『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第二十九話



「ねぇ、みゆちゃん、元気出してよ」
「そうそう、私たちが落ち込んでても仕方ないでしょう? きっと、記憶が戻ったんだって」
「うん、きっとそうだよ。きっと熱が下がったときに記憶が戻って、そのまま家に帰っちゃったんだよ」
「記憶喪失って、元に戻ると記憶が無かった時の事を忘れちゃうって言うから、それで何も言わずに帰っちゃったんじゃないの?」
「うん、そうかも知れないね。こゆきちゃんがみゆちゃんに何も言わないで居なくなる事なんか無いと思うから、たぶん、私たちのこと忘れちゃったんだよ」
「ん、でも、ほら、こゆきちゃんが憶えて無くたって、私たちはちゃんと憶えているんだから、いつかまた、何処かで会えるって。ねぇ?」

 二人の言葉は、まるで遠い世界で響いているかの様に聞こえる。
まるで、そう、私と二人の間が、大きなガラスで区切られてしまっているような違和感。
二人が、遠い。

 私は、深く溜息を吐いた。
「もう、いいです」


 小雪。
私の可愛い小雪。
私のために死んでしまった。

 結局、私は何も出来なかった。
どうする事も出来ず、ただ、泣いていただけだった。
最後の最後まで、何もしてあげられなかった。
そんな私に、小雪は思いを寄せてくれていた。
私のために、微笑んでくれたんだ……。

 その事が、私を責め続ける。
何も、してあげられなかった。

 ずきずきと、心が痛む。
その痛みをずっと抱えて行くように。
私はカッターナイフをとりだし、そっと首の後ろに回した。
この痛みを、決して忘れないように。
小雪と過ごした7年間、伸ばし続けていた髪を、切って捨てた。

 少しだけ頭が軽くなって、そして……。
ただ、悲しかった。


 あの日。
小雪が消えた日。

 気が付くと、辺りはもう真っ暗で、麓の街明かりがちらちらと揺れて見えた。
キツネ達の姿は既に無く、望美ちゃんは竜弥さんの腕の中で眠っていた。
「美汐さん……」
「アスハさん」
「…はい」
「ありがとうございました。最後に、小雪に会わせてくれて」
 でも私は、この事をずっと後悔し続ける。
「………」
「それと、ごめんなさい。私は……」
 私は、みんなに託された”最後の希望”を失ってしまった。
「どうか、自分を責めないで下さい」
 たぶん、それは無理だと思う。
「私は……」
「家まで、お送りします」

 私たちは、歩いて丘を降りた。
しかし、どこをどう歩いたのかは思い出せない。
気付くと、家の前だった。
「アスハさん、…竜弥さん」
「いずれ、また会うことがあるでしょう。その時まで、お別れです」
「はい」
「……美汐さん」
「はい」
「ありがとうございました」


 どうして……。
どうしてお礼など言ったのだろうか?
私の行いに、何の価値があったというのだろうか。
私さえ居なければ、小雪が死ぬこともなかったのに。
 そう、初めから、私さえ居なかったら。
あの時、私が小雪を拾わなかったら。
小雪のお母さんを病院に連れて行ったりしなかったら。
もしかすると、小雪が”丘”まで戻って、助けを求めることが出来たかも知れない。
”丘”のキツネが気付いて、助けに来たかも知れない。
そうすれば、小雪のお母さんも助かっただろう。
 それは可能性。
そうなったとは限らない、でもそうなったのかも知れない。
私さえ居なければ、全ては上手く行っていたのかも知れない。

私さえ居なければ。

 私に一体、どれほどの価値があるというなのだろうか。
小雪が、命を懸けて助けるほどの?
そんな事、ある筈がない。
小雪は、願えば何百年も生き続けられるのに、まだほんの数年しか生きていなかった。
私の残された数十年の人生が、小雪の命に勝るはずなど有り得ない。
私なんて、今までずっと誰かに甘えて、ただ意味もなく生き続けていただけで、これからも、……何が出来るというのだろうか。

 私に一体、何が出来るというのだろうか。
小雪の命を犠牲にした私に、それに見合う価値があるというのだろうか。

 問い掛けたとしても、答えなど有りはしない。

いつの間にか、私は公立の入試に落ちていた。

 春。
出会いと別れの季節。
 しかし、もう何も変わることはなかった。
新しい学校。
朝香が着てみたいと言っていた制服。
新しいクラス。
見ず知らずの人たち、意味もないざわめき。
 全てが、どうでも良かった。

