『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第二十七話



 その夜は少しだけ慌ただしかった。

 小雪の異変に気付いたお母さんが、すぐに病院へ電話を掛けてくれた。
しかし、既に時間も遅く、診察は明日の朝一番に、もう一度精密検査を行う事になった。
そして、念の為に再入院する事に。

 そうと決まると、慌てても仕方がない。
私は、手が使えない小雪に、ご飯を食べさせてあげる事にした。
手早く鶏肉を切り分けて、お箸で摘んで一口ずつ食べさせる。
小雪は黙って口を開き、そして黙々と食べ続けた。
「小雪ちゃん。おいしいですか?」
「………」
 無言のままこちらを向いて、こくんと、小さく頷く。
しかし、その表情は依然、悲しげだった。
つい先日、体調を崩した小雪に、お粥を食べさせて上げたときの事を思い出す。
あの時と同じ様な事をしているだけなのに、この言い様のない”悲壮感”は何なのだろうか?
「にゅぅ…」
 突然、小雪の目から涙が溢れ出した。
「小雪ちゃん!?」
 私は手に持っていた茶碗を、食卓に戻す。
「どうしました?」
 目線の高さを合わせ、覗き込むように問い掛ける。
しかし、小雪は俯いたまま、膝に手を置いて泣き続けた。
私はその手を取って呼びかける。
「小雪……。ほら、大丈夫ですから。ほんのちょっと手が疲れているだけで、またすぐに元に戻りますから。だから、今はちゃんとご飯を食べて、早く元気にならないと」
 私の言葉を聞いているのか、ただ小雪は、動かないという手の甲で、ぐしぐしと涙を拭った。
「大丈夫ですから……」
 私は、何と言葉を掛けたら良いのか判らず、先ほどと同じ台詞を言いながら、小雪を抱き寄せた。
そして、いつもの様に、そっと髪を撫でて上げる。
「大丈夫……」
 そう呟きながら、私は考えていた。

 小雪の手が動かなくなったのは、いつからか。
昼食の時、階段で傘を取り落としてから、しばらく様子がおかしかった。
それよりも、今朝、服を着るときから既に、手は動いていなかったのではないだろうか?
それ以前は……。昨日はどうだっただろうか?
本当は、もっと前から異変があったのではないだろうか?
 そう、ずっと小雪は、私たちに心配を掛けないように、泣きそうになるのを我慢して、動かない手を誤魔化していたのではないだろうか。
自分の観察力の無さ、迂闊さが嫌になる。
「大丈夫」
 私はもう一度呟いて、きつく小雪を抱きしめた。

 小雪の部屋に戻ると、お母さんが荷造りをしてくれていた。
今度は、本当にいつ退院できるか判らない。
小雪の為に買ってきた、まだ新しい下着と身の回り品。
鞄に詰めてしまうと、ほんの僅かな量に思えた。
 私のその荷物の脇に置かれた、今夜の分の着替えを手に取った。
「小雪ちゃん。また一緒にお風呂に入りましょうか?」
「………」
 小雪は、こちらに視線を向けはしたけれど、何も応えない。
その表情は寂しげで、これから遠くへ旅立ってしまう様な、そんな雰囲気を持っている。
私はそれを振り払うように、小雪の手を掴んで引いた。
「行きましょう」
「……うん」

 また入院することになる。
その事実が小雪に、この寂しそうな表情をさせているのだろうか?
手が動かなくなった原因が解明できない限り、入院は避けられない。
だけど私は既に、これが病気の類ではなく、小雪独自の、正確には”人に成ったキツネ”の抱える問題だろうと判断していた。
それならば、お医者様に見ていただいたところで、どうにも成らない。
しかし、小雪が”キツネ”であると公表することは出来ないし、公表したところで、誰も信じてはくれないだろう。
結局の所は、お医者様に見ていただいている間に、アスハさんの所へ行って、原因を調べてもらうしかない。
原因が解り、それが取り除けたら、お医者様に原因が突き止められなくとも、またすぐに退院できるだろう。
そう、考えることにした。

