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「アボリジナル オーストラリアに生きた先住民族の知恵」
ジェフリー・ブレイニー(サイマル出版社 1984年12月)

→目次など

■さまざまな研究をとりまとめた一冊■

白人の入植後、多数のアボリジニ(この本では「アボリジナル」)が殺され、生き残りの人々にも同化政策がとられたのだから、当然、昔ながらの生活をしているアボリジニと生活をともにすることはできません。
だからピダハンのように、その世界観を丸ごと知ることはできません。
この本は、過去の研究から、さまざまな領域でアボリジニの実態に迫ろうとした本でした。

過去の研究で、アボリジニの世界観が調べられていないため、アボリジニの行動の背後にある考えをこの本から知ることはできません。

この本で知った最も重要なことは、狩猟採集社会のほうが飢饉に対応できるという解釈でした。
狩猟採集生活では、移動のために、赤ん坊や老人が犠牲とされるという短所がある一方で、農耕の開始以降よりも豊かな食生活をしていたという見方は、新しい視点を与えてくれました。

新生児と老人の死という犠牲があるとはいえ、死んだ後も精霊として身近な場所にとどまるという世界観(現実)を持っていたならば、死をそれほど特別視する必要がなくなるのかもしれません。
生まれた子をそのまま精霊として返してしまうことのあるヤノマミ族など、人間は人口の増加を防ぐために、罪悪感なく子を間引くことのできる世界観を作ってきたのかもしれません。

アボリジニについてもう一つなるほどと思う点は、過酷な環境に合わせた肉体の変化です。「水木しげるの大冒険〈2〉精霊の楽園オーストラリア(アボリジニ)」でも感じましたが、人間の体は、環境によって異なっていくことが当然であって、今のように世界中どこでも冷暖房を付けて同じように暮らそうというのは、不自然な状態なのではないかと感じます。

特に面白いなと思った部分

太古のオーストラリアは社会習慣も言語も多様性をきわめていたから、この大陸をひとまとめにとり扱うことは相当強引なやり方になる。一千年前、あるいは一万年前でも同じことだが、この大陸の砂漠アボリジニと、比較的大きな川の岸辺に住むアボリジニの経済生活を比較してみると、今日のオーストラリアと中国以上にその差が大きかったことだろう。
そのうえ、オーストラリアは何百というミニ共和国に分かれ、それぞれにおれたちの文化と血筋は他にふたつとないものだという自覚を持っていた。古代オーストラリアをひとつの国として見ることは、部族同士の戦いにあけくれていたアボリジナルの視点というより、外来者である私たちヨーロッパ人の視点なのだ。 -まえがき4ページ


何回も注意深く数えたところ、この大陸で話されていた言語は実に三百を越えていた。 -35ページ


黒人の連中はついうっかりと、あるいは狩のために故意に、草や木によく火をつける。食糧を主に野生の根菜や動物にたよって暮らしているわけだから、彼らは野焼きをして土を肥やし、牧草を育てているのだ。 -88ページ

「黒人」というのはもちろんアボリジニのことです。


たいていのアボリジナルの女性はお産が軽い。グループと一緒に次のキャンプ地めざして一日中歩き続けているうちに陣痛の始まることもある。

いよいよ産まれる段になると、妊婦は三々五々、歩いているグループからすばやく抜け出し、ブッシュや木の陰にしゃがみこみ、あっという間に生み落とすのだ。 -110ページ


不具の子供が生まれたら殺すのがしきたりだった。不具の子供は狩猟の民の足かせになるからだ。ふた子が生まれると、そのうちいのひとりが生まれてすぐに殺された。 -112ページ


望まれずに生まれてきた子供はさまざまな方法で処分された。 -112ページ


アボリジナルは子供に対して冷淡だと思われがちだが、実際はたいへんやさしい。アボリジナルの部族生活を観察した人はたいてい、彼らが子供たちにやさしいばかりか、実に甘いと書いている。子供たちはめったに叱られないし、お仕置きもされない。 -114〜115ページ

江戸時代の日本に似ています。


年を取って歩けなくなった老婆を仲間が手をかけて殺したというできごとがあったのは、一八四〇年代、ビクトリア州のグールバーン川下流の地域だった。 -116ページ

この出来事は、かつての文化をかいまみせるものであっただろうと著者は推測しています。


したがって先ほど慎重に見積もった戦死者をこの人口に割り当てると、この地域での一年間の戦死者は二七〇人にひとりという結論になる。 -124ページ

一八〇〇年代前半の様子です。西洋人の入植の影響があったのかもしれませんが、このころアボリジニは戦いに明け暮れていたようです。


人食いの習慣は殺人を犯す動機になるより、死んだ人を葬る儀式として行われるほうがふつうだった。とはいえ場合によっては、肉を食べるために人を殺すことがあった。 -128ページ


そもそも最初の移住者たちから狩猟と食糧あさりの日々を送る民族だったのだから、女たちは赤ん坊を何人も堕胎や間引きによって殺さざるをえなかったはずだ。 -132ページ