 この頃、朝香から何度か電話があった。
何を話したのかよく憶えていない。
いや、私は何も話していない、ただ、受話器の向こうで、朝香の声が響いていただけだった。

 夏。
さわやかな風の吹き抜ける、静かな季節。
 毎年のように続いていたドライブも今年は無く、出かけたと言えば、お墓参りくらいだった。
ただ、宿題をして、本を読む、それだけの日々。
朝香からの電話も、ぴたりと来なくなった。
きっと、新しい友達が出来たのだろう、それでいい。

 ヒグラシが鳴く頃、お父さんが大きな西瓜を貰ってきた。
四分の三をご近所に配って、残りを3人で分けて食べた、それでも、かなり大きかった。
そう言えば、いつだったか、小雪が西瓜を食べていたことがある。
 あれは、夏のドライブで、何処かの川に行ったときだっただろうか。
三日月型に切った西瓜に、顔を押し込むようにして食べる姿が可愛かった。
その後、小雪がお腹を壊して大変だった事を思い出す。
あの時は、大騒ぎをしてしまったと、一人で笑って、……そして、泣いた。

 秋。
街が紅く染まる、小雪の好きだった季節。
 そう、小雪はこの季節が一番好きだった。
学校から帰ってくると、いつも何処かへ連れて行けとせがんでくる。
私は仕方がないなと笑って、鞄を置くとすぐに出かけたものだった。
でも、秋の日は沈むのが早く、あまり遠くまで行くことが出来なかった。
 丘の多いこの街で、いろいろな場所で、小雪と沈んでいく夕日を眺めて見た。

 今、暮れゆく空を一人きりで眺める。
一年という時間は本当に長い。
小雪と過ごした日々は、もう遠い昔の事のように思えた。
 もう、涙は出なかった。

 そして再び、雪が舞い始めた。

 いつの間にか、玄関に掛けてあった小雪の鎖が消えていた。
私の部屋に置いてあった、小雪のベットも無くなっていた。
 思い立って、一階の小雪の部屋へ入ってみる。
もうすっかり、小雪が使う以前の状態に戻っていた。
押入を開けると、例の箱がたくさん出てくる。千代紙、お手玉、綾取りの紐……。
それ以外に、新しい箱があるのが目に付いた。
そっと取り出し、開けてみる。
その中には、小雪と一緒に折った、折り紙が納められていた。
懐かしくて、悲しい。”思い出”がここに詰まっていた。
今やっと、お母さんがこの部屋を、このたくさんの小箱を大切にしている、その本当の気持ちを理解できたような気がする。
 ……ちりん。
その箱の角で、少し大きな鈴が音を立てる。
これは、お正月に受けてきた、”運が良くなるお守り”?
結局、一度も身につけられる事無く、こんな所に入れられてしまっていたらしい。
私はそれを取りだし、折り紙は丁寧に箱に戻す。
 ちりん…。
小さな音。
まるで、小雪が泣いているような気がした。

 あれから、一年が経った。
あの時切った髪は、もう肩に掛かるくらいまで伸びていた。
この一年、私は一体何をしてきただろう。
振り返るまでもない、何もしていないのだから。

 私に一体何の価値があるというのだろうか?
私は、一体なんだというのだろうか。
小雪の命を犠牲にして、生きながらえて、そして、…ただ、それだけ。
無意味に時間を過ごし、ただ、生きているだけ。
私は結局、何もしていないし、何も出来ないで居る。
こんな私の為に、小雪は死んだんだ。
『ありがとうございました』
 アスハさんの最後の言葉が甦る。
お礼を言われることなど、何もしていない、……何も出来なかった。
『君も取り返しのつかない事をしたのかも知れない』
 そうだと思う、私は、罪を犯したんだ。
そして、まだそれを償う方法すら解らないで居る……。

 ごう、と強い風が吹き抜ける、雪の積もった校庭を、何気なく見下ろしたときに、ふと”それ”が視界の端に引っかかった。
……なに?
一瞬、自分が何を見たのか解らなかった。
でも確かに、私はそこに、校門の所に何かを見た。
立ち止まり、目を凝らす。
 ………女の子?
そう、そこには、一人の女の子が、校門にもたれ掛かるようにして立っていた。
長い、少し色の薄い髪に、紅いリボンが2つ、強い風に吹かれて揺れている。
誰かを捜してるのだろうか、ちらちらと通りかかる生徒の顔を覗き込んでいた。
 ……なにか…違和感?
私はその子を知らない。
でも、この感じ、……それは、既視感にも似た……。
心の奥底の、深い、深い所に触れてくるような。
確かな”悲しみ”を伴う、不思議な、懐かしさ。
 私には、その子が”何”であるかが解った。
それは直感でしかない。でも間違いない。
 あの子は……。
「ったく、寒いだろうに…」
 突然、私の横で誰かが苦笑するように呟いた。
そちらへ振り返る。
一人の男子生徒が、私と同じ、校門の所を眺めていた。
その人と、目が…あった。
「あなたの…お知り合い…でしょうか?」

