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「グアヤキ年代記―遊動狩人アチェの世界 (インディアス群書)」ピエール クラストル (著), Pierre Clastres (原著), 毬藻 充 (翻訳)(現代企画室 2007年1月)

→目次など

■権力を知りつくした「未開」社会を明らかにし、やがて「国家に抗する社会」論へ飛躍したピエール・クラストルの初仕事■

別の関心から本を探していたのですが、たまたま見つかった本は、先日読んだ『ゾミア―脱国家の世界史』と同テーマを扱っていました。 むしろ、本書の著者、ピエール・クラストルは、すでに1960年代からこのテーマを追い続けようとしていた人類学者であると言えるかもしれません。 彼は、43歳の若さで不慮の死を遂げてしまいました。

狩猟採集社会に共通する特徴の一つとして平等主義があります。 このことは、さまざまな文献で指摘されていますが、それは単なる特徴とされているだけで、『ゾミア』のように、あえて脱国家へと向かう意図を指摘することはまれです。

しかし、考えて見ればすぐわかることですが、人は数人集まれば、すぐにでも小さな権力が生まれてしまうような存在です。 チンパンジーの群れにはボスがおり、ホームレス社会にもボスが生まれます。 狩猟採集生活における平等社会は、実は、自然発生的な状況なのではなく、人々が知恵を絞った結果であることが推測されます。

ここで「未開」と考えてきた社会に対して抱くイメージは逆転します。 つまり、「未開」社会こそが成熟した秩序ある社会であり、文明社会は誘惑に負けて秩序が崩壊してしまった社会なのではないかという議論が生まれてくるのです。

本書は、状況説明の不足も手伝って理解しにくい構成になっています。 内容も、食人、殺害、痛みを伴う成人儀礼など、決して愉快とは言えない内容が多く含まれています。 しかし、医療の発展、人権意識、物質的豊かさなどを打ち出した文明社会が、実はそれゆえに多くの問題を生みだしており、 しかも、解決策を全く示せていないことに気付いたとき、本書のような本はきっと役に立つことでしょう。
「未開」社会に見られる野蛮と思える行為や迷信と思われる世界観は、私たち人類が生き残るために生み出した高度な現実対応策であるのかもしれないのです。

内容の紹介


動物に対して敬意を示すいくつかの礼節がある。動物を殺すときには敬意を表さなければならない。 狩人は獲物を肩に担いで宿営地に着く。 肩には高貴な血の染みがついている。 彼はそれを降ろし、動物を讃えて歌う。 このように動物は単なる平凡な食料ではない。 そのような扱いを受ければ、これと同種の動物たちが怒ってしまい、たぶんもう矢で射止めることはできないだろう。 狩りをするというのは、単に動物を殺すということではない。 それは動物に対して負債を負うということである。 この負債から解き放たれるためには、殺した動物を言葉のなかで再び存在させる以外にない。 殺させてくれたことを彼らに感謝するのである。 だがその日常の名前は使わない。 こうしてブレヴィ[バク]はモランギと呼ばれるだろう。 カンデ[小さなアメリカ猪]はバルギという名前を授かるだろう。 動物たちには策を弄する必要がある。 誰か他のものについて話しているふりをしなければならない。 このように獲物を騙すことで人間の攻撃を無に帰し、死に至らせた行為をなくしてしまうのだ。 狩人の歌は人間と動物の秘密の合意を確固たるものにする。 このことはまたキュブチュ*に教えられる。 過度の狩猟を避けて森で生きること、いつまでも気前の良い世界を失わずにいるために、唯一不可分である世界を尊重すること。 - 157-158ページ

*キュブチュ:七歳から十二歳(または十五歳)の子ども


アチェたちは性的なものをその正当な価値に即して評価していた。 それは自由に引き受けられるものであり、控え目さのなかで、男性と女性に快楽への道を開くものである。 なぜこの良いものなしで済ませるべきだろうか。 だが放埓は可意味であり、集団の掟の代わりに自分の欲望の規則をすりかえるような者は誰もいない。 常に勝利を収めるのは集団の掟である。 なぜならそれは決して侵犯されないからである。 十分に寛大である社会、だがそのために無秩序に陥らないでいられる社会、グアヤキ・インディオの共同体はそのような社会である。 彼らは未開人(ソバージュ)である。 - 219ページ


その後何度かパラグアイに滞在することがあったが、私は二度とグアヤキ・インディオに再開することはなかった。 ぜひそうしたいとは私は思わなかった。 じっさい私は何を発見していただろうか。 私がアロヨ・モロティ*に着いたとき、彼らは一〇〇人ほどであった。 一年後に彼らと別れたが、そのときもはや七五人しかいなかった。 他の者たちは結核に蝕まれ、治療も施されずに、あわゆるものがないままに、病気で死んでいた。 それで生き残った者たいはどうだったろうか。 彼らは自分たちの前史と決別しなければならなかったことに絶望し、ぼろぼろになっていた。 彼らは、自分たちを滅ぼすためにだけ自分たちに関わってくる歴史のなかに投げ込まれていた。 実はこの歴史で問題になっているのは取るに足らないことである。 最後のインディオ諸部族の消滅に関する丹頂な調査――少しずつ詳細になってくる日付、場所、数字――を記したページがあと一ページ書き加えられたにすぎない。 現在あの勇猛なアチェの猟人たちはどうしているのか。 一九六八年に得られた最新の消息によれば、生き残っているのは三〇人もいなかった。 もっとも彼らが、その他のインディオが、いずれにせよ死の宣告を受けているのだとすれば、数の多い少ないはたいしたことではない。 一五世紀末に始まった事業は、いまやその終局に近づいている。 大陸全体から最初の住人たちが追放され、まもなくこの<世界>は正当な資格で<新世界>と呼ばれるだろう。 「真珠と胡椒の交渉のために、これほど多くの都市が破壊され、これほど多くの国が絶滅され、数百万以上の人々が剣で惨殺され、世界でもっとも豊かで美しい地方が転覆されたのである! 機械による勝利」
  モンテーニュは西洋文明がアメリカで勝利した報せをこのように受け止めていた。
  ではアチェたちはどうなのか。 自分たちの自由を喪失することによって、自分たちが生き残ることが禁じられると彼らは思っていなかったのか。 確かに彼らは観念し、自分たちの運命を消極的に受け入れたのである。 まれにある男が怒りを爆発させて、白人たちを矢で射殺したいと叫ぶこともあったが、それ以上には展開しなかった。 反乱を起こしたとしても、いったいどうなったというのだろう。 彼らはベエルの数が急激に増えていることを知っていたし、彼らがベエルを殺しても、その代わりにすぐさま別のベエルがやってくるだろうことも知っていた。 彼らに選択の余地はなかった。 そこまででやめておくべきだった。 彼らはこのことを、すなわち魂においては死んでしまっていることを理解していたのである。 - 369-370ページ

**アロヨ・モロティ:ベエル(白人)たちに追われて逃げ場をなくしていくグアヤキ(アチェ)を安価な労働力として利用するためと先住民保護によって政府から給付される財貨を目的に、アチェに庇護と援助を与えた農民の場所の名(70ページ)。


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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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