンタリー番組に特典映像として高畑勲、宮崎駿両監督と番組制作者との座談会が収録された作品です。スイカを頼りに砂漠に生きる人々や、トウモロコシの原種と思われる植物が現在のトウモロコシとはまったく似ていないことを教えてくれた作品でした。肉はぜいたく品ではなく保存食であったということもこの作品から知りました。クジラ獲りに命をかけるインドネシアの人々や、アジアに偏る麺の分布など、多くのことを知った作品です。

これと重なる時期に、野菜と穀物の原産地を訪ねた人がありました。それがノンフィクションライターである本書の著者です。本書の発行は2009年ですから、訪問時から少し時間が経過しています。目次をひろうと、ジャガイモ・トマト・キャベツ・サツマイモ・ナス・キュウリ・菜(カブ・白菜・心菜)・ネギ・タマネギ・ニンジン・小麦・米が上がっています。「あとがき」によると、本書は1995年に出版されたヴィジュアル文庫『野菜探検隊 世界を歩く』を修正・加筆したものにムギとイネの章を付け加えたものとあります。ムギの章は書き下ろしになっています。

私は、植物を栽培することも、動物を飼育することももしかすると遺伝子組み換えに相当する、生物界の法則にそむく行為なのではないかと考え始めたため、もし、栽培を行わなかったなら、どのような植物を食べることになるのかを知りたいという興味もあってこの本を読みました。

まず、巻末にまとめて収録されているカラー写真を見ます。野生のトマト・ジャガイモ・キャベツ・ニンジンなどが写されています。私たちが野山で見かける植物たちに近いそれらの姿に、いとおしさ・いじらしさを感じます。

原産地を訪ねるといっても、直接赴いて原種を確認するというわけにはいきません。原産地が判明していなかったり、複数説あったり、原種の候補が複数あったりしているためです。また、栽培種が伝播する途中の経路も訪ねてあります。こうして、栽培植物と人類の歴史は当然ながら強く結びついているということもわかってきます。イースター島のサツマイモは南米から直接来ていることから、イースター島と南米に古くから交流があったということがわかります。古代フェニキアの船は巻かないキャベツを中国まで運んだのかも知れません。

少し本文を引用してみましょう。


イースター島を出て、タヒチ経由でパプア・ニューギニアに向かった。タヒチのホテルで「子牛のスパイスソース」の付け合せで出たマッシュポテトを食べたら、サツマイモだった。ほのかに甘くて非常にうまかった。煮たサツマイモも食べてみたいと思ったが、ホテルでは出してくれない。自分でマーケットで買い、調理する場所がなかったから生で食べてみた。すると、これがうまいのだ。ためしにちょっとかじるだけのつもりだったが、太いイモを一個全部食べてしまった。

私もサツマイモを生でかじったことがありましたがえぐみが強くてとても食べられたものではありませんでした。品種が違うのかもしれません。こういった、旅の途中での体験や、関連する知識が折り込まれているため、いろいろと想像しながら読むことになります。たとえば、福岡正信さんの自然農というあり方は、アワや陸稲とキュウリやウリ、豆を一緒に育てる焼畑農耕に近いのかもしれないなど思いついたりしながら読み進めます。

小麦の章や米の章では、人類と農耕・文明の関係について考察されています。狩猟採集者たちの生き方についても触れてあり、農耕を一方的に肯定していない点で共感を覚えます。アボリジニは狩猟採集者であると同時に、原野に火を放って生態系を自分たちの都合のよい状態に維持する点で一種の農耕を行っていたと見なせることなど、農耕と狩猟採集の中間的な有り方を知ることもできます。

魚介類は天然物のほうが美味しいことを私たちは知っています。一方で、野菜や果物となると天然物よりも栽培されたもののほうが美味しいという印象があります。しかし、この本を読んでいくと原種は、栽培種と比べて美味しいこともあれば、美味しくないこともあることがわかります。そんなことから、山栗や野生のアケビは、とてもおいしいことを思い出しました。『本多勝一のこんなものを食べてきた! 小学生の頃 コミック』には、あまり野草として触れられることのない、スノキの葉や、ツツジの花を食べる話が書いてありました。じつはかつて食べていたものの、その後食用としなくなった、おいしい植物たちが野山にはまだたくさんあるのかもしれません。

