『”ものみの丘”に吹くそよ風』
第二十八話
『小雪が死ぬ』
そんなことは、考えたことも無かった。
そんなことが起こるなんて、思っていなかった。
しかし、アスハさんは否定しなかった。
「どうして…なのですか? どうして、そんなこと……」
頭の中に、よく解らない音が鳴り響いていてうるさい。
考えがまとまらない。
何が言いたい? 何が訊きたい?
何を言わなくてはいけない……?
小雪を助けるためには……、
「小雪は…小雪を助ける方法は? 小雪はまだ死んでいません。なにか、助ける方法はないのですか?」
私の呼びかけに、しかしアスハさんの反応は冷たかった。
首を小さく横に振り、呟くように答える。
「もう、本当は、あの子の力は尽きてしまっているのです。ただ、あなたへの”思い”が強くて、辛うじてあの姿を留めているだけなのです。だからもう、いつ消えてしまっても、不思議ではありません」
「そんな……、それでは小雪は……」
「徐々に歩くことも困難になり、言葉も話せなくなります。そして、人の体が維持できなくなったとき、恐らく、消えて無くなってしまいます」
初詣のあの日、小雪が倒れた日。
もう全ては、終わってしまっていたのだろうか?
「キツネ達は、思いの力で奇跡を起こすのではなかったのですか? 夏に雪を降らすこともできるのでしょう? 他にも、不思議な事がたくさん出来るのに、どうして…、どうしてそんな簡単に、力が尽きるなんて……」
「”思い”は”力”を発現させる切欠でしかなく、”思い”だけで、全てが叶うわけではないのです」
「それでも……」
「無理なのです。どうしても、どれほど願っても、叶わないことがあるのです」
「そんなの…そんなの嫌ですっ」
「美汐さん……」
「どうして? アスハさんだってキツネなのでしょう? なのに、どうして小雪だけ……。そんなの、可哀想です」
「私は……、”力”を回復させることができますから。でも、あの子はその方法が解らないのです、それ以前に、”力”と言う概念その物を持っていないです」
「”力”を……回復させることは、出来ないのですか? アスハさんの持っている”力”を、小雪に分けることは?」
「……今のあの子は、氷でできた器のような物、非常に脆く不安定な存在なのです。他から力を加えれば、簡単に壊れてしまうくらいに」
「………」
違う。
そうじゃなくて。
ゴチャゴチャとした思考の中で、何かが鳴り響いている。
もっと他に、何かがあるはず。
何かが……。
「本当に、助からないのですか?」
「……はい」
「絶対に、ですか?」
「……あの子の力が完全に尽きたときなら、私が力を加えることもできるかも知れません」
「それなら…」
「でも、ダメなのです」
「どうしてですか!?」
「あの子にもう一度人の姿を与えるには、莫大な力が必要になります」
「はい…」
「あの子にもう一度、人の姿を与えるなら、恐らく私は、自分の存在を維持できなくなってしまいます」
「それでは、アスハさんが……?」
「ごめんなさい……。もし、昔の私でしたら、助けてあげる事ができるかも知れないのに…、ごめんなさい。今の私は、死ぬ訳にはいかないのです」
「………」
アスハさんには、一緒に生きるべき人がいる。
守らなくてはいけない子供がいる。
アスハさんを犠牲にすることなど、出来る筈がない。
「もし、私の命で助けられるなら」
「それは無理です。あなたは、ただの人なのですから」
意識が、大きくぐらついた。
「他に、方法は……」
「……ごめんなさい」
アスハさんは、ただ涙を流して、頭を下げた。
どれだけ時間が経ったのだろう?