それにしても遠い先祖に全幅の信頼をおくことはアボリジナルの文化の真髄といっていい。食糧がもっととれるような工夫をあみだしたからといって仲間の業績をほめたたえることもなく、効率のよいやなを作った者、石斧のとぎ方を工夫した者、エミューやウォンバットに忍び寄ってとらえることを考えた者たちの手柄を長く後世に伝える気はなかったのだろう。 -134ページ

ピダハンとの共通性を感じます。


アボリジナルの武器は貧弱なものではあったが、それを使いこなす勘のさえと動植物に関する知識は、その弱点を補ってあまりあった。 -147ページ

鳥の鳴き真似のうまさ、エミューの習性を利用した狩りの仕方などが記述されています。


少なくともオーストラリアの熱帯地方では植物性の食物を主体にしていたことが、最近の調査で明らかになった。 -174ページ

西洋の研究者たちの先入観と異なり、アボリジニの食事における野菜・果実の割合は高かった。


食用植物の採集は女の仕事だったから、オーストラリアでは一家の稼ぎ手は男ではなく女だったといえる。だが女たちが食糧集めや料理のしたくに一日じゅう追い回されていたとは考えられない。一日の労働時間が八時間以上になることなどめったになく、しかも植物の豊富な季節なら、せいぜい二、三時間、もしくは四時間働けば暮らせたのではあるまいか。 -181ページ


女たちを観察していたマッカーサー女史は、彼女たちが仕事をいやがっているようには見えないといっている。あちこち歩き回って、土を掘り、食糧を運ぶということを「単調な辛い仕事」だとは思っていないようすなのだ。そのうえ彼女たちは、自分たちの集めた根菜や果物の味が最高だと思っている。そして男たちも同じように、自分たちの仕留めた肉や魚がいちばんだと思っているのだ。 -186ページ

1948年の調査。採集と狩猟には、このような効果もある。


L・J・ウェッブ博士が最近調査したところでは、アボリジナルの医術はよく効くものがたくさんあるということだ。 -192ページ

余談だが、国家ができると、効果が認められた薬草などは医薬品として取り上げられてしまい、素人が扱えなくなってしまう。


どうやらアボリジナルは体温調整機能が発達していて、寒さに強く、体温を保つにもヨーロッパ人より少ない食糧で足りたようだ。 -214ページ

人間も動物であり、体を変えながら環境に適応していく。これも1つのエコではないか。


集団の一人ひとりにも、また集団そのものにもトーテムにあたる生物(オオカンガルーとかある種の鳥、または植物)があり、宗教的儀式を行なうことによってその生物が栄えると信じられていたのだ。土地そのものが彼らの礼拝堂であり、丘やクリークは霊の宿るところだった。また神の聖宝がけものであり、植物であり、鳥であった。 -226ページ


ヨーロッパ人が初めてオーストラリアにやってきたころ、だいたいどこに住んでいるアボリジナルもきわめて豊かな暮らしをしていたらしい。ところが豊かさについての私たちの認識は狭く、ゆがんでいるので、彼らの暮らしの豊かさを理解することはなかなかむずかしい。 -242ページ


食糧が逼迫してくれば、キャンプを早く移せばいいだけのことだ。そこがまさに狩猟採集暮らしの強みといえる。つまり、今いる土地で食べ物があまりとれなくなっても、新しい土地にキャンプを移せば食糧不足は簡単に解決するのだ。 -251ページ

1841年の記述です。


アボリジナルの生活水準がいくら高いといっても、今日のストックホルム、ハンブルク、シドニーの生活水準とは比べものにならない。だが一八〇〇年当時は、ヨーロッパの多くの地域に比べ、アボリジナルはずっと物にめぐまれた暮らしをしていた。 -252ページ

アボリジニに限らず、生活水準の劣悪な場所に暮らし続けたいという民族はいないのかもしれません。また暮らし続けることもできないのかもしれません。


ヨーロッパ人が思いこんでいたもうひとつの強みとは、機械化はまだ進んでいないが、農耕社会(一八〇〇年当時、人口の圧倒的多数が農民だった)は飢饉を克服したという点だった。食糧を蓄えることをしない狩猟採集社会とはちがい、農耕社会は穀物倉も家畜もある。家畜とはもちろん食糧の蓄えの一種だ。しかしこれまで調べてきたところでは、狩猟採集社会のほうがずっと簡単に飢饉に対処できることは明らかだ。 -254ページ

これは非常に重要な点だと思います。農耕は、環境の変化に応じて、食糧を増産するために開始されたはずであり、食糧を増産できるようになったがかえって飢饉に対処できなくなったという矛盾があるということなのでしょう。


アボリジナル・グループのほとんどが、介助を必要とする仲間を看護できなかったことは、彼らの豊かな暮らしの欠陥のひとつといってよかろう。だがその比較的高い死亡率は、おそらく彼らの豊かな暮らしを守るために不可欠だったのだ。 -256ページ






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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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