 明日は、小雪を病院に預けたら、すぐにアスハさんの所へ向かおう。
場所を、確認しておかないと……。

 今夜は小雪と一緒に眠ることにした。
その方が小雪も安心できるだろう。
私は自分の部屋から枕だけを持ってきて、小雪の部屋に入った。
「小雪ちゃん。今夜は一緒に寝ましょうね」
「………」
 小雪は、布団の上にぼうっと座り込んでいた。
「小雪ちゃん?」
「…ふに」
 小雪の視線はこちらを向いているのに、何処か遠くを見ているようにも思える。
私は枕を横に置いて、小雪の側に腰を下ろした。
「こうして枕を並べてみると、新婚さんみたいですね」
「………」
 私の冗談に、やはり小雪は応えてくれない。
智子でも居てくれたなら、笑ってくれただろうか?
小雪は何も言わずに、ただ、当たり前のように私の胸にすり寄ってきて、鼻先をクンクンと動かし、私の匂いを探る。
そして太股の上に、ころんと頭を置いて安らぐ。
 それはいつもいつも、何年間も繰り返してきた、眠りにつく前の私のベットでの情景。
ただ、今の小雪は”人”なのだ。
見ると、小雪の手はぐーに握られたままで、布団の上に置かれてる。
そしてその手のまま、自分の頬をくりくりと掻いた。
まるで、小さい子供がキツネの真似をしているかの様に。
 この感じ……。
ひょっとすると、小雪はキツネに戻りつつあるのではないか?
それは、以前にも考えたこと。
”人”に成ったからと言って、いつまでも”人”であり続けるとは限らない。
”人”であり続けるために力が弱くなって、キツネに戻ってしまう事も有り得るのでは無いだろうか?
アスハさんはその様な話はしていなかった。
でも、この小雪の様子を見ると、そう考えるのが適切であるように思える。
もしそうだとしたら……。
 突然”人”である小雪が居なくなったら、みんなも慌てるだろうけど……、私はそれでも良いと思う。
いつか、この小雪は、キツネの小雪が姿を変えていたのだと、みんなにも話して上げれば良い。
信じてくれるだろうか?
たぶん、大丈夫だろう。
 私はそんなことを考えながら、ゆっくりと、小雪の髪をなで続けていた。
気付くと、小雪はいつの間にか小さく寝息を立てていた。
私は布団に入る前に、髪が絡まらないように、自分の髪を三つ編みにする。
小雪の髪はそのままにしておこう。
この柔らかくふかふかとした髪に、三つ編みの跡が残ってしまうのは、あまりにも勿体ない。
私は小雪の髪を撫でるようにして抱き寄せ、そっと布団をかぶった。
 結局、枕は一つでも良かったかも知れない。


「お母さんも昼前には行きますから」
「はい。行ってきます」
 荷物は後から来るお母さんに任せ、私は小さな鞄だけを持って、もう片方の手で小雪の手を取った。
「行きましょう」
 促して歩き出す。
小雪は、何も応えなかった。
ただ、少しだけ嬉しそうに、あいている左手を振って歩く。
おそらく、尻尾の代わりなのだろう。
まるで、キツネの小雪と散歩に出かけた時のような気分になる。
空はどんよりと雲が立ちこめ、今日は一段と寒い。天気予報通りなら、午後からまた雪が降り出すだろう。
「…に」
 不意に足を絡ませ、小雪が転びそうになる。
「大丈夫ですか?」
 両腕で私にしがみついた小雪は、目をぱちぱちさせながら、辺りを見ている。
自分が転びかけたことが、解らなかったのだろうか?
私の顔を見上げ、にこっと笑って、そしてそのまま、ぶらぶらと体を揺らして遊ぶ。
「小雪。少し重いです。ちゃんと立って下さい」
「にゃあ」
 それでは、キツネでなくて猫でしょう?
思わずそんな言葉が、口から出そうになる。
「さあ、行きましょう」
 本当は、行きたくないのだろう。
そう、本当は私も行きたくはない。
理由はどうあれ、これでまたしばらく小雪と離ればなれになる。
もちろん、昼の内は会いに行けるのだけれど。
朝起きて、小雪が側に居ない。
家に帰って、小雪が出迎えてくれない。
……その考えれば、贅沢なことだろうか。
普段、学校に行っていたときも、昼間は小雪とは会っていない。
でも病院に行きさえすれば、夕方まで一緒に居られるのだから。
ただ……そう、私のことではなく。
小雪を、あの病室に一人きりにしてしまうのが、可哀想…と考えるのは、少し違うだろうか?
側に居てあげたい。小雪が望むとき、私が側に居てあげられないのが、一番悲しい事なのだろう。