ほんの一瞬だったのかも知れない。
ただ、私は呆然と、アスハさんと、その向こうに広がる”丘”を見ていた。
「行かなくては……」
そう、行かなくては。
「小雪が、私のことを思って姿を留めているなら、私が側に居なくては……」
今の小雪が、”思い”の力だけで留まっているなら、より強い”思い”があれば、少しでも長らえるはず。
「行かなくては、小雪の側に」
「美汐さん……」
「それしか、方法が無いのでしょう?」
「はい……」
「まだ、小雪は……」
小雪は死んでいない。
私は立ち上がり、きびすを返して駆け出した。
行かなくては、小雪の側に。
もしそれが、もう避けることの出来ないものなのだとしたら、私に出来ることは、少しでも小雪の側に居てあげることしかない。
涙が、溢れそうになった。
それでも、ただ走り続けた。
空はますます色を濃くし、風は轟々と吹き荒れていた。
息が苦しかった。
私は両膝に手をついて、激しく息を吐く。
そして、ごくりと唾を飲み込み、白い病院の壁を見上げた。
行かなくては。
もう一度息を吸い込み、再び歩き出す。
検査は午前中には終わると言っていた、しかし、まだ時間は早い。
案の定、病室には誰も居なかった。
恐らく、検査の途中なのだろう。探しに行った方が良いだろうか?
『いつ消えてしまっても、不思議ではない』
アスハさんの言葉が頭の中で繰り返される。
もう、余裕は無いはずだ。
探そう、そして少しでも側に居よう。
そして、小雪が望むことを叶え、小雪がずっと私を思ってくれるように。
そうすれば、きっと小雪は……。
「美汐?」
「え?」
突然掛けられた言葉に振り向くと、そこには智子が居た。
「智子……。どうしてここへ?」
「街で偶然、叔母さんに会ってね。小雪ちゃんがどうかしたんだって?」
「はい。また入院することになります」
「朝香にも連絡入れといたから、じきに来ると思うよ」
そう言いながら、空っぽの病室へ入る。
「智子。お願いしても良いですか?」
「ん? なに」
「小雪を探して欲しいんです」
「え? 小雪ちゃん? どこか行ったの?」
奥の窓辺に手を掛けて、智子が振り返った。
「どこかで検査を受けている筈なんですが」
「ふ…ん、急ぎの用?」
「……はい」
「なら、お医者さんに訊いた方が早いんじゃないの?」
「そうですね」
それもそうだろう。
慌てすぎて、私の頭は簡単なことを見落としていた。
「ちょっと行ってきます」
「あ…」
智子が何か言いかけていたような気がするけど、確認する余裕もなく、私は戸を閉めて駆け出していた。
あのお医者様は何処にいるだろうか。
エレベーターの前で立ち止まって、時計に目をやる。
この時間なら、もう外来の診察が始まっているはず。
どうするべきか? 流石に、小雪の居場所を聞くためだけに行くのは迷惑だろう。
それなら、……そう、今朝の看護婦さんなら解るかも知れない。
思い立って、このフロアにあるナースステーションを目指す。
そこはエレベーターホールのすぐ側にあった。
ガラス張りのその部屋を覗くと、今朝見かけた看護婦さんは居なかった。その代わり、以前、私の世話をして下さった方を見付ける。
あの人でも解るだろう。声を掛けようと、そっと窓口に近づく。
その時、手前で電話を取っていた看護婦さんが、受話器を降ろして声を上げた。
「森宮先生より連絡。313号室の”こゆき”さん、発熱だそうです。大野さん、第二外科へお願いします」
その言葉が、すごく長い一瞬の時間をかけて、ゆっくりと私の頭に入り込んでくる。
「はーい」
奥にいた看護婦さんが、返事をしてこちらへ向かってくるのが見える。
その途中で、先ほど電話を受けていた看護婦さんに声を掛けていた。
「記憶喪失の子ですよね、何かご病気ですか?」
「いえ、…こっちに記録は無いです。検査中だったようですけど?」
「解りました」
とドアを開いて出てきた、その人を捕まえて訊く。
「あの……」
「はい?」
「小雪は……」
……小雪は?