 それは、一つの始まり。
終わった筈の物語の始まり。

 そして私は後悔する。
「ああ。いい子だよ。不器用だけどな」
 優しく微笑むその人を見て、確信した。
あの子が待っているは、この人だ。
この人に、”温もり”を求めたんだ。
 きりきりと、心が軋む。
『不器用な子』、あの子は、まだ幼い子供。
それが意味すること……。
そして、この人は、何も知らない。あの時の私のように。
 息が…苦しかった。
忘れていた悲しみが、忘れたと思い込みたかった、決して忘れることの出来ない思いが、胸を締め付ける。

 私は後悔した。
見なければ良かった。
聞かなければ良かった。
それなのに……。

 翌日、昼休みの廊下で、再びその人と出会った。

 ほんの少し話をしただけの私に、片手を上げて親しげに言葉を掛けてくれる。
少し悪戯っぽい、印象的な笑顔。
確かな”温もり”を感じさせる……。
”キツネ”が温もりを求めし人。
私も、ほんの少し、その人に触れてみたかった。
 愚かなこと。
それが何をもたらすのか、私が一番知っているはずだったのに。
答えは、最悪だった。
 優しい人。
相沢さんと名乗ったその人は、あの子の為に何かをしてやろうと、心を尽くしているのだろう。
あの子の為に……。
「私に、あの子の友達になれと言うのですか」
 そんな、酷なことは無いだろう。
相沢さんは知らない、あの子がすぐに居なくなるという事を。
だから、こんなにも一生懸命になれる。
でもそれが、どんな結果をもたらすのか解っていない。
あの子の為に何かをしても、全ては無駄だと言うことを、知らないんだ。
親しくすればするほど、思いを寄せれば寄せるだけ、辛い思いをする事を……。

 もう、関わるべきでは無い。
気に掛けても仕方がないのだから。
あの子は助からない。
せめて、それを伝えようと思った。
あの時の私のように、後悔をしないように。
しかし、相沢さんはそれを制した。
知っているのだろうか? 気付いたのだろうか?
それ以上、何も訊かれなかった。

 次の日、すれ違ったときも、挨拶すら交わさない。
元通り、知らない他人に戻った。
そう、私の周りには何も起こらなかった。
それで、よかった……。

 ほんとうに?

きりきりと、心が痛み続ける。

 更に一日。
再び私は相沢さんに呼び出され、中庭に立った。
それは、一昨日留めたままにしてしまった、話の続き。
相沢さんの言葉は、私の思っていた通りだった。
そして私の言葉は、相沢さんの予感の通りだったのでは無いだろうか?
私は知っていることを告げた。
そして、決別を。
 もう、話をする必要はない。
関わるだけ無駄だから、悲しい思いをするだけだから。
あとは、相沢さんとあの子の問題だから。
忘れよう。
忘れてしまえば、良い。
初めから、出会わなかったと思えば良いんだ……。
相沢さんにも、あの子にも、出会わなければ、こんな思いをする事もなかった。
 そう、初めから。

……もし、初めから、小雪が居なかったら?

 どくんっと、心臓が跳ねる。
もしも、小雪と出会わなければ、こんな思いをする事もなかった?
小雪さえ居なければ、私が苦しむ事はなかった?
……そんな事。
どうして、そんな風に考えられるのか?
 頭が痛くなる。
何も考えたくない。
私と小雪が出会わなければ……。
小雪は私の所為で死んだ。
なら、私たちは出会わなければ幸せだった?
私たち出会いは、不幸だと?
 ……違う、そうじゃない。
何が違う?
何かが違う。
私は小雪と出会って、不幸になったのだろうか?
小雪は私と出会って、不幸だったのだろうか?
本当に、出会わなければ良かったのか?
 違う。
小雪との出会い。
小雪と過ごした日々。
それは全て、私にとって掛け替えの無いもの。
今、確かに思う。私は幸せだった。
だから…、だからこそ、こんなに悲しい。
小雪が私にとって大切な存在だったからこそ。
 なのに、出会わなければ良かったの?
今のこの苦しみは……これは、私の所為なのに?
 解らない。
なにが?
小雪は、幸せだったのか?
小雪は、ずっと私を求めてくれていた。
小雪は最後に、私に微笑みかけてくれた。