 そして、病院に着いた。

 通常の診察はまだ始まっていない。
私は受付で用件を話し、以前通された事のある部屋に入る。
私と小雪を担当して下さったお医者様、それと、何度か見たことのある看護婦さん。
「おはようございます、天野さん。お加減は如何ですか」
 どうやら、『お加減は如何』は、挨拶のような物らしい。
「はい。おはようございます。この小雪ちゃんの事なのですが……」
 小雪を促して、お医者様の前に立たせる。
「どうぞ」
 看護婦さんが、私と小雪に椅子を勧めてくれた。
私は少し離れたその椅子に腰掛け、お医者様の様子をうかがう。
簡単な問診と触診はいつも通り。
その後に、改めて手の様子を見る。
看護婦さんに言葉をかけて、メモを取らせる。それを聞いていると、どうやら筋力の低下が原因と考えられるのではないか、と判断したらしい。
小雪はこの後、いくつか検査を受けることになる。お医者様はその検査の用意を指示してから、私の方に目を向けた。
「細かいことは検査を終えてからでないと判りませんが、先の事故とはまったく関係ない病気だと思いますので」
 私が気に病むことはない、と言いたいのだろうか?
「症状にも因りますが、入院していただくことになると思っていて下さい」
「はい。そのつもりで用意してきています。午後には母が着替えを持って参りますので」
「そうですか。……では」
 目線で看護婦さんに問い掛ける。
看護婦さんは、何処かと連絡を取っていたのだろう、受話器を置くと、
「用意の方、整いました」
 と告げた。
「はい。では、病室は以前と同じ場所を使っていただきます、荷物があるならそちらに。相部屋は居ませんから、ベットは好きな所を使って下さってかまいませんよ」
「はい」
「取りあえず、検査にしばらく掛かりますので」
「はい。私は一度家に戻って、また昼前に来ます」
「そうして下さい。では、お願いします」
 お医者様の言葉を受けて、看護婦さんが小雪の手を取った。
「さあ、ご案内いたします」
 その様子を見ながら、私も席を立った。
「では、失礼いたします」
 お医者様に挨拶して、振り返ろうとした私に、小雪が悲しそう呟いた。
「みしお……。いかないで」
 一瞬、体が止まる。
別に永遠の別れという訳でも無いだろうに、何故だかその場所から動けなくなった。
「……すぐに戻りますから」
「にぃ……」
 小雪は目に涙を溜めて、今にも泣き出しそうだった。
「大丈夫ですよ。本当に、すぐに戻りますから」
 私は小雪に歩み寄ると、そっと抱き寄せて、いつものように優しく撫でてあげた。
しばらく、そのまま時間だけが過ぎる。
お医者様も看護婦さんも、何も言わずに、その様子を見守ってくれていた。
「落ち着きましたか、小雪?」
 少し体を離して問い掛ける。
「………」
 小雪は無言のまま、じっと私を見つめる。
その頭にもう一度手を置いて、出来るだけ優しく微笑みかける。
「お医者様の言うことをよく聞いて、大人しくしていて下さいね。お昼は一緒に食べましょう」
 相変わらず、その瞳は寂しさと、悲しみが揺れている。
しかし、小雪は小さく頷いてくれた。
「はい。良い子ですね」
 私はそのまま頭を撫でてあげる。
「では……」
「はい」
 私の視線に、お医者様が応えてくれる。
「よろしくお願いいたします」
 そして私は、診察室を後にした。
小雪は、私がドアを閉めるまで、じっと見つめていた。

 さて……。
小さく息を吐き、廊下を一人歩く。
早く、行かなくては。
やはり、小雪を一人にはしたくない。
一刻も早くアスハさんに会って、小雪の手が元に戻るなら戻して貰って、キツネに戻ってしまうなら、……その時は、ただ戻るまで待てばいい。
 私は足早に病院を出て、そこからは駆け出した。

 以前、竜弥さんに貰ったマッチ箱。そこに書かれていた住所を頼りに、街外れの温泉旅館に辿り着く。
無意味に走ってきたために、少し息が上がっていた。
大きく息を吸い込み、呼吸を整える。少し肺が痛い。
 緩やかな坂を振り返ってみると、街が見渡せた。
白い雪に覆われた、私の育った街。
駅の方のビルから、街を見渡すことはあったけれど、こちらから見ることはあまり無い。
その、駅が遠い。小雪が今居る病院も。
商店街とデパート、中学校、そして私が受験した私立高校と、私の家がある小さな丘。
旅館の建物が邪魔になって、”ものみの丘”が見えないのが少し残念だけれど、見晴らしはすごく良い。
いつも見ている街を”裏側”から眺めているような、不思議な感覚がする。
 私はもう一度深呼吸をして、旅館の入り口に目をやった。
「よう。来たな、お嬢ちゃん」
 突然、背後から声が掛けられた。
見ると、木刀のような物を肩に掛けて、竜弥さんがそこに立っていた。
そう、今し方、私が街を眺めていたその方向に。
「竜弥さん……、今、何処にいらっしゃいました?」
「あぁ? ま、ちょっとな。俺らはたまに変な事するけど、気付いてるやろ? まっとうな人間ちゃうから、あんまり気にせんといてくれや」
 そう言って苦笑する。
キツネであるアスハさんの旦那様なのだから、”普通”では無いのかも知れないけれど、”真っ当では無い”という言い方は……、関西では普通なのだろうか?
何にしろ、この人も、普通ではない。
その証拠に、少し目を離した隙に、手に持っていた木刀のような物が、消えて無くなっていた。
「おいでや、明日香が待っとるから」
「はい」
 手招きされて、その後を追う。
「待っていた、と言うことは、来ることが分かっていたのですか?」
「うん? まぁ…な。そろそろ、来なあかん頃やろとは思ってたから」
 …と言うことは、
「小雪のことは、ご存じだったのですか?」
「……まぁ、取りあえず来てくれや」
 そう言いながら、私の為にスリッパを出してくれる。
「ありがとうございます」
「2階やから」
「はい」