まだ少し固まっていた頭が、ゆっくりと、ゆっくりと再び動き出す。
ごくりと、唾を飲み込む。
「私は小雪ちゃんの知り合いです。会わせていただけませんか」
「えっと…?」
突然の私の申し入れに、その看護婦さんは瞬きをして、視線をナースステーションの方へ流す。
「あぁ、天野さんですね。お加減は如何ですか?」
中に居た、以前お世話になった看護婦さんが声をかけて下さった。
「はい。私は大丈夫です。それよりも、小雪は……」
「少し熱が出たそうですので、ちょっと点滴を打って様子を見るそうです」
先ほど電話を受けていた看護婦さんが、横から話に加わる。
そして、片手で先の看護婦さんに”行け”と指示を出す。
「あの、会わせていただけませんか?」
「今ですか?」
「はい」
応えて、二人の看護婦さんは顔を見合わせる。
「何か、急ぎの用事ですか?」
用事は……無い。
ただ、側に居なくてはいけない。
急な”発熱”が、小雪の存在が消え去る前兆だと、私には解る。
今すぐに側に行って、少しでも小雪の存在を繋ぎ止めないと、”思い”を深めないと、小雪が消えてしまう。
側に居なくてはいけない、それが”用事”。
「会いたいんです」
「もう少しお待ちいただけませんか? 点滴を打ち始めたら、少しくらいのお話は出来ると思いますから」
点滴を打って、それでどうなるというのだろう?
どんな薬や栄養剤を打ったところで、小雪の熱が下がる筈はない。
小雪の熱が下がるとき、それは……。
小雪が、消えてしまう。
私は、きびすを返して駆け出した。
第2外科…と言っただろうか?
このフロアではない。
エレベーターホールに掛けられた、案内板を素早く見る。
本棟の1階と2階に、同じ”第2外科”と書かれた場所がある。
1階の方が外来の診察室、なら、2階の方が入院患者の診療室だろう。
エレベーターを待つのももどかしい。私はそのまま階段を駆け下りる。
「美汐っ」
その時、上の方から、私を呼び止める声が聞こえた。
「智子?」
「どこ行くの?」
「第2外科の診療室です」
「そこにこゆきちゃんが居るの?」
「はい」
背中で答えながら、私は再び駆け下りる。
「あ、ちょっと……」
今は智子にかまっている余裕は無い。
急がないと、取り返しがつかなくなる。
いや、本当はもう、取り返しがつかない事をしてしまったのではないだろうか。
そう、最初から離れるべきでは無かったのかも知れない。
私は軽く頭を振るって、渡り廊下を駆けた。
その部屋の前には、何人かの人が集まっていた。
その中に、お母さんもいる。
「お母さん! 小雪は!?」
「美汐さん? そんな大きな声を出さなくても、聞こえてますよ」
どこか間の抜けたような、のんびりとした返事に少し苛つく。
「小雪は、中ですか?」
ドアは開いている。私はカーテンを押しのけて、中へ入ろうとした。
「あ、お待ち下さい」
突然、肩が掴まれる。
「なんですか?」
「今は治療中ですので、少しお待ち下さい」
「…会いたいんです。会わなくちゃいけないんです」
その言葉に、私の肩を掴んだ看護婦さんと、横にいた二人のお医者様が顔を見合わせる。
その中で、少し年をとった方がゆったりと話し始める。
「もうちょっとだけ、待って下さいね。こゆきちゃんは少し熱が出ましてね、今、薬を注射して様子を見ている所なんです。まだその熱が出た原因が解らないので、もう少し……」
私は、看護婦さんの手を振り払い、中に入った。
「小雪っ」
室内はカーテンで幾つかに区切られていた。
その内の一つ、奥の方の空間に、先ほどナースステーションで見かけた看護婦さんが、何かを運び込んでいた。
あそこだ。
「天野さん」
後ろからお医者様の声が聞こえた。
それを振り切るように駆け出す。
「失礼します」
声を掛けて、小雪が居るそこのカーテンを開く。
その場所にいた人たちの目線が、一斉に私に集まる。
「…小雪」
小雪は、体を丸めるようにして、荒く息を吐いていた。
「あなたは……」
「小雪」
前に立って問い掛けてくる看護婦さんを押しのけ、小雪の手を取った。
その手は、思っていたよりも冷たい。
「小雪。私はここにいます」
どうか、この”思い”が届きますように。
「小雪」
私の言葉に応えるように、小雪は、うっすらと目を開けた。
「……」
その口が、僅かに何かを伝えようとする。
しかし、
「天野さん。駄目ですよ」