 私はずっと、何を考えていたのか?
小雪の死を誰かの所為にしたかった?
この苦しみを誰かの所為にしたかった?
それでどうする事も出来ないから、”出会わなければ良かった”と?
誰の所為にすることも出来ず、忘れることも出来ないから、否定してしまうのか。
大切だった思い出も、小雪の思いまで。
私は……、ずっとずっと、逃げ続けて、目を逸らして。
そんな風に一年。

 この一年、人を避けて、ただ失った物のことを考えて、それが自分に与えられた罰だとでも言うように、一人で居続けた。
でもそれは嘘。
今、気が付いた。
私はただ、全てから逃げていただけ。
友達を失い、ただ一人で居ることで『可哀想な自分』を作り上げて、それが罰であると思いたかっただけ。
それが、贖罪であると思い込みたかっただけなんだ。
全て自分に対する嘘。
言い逃れと現実逃避。
ただ単に、私は……罰を受けていると思い込みたかった。…私が嫌だったのは、そんな自分自身だったんだ。
現実を受け入れることの出来ない自分、どうしようも無い誤魔化しだけの私。
 私は、私の中に、”一番嫌いな私”を見付けた。

 もう疲れた。
自分の全てが嫌になった。

 ただ、胸が痛い。
吐き気がする。
頭が、がんがんする。
私の奥底にある暗い、暗い悲しみが……。
どうする事も出来ない、後悔が……。

 どうする事も、出来ない……。

 ごうっと、風が私の髪を巻き上げる。
いつの間にか、涙が溢れていた。
本当に久しぶりに、私は涙を流して泣いていた。


 あの人は、相沢さんは必至だった。
全てが無駄である事は、もう解っている筈なのに。
それなのに、なぜ?
……いや、本当は解ってる。
私も、どうする事も出来なくても、何かにすがろうと足掻いていた。
でも、私には二人を助けることが出来ない。
相沢さんが私を求めるのは、私がその事実を理解しているからだろう。
これ以上、私に何が出来るのか……。

 雪が、降っていた。
灰色に曇った空から、ゆらゆらと、ちらちらと、舞い降りる小さなかけら達。
それは一年前と変わらない風景。
いつも見慣れた景色。
でも、何故か、ひどく懐かしかった。

「ねぇ…小雪。私は……、どうしたら良いのですか?」
 小雪。
私の大切な小雪。
私の為に死んだ、私の所為で死んだ。
私に、何の価値があるのか?
私に何が出来るのか?
「小雪。私は、何も出来ないです」
 それでも、相沢さんとあの子の事が忘れられない。
あの子を助けたい。
何も出来はしないのに。

『……それでも、もう一度』

 もう一度……。
遠いあの日、私に小雪を託したいと言った、”長”の言葉。
『この子が、最後の希望になるのかも知れない』
 だからこそ私に。
でも私は、期待に応えられなかった。
最後の希望……。
もう一度……。
それでも、もう一度。
 私は……、私に、何が出来る?
何も出来ない。…でも、何か出来るかも知れない。
これ以上関われば、辛くなるだけ。
…違う、それも嘘。
私自身が、私に向けた嘘。
関わらなくたって、私は後悔する。
ただ、関わらない事で”私には何の責任も無いのだと”そう思い込みたいだけ。
そう、私はまだ、逃げようとしているだけなんだ。
もう、逃げない、逃げてはいけない。
何も出来ない? 何か出来るかも知れない。

『もう一度』

 あの時の”長”の気持ちが、深い悲しみが、今の私には、ほんの少しだけでも解る様な気がした。
試してみよう。
後悔する事になる。
それでも、もう一度。

 私は、相沢さんの電話番号を、職員室の名簿で調べて、一階の廊下まで降りた。
ぽつんと置かれた公衆電話。
もう…遅いかも知れない。
そんな考えが胸をよぎる。
それでも……。
 そっと受話器を取り上げる。
大きく息を吸って、硬貨を入れる。
メモを確かめながら、一つずつボタンを押していく。
 何を話せば良いのか、正直言って分からない。
色々な事が、頭の中を駆けめぐる……。
 最後のボタン。
少し間をおいて、コール音が鳴り出す。

 …小雪。
私に少しだけ、勇気と力を下さい。
 小雪。

「……はい。水瀬でございます」

  ……つづく。


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