当初の興味とは別にさまざまに想いを馳せる読書となりました。

内容の紹介


トルコには野生種が多い
  車でトルコを走り廻っていると、野生植物の多いのにびっくりする。 私たちが見た野生植物は、クレティカ、カブや白菜の祖先のB・カンペストリス、黒ガラシの祖先のB・ニゲラなどのアブラナ科植物や、小麦、大麦、レタス、セロリ、ケシ、ソラマメ、エンドウマメなどである。 農家の畑に野生のレタスが栽培レタスと並んで生えていたりする。
  ここは農業の発祥地である肥沃な三日月地帯に属する。 J・R・ハーランというアメリカの農学者がトルコの野生小麦を採取する実験をしたことがある。 彼は九千年前に使われていた石の小鎌を使って一時間に二・五キロの小麦を採取することができた。 これを当時使われていた木製の臼と杵で脱穀すると一キロの粉が得られた。 この小麦粉は栄養価が高く、アメリカで使われている高品質のパン小麦が十四パーセントの蛋白質を含んでいるのに対して、二十四パーセントの蛋白質を含んでいた。 そして、五人で三週間、一日十時間働いたら約一トン、つまり、一家族の一年分の小麦が得られることになる。
  トルコは野生種の原産地としてだけではなく、作物の伝播の歴史の上でも重要な土地である。 アジア、アフリカが原産地の作物が西に向かった時に受けとめ、さらに発展させてヨーロッパに渡したのだ。 タマネギ、キュウリ、ナス、ニンジンなどの作物だ。 だから、トルコには野菜の種類が大変多い。 そのせいだろう、トルコ料理には野菜と肉の煮込み料理が多い。 安いし、客の前に陳列してあるから、内容がすぐ判って大変便利でしかもうまかった。 私はこの旅行に醤油を持参したのだが、料理がうまくて醤油を使う必要がなかった国はトルコとイタリアだった。
  コーヒーもトルコが仲立ちした作物である。 今では熱帯ではどこでも栽培しているが、コーヒーの原産地はエチオピアで、それが北上し、十三世紀にはトルコでコーヒーを飲んでいた。 これがヨーロッパに伝わったのである。 - 61-62ページ

トルコ料理は世界三大料理の一つだと言われてもピンと来なかったのですが、こうして説明されているとなるほどと納得がいきます。 トルコが豊かな場所であることもわかります。


オーストラリアのアボリジニが農業をやらなかったのは、そうするよりも野焼きをしてその後に生えてくる新芽を食べることで増える動物を狩る方が農業をやるよりも効率的であると考えたからだ。 この方式をオーストラリア国立大学のライス・ジョーンズは「火棒農業」と呼んでいる。 それを知らなかった十九世紀の白人社会はヨーロッパ式農業を持ち込み、砂漠を拡大させ、アボリジニの子どもを親から引き離して育てると言う愚行を演じた。 - 181ページ

アボリジナル』にもありましたが、アボリジニは頻繁に火を放っていたようです。焼畑農業とは違って、重労働も必要とせず、食糧を増産できる点が面白いと思います。 白人が子どもを奪うのは、ずっと繰り返されていることで、めずらしいことではありません。 親による教育の機会を奪うという意味では、義務教育を課されている文明社会において、区別はないものと思われます。


持続する農業の道
  佐藤洋一郎教授は、総合地球環境学研究所で「農業が環境を破壊するとき――ユーラシア農耕史と環境」(http://www.chikyu.ac.jp/sato-project/new-group.html)というテーマで研究を進めている。
  工業に比べて農業は環境破壊の少ないものだと考えられることが多いが、農業の開始は、地球環境問題の始まりでもあった。 狩猟採集生活は地球の環境になんら変更を加えない生活だったが、農業は樹木を切って耕地を作り、灌漑するなど土地の利用の仕方を変更して生態系に影響するだけでなく、植物を自分の望む種や品種だけにし、多様性を制限することにもなった。 それが成功すると、農業は各地に伝播し、狩猟採集民や野生動物の生息域を奪っていった。
  そうした意味で、「農業が地球環境問題を生み出した」し、「農業は人類の原罪」なのだ。
  新石器時代から土器の時代に変わる今から九千年前のレヴァント地方で、もうその傾向がはっきりしている。 遺跡が半分の規模になったり、放棄されたりしているのだ。 森林伐採による環境悪化、連作障害などの理由だろう。 この結果、牧畜民になった人びともいたし、新しい農耕地を求めて故郷を離れる人びともいた。 これが農耕が拡大した一つの理由でもある。 - 249-250ページ

「この世に神は存在していないが、生命の法則は、他の生命を自由に扱おうとする栽培や牧畜を許してはいないのではないか」、私はそのように受けとめています。 特に、陰謀論を契機に、富の蓄積や資源の独占が文明を生み、文明を維持する限り、独占者たちの思いのままにならざるを得ないと考えるようになった私の眼には、水産資源の利用さえ制限した狩猟採集生活以外に人類が幸福に生きることのできる状態はないのではないかと思えます。 寄生虫や病原菌、乳幼児死亡率の高さなどは避けたいと考えるかもしれませんが、そのような運命を受け入れたとき、主体的な生き方ができると思えるようになりました(『覚醒する心体』)。 狩猟採集にしても、大型獣を絶滅させたり、種を排泄したりすることが環境を変えていっていく結果になりますが、環境を維持しなければ暮せなくなるという点で大規模な破壊は免れると考えられます。 いずれにしても、「持続する農業」という考えは捨てて、私たち人類が生まれた森で暮らす生物に戻る道を探ったほうがよいのではないかと私は考えています。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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