不意に私の肩に掛けられた手が、大きく後ろへ引き離す。
「小雪っ」
「美汐さん。ご迷惑でしょう?」
「お母さん…」
先ほどのお医者様が、両側から私を押さえてカーテンの外へと連れ出す。
「待って下さい。お願いします、私は小雪の側に居なくては、…私が側に居なくては、小雪が……」
「落ち着いて下さい。あなたが側に居ても、なにも変わらないんですよ」
「まだ発熱の原因が解らないのです。急いで検査をして治療しないと、どうなるか解らないのですよ。だから、もう少し症状が落ち着いてから……」
「違うんです……」
「何ですか?」
「助からないんです、小雪は」
「なに?」
「助からないんです。もう、どうしようもないんです。だから、側に居なくては、私が側に居れば、少しでも……」
ぱんっと、私の頬が軽い音を立てて、小さく視界が揺れた。
「……お母さん」
振り下ろした手をそのままに、お母さんが真っ直ぐ私を見つめている。
「美汐さん。皆さん一生懸命に頑張って下さっているのに、なんて事を言うんですか」
「………」
「まだ何の病気かも解らないのに、なぜそんな事を言うんです。小雪ちゃんに聞かれたら、それこそ治る病気も治らなくなってしまうでしょう」
「そうですよ。病は気からと言いますでしょう、不安を煽るようなことは言わないで下さいよ」
違う。
みんな解っていない。
小雪は、病気なんかじゃない。
でも、それをどう説明すればいいのか、解らなかった。
どう伝えれば、信じてもらえるのか……。
「美汐」
廊下の向こうから、智子と朝香が歩いてきた。
「丁度良かったわ」
お母さんは小さく溜息を吐くと、二人に声を掛けた。
「この子が小雪ちゃんに会いたいと言いだして、でもまだ診療中で……」
先ほどのことを、掻い摘んで話す。
「では、病室の方で待っています。何かったら連絡を下さい」
「はい。解りました」
智子の申し出に、お母さんが頷く。
「みゆちゃん。行こ」
そして、朝香が私の手を引いた。
「智子。朝香」
「ん?」
「なに?」
「信じて…くれますか?」
「なに、改まって」
後ろ手にドアを閉めながら、智子が苦笑するように応える。
「小雪ちゃんのことです」
「あぁ。どうしたの? いきなり慌てて、何かあったの?」
「聞いて下さい」
「うん」
頷いて、智子が近くの椅子に座る。
朝香も椅子を引っ張ってきて、横に腰掛けた。
「小雪は、人間ではないのです」
「え?」
「小雪は、あのキツネの小雪が、人の姿に変わったものなんです」
私の言葉に智子と朝香は、それこそキツネに摘まれたような表情で、互いに顔を見合わせた。
「あの子は、私を助けるために人の姿になったんです。だけど、もうすぐその力が尽きてしまうんです」
「それで、死んでしまうって?」
「はい。消えて無くなってしまうんです。でも、でももっと強い”思い”があれば、少しでも長らえる筈なんです」
そう、もっと強い思いを。
それさえあれば、この発熱も乗り切れるかも知れない。
「智子。朝香。力を貸して下さい。私たちが側に居れば、小雪が私たちに”思い”を寄せてさえいれば、何とかなる筈なんです」
小雪が私たちのことを、認識さえしてくれれば良い。
三人で頼み込めば、何とか側に居させて貰えるかも知れない。
それしかもう、方法がない。
「そう……言われても、ねぇ…」
ぽりぽりと、智子が頭を掻いて朝香の方を見た。
「うん……」
朝香も、あからさまに困ったように、首を傾ける。
「信じて…くれないんですか?」
「ん…、いや、だって、いきなり言われても……」
「うん…、そうだよ…」
「どうして…?」
「だって……」
「そんなこと……」
「そんなこと、有り得ないよ」
二人の言葉が、頭の奥で、遠く反響していた。
そう、普通の人なら、そう考えるに違いない。
でも、この二人なら、私を信じてくれると、思っていた。
「こゆきちゃんはちゃんと人間だよ、だから大丈夫だよ」
「ねぇ美汐。ここはお医者様に任せて、ね。だいたい、こゆきちゃんがキツネだったとしても、何で死んじゃうって事になるのよ。きっと大丈夫だから、ね」
「そうだよ。お医者さんに任せて置いたら、ちゃんと助けてくれるから……」
「私たちは、ここで待っていよ。なにかあったら、叔母さんも知らせてくれるって言ってたから……」
「もう……いいです」
これで、…もう終わりなのだろうか?