 部屋に入ると、開け放たれた窓から、”ものみの丘”が真っ正面に見えた。
「さっ…ぶーっ」
 竜弥さんが思わず声を上げる。
「なんで窓が開けっ放しやねん。せっかく人が仕事から帰ってきて温まろうって所やのに」
「温まりたいのでしたら、温泉の方が良いのではありませんか?」
「…なんや、冷たいな」
 アスハさんは、その開け放たれた窓から、”丘”を眺めていた。
「おはようございます」
「はい、おはようございます、美汐さん」
「”丘”を見ていたのですか?」
「ええ。この街で”丘”の草原部分が見えるのは、この辺りだけですから」
 確かに、私の家の方からでは、雑木林部分しか見ることが出来ない。
だからアスハさん達は、ここに宿を取っていたのだろうか?
「望美は?」
「中庭の方です」
 竜弥さんに答えて、視線で窓の下を指す。
「で、どないすんねん?」
「話は私がいたしますから、どうぞ、温まってきてください」
「……あぁ、解った」
 竜弥さんは、何処から取り出したのか、木刀のような物を部屋の隅に立てかけ、代わりにタオルを持って部屋を出ていった。
私とアスハさんは、それを黙って見送る。
「まず、謝らなくてはいけないことがあります」
 ゆっくりと、アスハさんが話し始める。
それに合わせて、私はその場に膝を着いた。
「それは……、小雪のことでしょうか?」
「はい」
「今の小雪のことは、ご存じなのですか? いえ、こうなると、知っていたのですか?」
「……今は、どうしていますか?」
 私の質問には答えず、逆に質問が返される。
「手が、動かなくなりました。それが原因で、今日からまた入院することになりました」
「他には何か気付きましたか?」
「明確ではありませんが、小雪は、キツネに戻っていっているような感じがします」
「………」
「小雪の、人であり続ける力が弱くなっているのでは無いでしょうか? 私にはそう思えました」
「その、通りです」
「やはり、そうなる事をご存じだったのですね?」
「はい」
「どうして教えていただけなかったのですか?」
「……せめて、せめて少しの間だけでも、幸せな時間が続けばと、そう思ってのことです」
 ……なに?
「それは……」
「謝らなくてはいけません、私は、嘘を吐いていました」
 はらはらと、アスハさんの目から涙が零れだした。
「どうして……。謝るなんて、どうして? 私たちは幸せな時間を過ごせました。……小雪は、キツネに戻ってしまうだけなのでしょう?」
 しかし、アスハさんは首を横に振った。
「あの子は、小雪は自分の本質を知りません。再び、キツネとしての姿を形作ることは、出来ないのです」
 鼓動が、早くなってくるのが解る。
それに反して、気温が…いや、体温が、どんどんと下がっていっている感じがする。
その寒さの中で、脇の下を、汗が伝う。
「どういう…意味ですか」
 答えて欲しくない。
「ごめんなさい」
 その気持ちが伝わったのか、アスハさんは答えなかった。
でも、答えなかったからこそ、私の嫌な予感が、当たっているのだと、理解できた。
だから私は、もう一度、その”予感”を言葉にして、問い掛けた。
「小雪が、……死んでしまうと、言うのですか?」


 ただ、一つだけ、思い出したことがある。
以前、アスハさんが私に言った言葉。

『今のあの子の姿は”思い”の力が起こした、最後の”奇跡”なのですから』

 そう、この”奇跡”は、初めから”終わり”だったんだ。

  ……つづく。


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