私は、黙ってドアを開けた。
後ろで、誰かが何かを言っていたけれど、良く聞こえなかった。
頭が痛い。
真っ白な意識の中で、ただ『小雪が死ぬ』と言う認識だけが、明確に浮かび上がっていた。
どうすれば良い?
何が出来る?
小雪を助けるためには。
小雪を助けることが出来る人は……。
人、である必要はない。
いや、むしろ……。
ピンと、閃く物があった。
そうだ、”ものみの丘”だ。
アスハさんに無理だったことでも、”ものみの丘”の”長”なら、何とかして下さるかも知れない。
私は病院を出て、”丘”に向かって駆け出した。
ここから一番近い道は、荒川君が教えてくれた、商店街の突き当たりの登り口。
まだそこから登ったことは無いけれど、”丘”に続いているのは確かなはず。
隣町まで迂回する余裕はない。私は躊躇わず、そちらへ向かった。
荒く、息を吐く。
今日は走ってばかりだった。
既に足は重く、肺の奥の方がじんじんと痛む。
それでも、走らないと、もう時間が余り残されていないと、心の奥の私が、叫んでいた。
行こう。
きっと”丘”への登り口を睨んだ、その時。
『待ちなさい』
突然の”声”に、どきりと更に心臓が跳ねた。
この”声”は……、
「イガスリ…さん?」
記憶の底から浮き出たその名を、無意識に口にしていた。
『私を、憶えていてくれたのか』
「はい」
振り返って辺りを探す、しかし、イガスリさんは見あたらない。
”声”はこちらの方からのような気がするのだけれど……まさか。
『そう、今は仮の姿だ』
一匹の仔猫が、塀の上から飛び降りてきた。
「イガスリさん……」
『あぁ』
一瞬、呆然としてしまった。
人に姿を変えるのだから、猫に変わるぐらい大した事ではないのだろう。
それよりも……、
「イガスリさん、小雪を助けて下さい」
今は伝えなくてはいけないことがある。
いや、ここにこの姿で現れたのだから、既に知ってのことだろう。
「アスハさんには出来ないと言われました。でも、”丘の長”なら……」
『無理だ』
「え?」
『アスハが話した方法は、あの子の力が完全に費えてから、新たに体を作って”入れる”と言うものだっただろう?』
「はい」
『それが、誰かの命を懸けるほどの作業だと解っているか?』
「はい。でも、アスハさんには無理でも、もっと”力”のあるキツネになら…」
『無理なのだよ。例え”力”が強くとも、恒久的な体を他の存在に与えることは出来ない。もし”長”がその命を捨てて体を与えたとしても、恐らく、保って一年。その間に、あの子が自らの存在、”力”と言う物を認識できるようにならない限り、再び消滅は避けられない』
「それでは…」
『”力”の固まりである我々にとって、”人に成る”と言う行為は、今まであった器を捨て、自らを削って新しい器とする、非常に危険な行為なのだよ。アスハの言った通り、水を利用して氷の器を作るようなもの、”力”を回復できなければ、いずれ解けて無くなってしまう。これは、避けることの出来ない運命なのだよ』
「そんな……、では、もう……」
『どうしようも、無い。だから、”丘”には行かないでくれ。ただ、それだけを伝えに来た』
目の前が、真っ暗になったような気がする。
キツネの”力”を持ってしても、小雪は助けられない。
小雪は、消えてしまう。
どうして……。
どうしてこんな事になったんだろう。
そう、どうして、小雪が人になんか成ったりしたのか。
「全て、私の所為ですね」
『違う』
「私を助けようとして人に成ったから、小雪は死んでしまう。そうなんですね」
『違うのだよ』
「何が、違うと言うのですか?」
『全てあの子が望んだことなのだよ』
「死んでしまう事をですか!?」
『あなたと共に生きること、あなたの為に生きること。それが、あの子の望みだった』
「そんなの、死んでしまったら、何にも成らないじゃないですかっ」
『あの子が死ぬのは、あなたの為であったとしても、あなたの所為ではない。あの子はあなたを助けることを望んだのだから』
「そんなのっ、詭弁です!!」
『自分を責めないでくれ』
「私の所為なんです……」
『あなただけの所為ではない』
「他に誰が悪いと言うんです?」
『私も、アスハも、”長”も、他の”丘”のキツネ達も、全てだ』
「どうして…?」
『私は、あなた達を守る役目を言い遣ってきた。あなたが年老いて死に、あの子が”丘”に戻る日まで。しかし、私はあなたの事故を予測できなかった。そして、あなたの事だけを思って生きてきた幼いあの子は、それに気付いてしまった……。私も、取り返しのつかない失敗をしたのだよ』
「それで、あなたの所為だと言うのですか?」
『解らないな、誰の所為というのはおかしい事だ。君も取り返しのつかない事をしたのかも知れない、私も、そして、あの子も、皆が取り返しのつかない事をしてしまったのだろう』
「もう……取り返しはつかないのですね」
『あぁ、そうだ。どれほど望んでも、時は戻らない。過ちも……』
「もう、小雪は……」
『どうか泣かないでいてくれ』
「そんな事、出来ません」
『あなたが泣けば、それを受けて”丘”が泣く』
ごぉっと凄い音を立てて、”丘”に続く雑木林が揺れた。
そして、その風に煽られるように、白い、粉雪が舞い始めた。
小雪を助けてくれる人。
私の言葉を信じてくれる人。
少しでも小雪の側に居て、少しでも小雪を長らえさせる。
それしかない。
だから、私を助けてくれる人が要る。
お父さん?
いや、仕事場が遠すぎる、それでは間に合わない。
荒川君、野崎君は?
智子達ですら信じてくれなかったことを、信じてくれるだろうか?
荒川…藤一郎さん。
あの方なら、そう、”ものみの丘の妖狐”を知っているあの方なら……。
私はそう思い付き、とっさに駆け出した。
藤一郎さんなら信じてくれる。
そうすれば、きっと。
……きっと?
きっと、どうなると言うのだろうか。
信じて貰って、病院に駆けつけたとして、そして……小雪に会える?
思わず、足を弛めて、そして立ち止まってしまう。
そう、信じて貰ったとしても、どうにも成らないんだ。
そう、もう解っていた、もう、どうにも成らないんだ。
私は、沢山の人が行き交う商店街の中で、しんしんと降り積もる雪の中で、ただ一人、立ちすくんで、泣いていた。
どれくらいの時間が、経ったのだろうか?
頭が重い、体中がぎしぎしと軋んでいた。
「……っ」
軽く呻いて、体を上向ける。
カーテンの隙間から見える空が、綺麗な茜色に染まっていた。
何か、夢を見ていたような気がする。
悲しい夢だったのだろうか、頬に涙の跡が残ってぱりぱりになっている。
横目で見ると、枕にも大きな染みが出来ていた。
全てが…夢であれば良いのに。
でも私は、夢と現実の区別が付いてしまう。
今ここにいる世界が現実なのだと、小雪が、死んでしまうのだと、私はちゃんと理解できてしまう。
そして私は、もう泣くことしか出来ないのだと。
両手を組み、その甲で顔を覆いながら、私は意味もなく、涙を流し続けた。
ピンポーン。
玄関でチャイムの音が響く。
誰だろう? ……誰でもいい。
今の私には、起きあがる気力なんて無かった。
もう、何もかもがどうでも良いような気がする。
ピンポーン。
繰り返し、チャイムが鳴る。
うるさい。
放って置いて欲しかった。
このまま、泣いて泣いて、泣き続けて、私の全てが解けてしまえば、どれほど気が楽だろうか。
ピンポーン。
三度、チャイムが鳴った。
私は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
その時、
『美汐さん』
突然の”声”に、びくりと体が震えた。
この”声”、
「アスハさん!?」
とっさに両手をついて、がばっと起きあがる。
ずきりと、頭が痛んだ。肺も少し痛い。
しかし、体は勝手に駆け出して、玄関へ向かう。
アスハさんが来てくれた。
もう、どうしようも無いと言っていたのでは無いか?
それでも来てくれた。
ほんの一筋でも、そこに光明があるような気がした。
「アスハさんっ」
私は言葉を掛けながら、戸を開いた。
突然、真っ赤な光が目を射した。
思わず目を細める、その先で、アスハさんが、いつか見た少し悲しげな表情で、私を見ていた。
その後ろには、なだらかな傾斜が広がり、夕暮れに霞む麓の街が見える。
更にその向こう、遠い山並みに、夕日が今にも沈み込もうとしていた。
「こ…こは……」
振り返ると、そこにはもちろん、私の家など無かった。
「”ものみの丘”です」
呟くように、アスハさんが応える。
辺りを見回すと、確かにここは”丘”だった。
少し離れた場所で、望美ちゃんがコギツネと遊んでいるのが見える。
これは、キツネの”力”?
アスハさんの横にいた一匹のキツネが、ふんふんと鼻を動かし、アスハさんを見上げる。
そして、ふいと横を向くと、5歩ほど離れて、地面に鼻先を着けた。
…ぱりっ。
小さな音がして、突然そこに大きな影が現れる。
「…おー待たせ。世紀の極悪人、謎の美少女誘拐犯参上っ」
にやりと笑ってそう言った影は、竜弥さんだった。
「竜弥さん……」
私は半ば呆然と、その姿を見つめていた。
その、竜弥さんの胸に抱えられたもの、大きな布に包まれた、それは……。
「小雪…?」
「あぁ、間に合ったな」
応えながら、片膝をつく。
私は、何かに取り憑かれたように、ゆっくりと、そちらに近づく。
小雪は、シーツに包まれ、小さく寝息を立てていた。
竜弥さんは黙って小雪を差し出し、私はそれを受け取る。
なにか、不可思議な儀式でも行われているかのように。
そしてその儀式に参列するためか、あちらこちらから、キツネ達が姿を現し、私たちを見つめていた。
「小雪」
私は小さく、その名を呼んだ。
ぴくりと、小雪の眉が動く。
「小雪。聞こえますか? 小雪」
いつものように、そっとその髪を撫でてあげる。
「…にぃ」
微かに言葉を発し、ゆっくりと目を開ける。
「おはようございます。小雪」
「みぃ?」
私の姿を認め、小さく啼く。
「はい」
「みー」
「はい。私はここにいます」
その言葉に、いつもの様に、本当にいつもと変わらない様に、小雪は微笑んでくれた。
私は、この笑顔が好きだった。
「小雪」
「に?」
「小雪。ごめんなさい……、小雪……」
いつの間にか、涙が溢れ出していた。
「ごめ……、小雪、ごめんなさい…私の所為で……」
息が詰まって、言葉にならない。
「こゆ……」
言わなくてはいけない事が、伝えたい事がいっぱいある。
謝らなくてはいけない事が。
「小雪……」
「にぃ」
そっと、その手が私の頭に伸びる。
…なでなで、…なでなで。
いつも私がしてあげていたように、小雪は、そっと私の頭を撫でてくれた。
「あ…、小雪……ありがとう。小雪…」
「ふにゃ」
もう一度、小雪は満面の笑みを浮かべた。
ごうっと、”ものみの丘”を強い風が吹き抜ける。
枯れ草の上に積もったばかりの、粉雪を巻き上げて……。
私の腕の中の、真っ白なシーツを巻き上げて。
僅かな残光を跳ね返し、黄昏色に染まる風が通りすぎたあと。
私の腕の中には、何も残されていなかった。
……つづく。
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