『”ものみの丘”に吹くそよ風』

第二十三話


「目が覚めましたか?」
「………」
 上半身を起こした状態で、それでも小雪は、まだ半分夢の中にいる様だった。
その額にそっと触れる。
熱は、もう完全に下がっていた。
「もう、起きても大丈夫ですね」
 そっと抱き寄せるようにして、いつものように頭を撫でてあげる。

 小雪が倒れてから、丁度1日が経った。
それまで、ずっと目を覚まさなかったのだけれど、アスハさんの言葉通り、熱は以外にあっさりと引いたようで、少し安心する。
小雪はまだ状況が飲み込めないのか、そのままの体勢で、ぼうっと部屋を見回していた。

「小雪ちゃん。お腹が空いていますでしょう? お粥を作ってきますから、もう少し休んでいて下さい」
 私の言葉に、ゆっくりとこちらを見る。
「………」
「どうかしましたか?」
「……みしお…?」
「はい」
「………」
 小雪は、私を見つめたまま軽く首を傾けた。
その姿が可愛くて、もう一度、軽く撫でてあげる。
「すぐに戻ります、横になっていてください」
 まだ、どこかぼうっとしている小雪を残し、私は立ち上がって部屋を出た。

 台所に入る前に、居間にいるお母さんに報告すると、
「お粥は私が作るから、美汐さんは小雪ちゃんについていて上げなさい」
 と言われた。
ここは素直にお願いしておいて、私は小雪の部屋に戻ることにする。
廊下を歩きだした、丁度その時、玄関のチャイムの音が聞こえた。
居間から出てきたお母さんと目配せをして、玄関へと向かう。
途中、何気なく廊下に掛けられた時計に目をやる。何故か、智子達かな? っと思った。

「はい」
 返事をしながらドアを開ける。
そこには、予想通りの姿と、予想外な姿があった。
「こんにちは」
 智子の頭越しに、藤一郎さんが声を掛けてくれる。
「…こんにちは。昨日はどうもありがとうございました。どうぞお上がり下さい」
「ありがとう。では、お邪魔します」
 型通りの挨拶に、同じく型通りで応えた藤一郎さんに続き、智子が無言で入ってくる。
何も言わないけれど、二人とも小雪の見舞いに来て下さったのだろう。
私はそのまま小雪の部屋に案内した。

 とんとん。
「………」
 返事はない。
「小雪ちゃん…?」
 言葉を掛けながら、そっと戸を開ける。
小雪は先ほどと同じ体勢で、ぼうっとガラス戸の方を眺めていた。
「小雪ちゃん。智子と荒川さんがお見舞いに来てくれましたよ」
「………」
 私の言葉に、ゆっくりと振り返る。
そしてまた「ふに?」っと首を傾げた。
「もう起きても大丈夫なのか?」
「はい」
 答えながら部屋の中に入る。
「今、起きたところなのですけど、熱はもう下がっているようです」
「そうか、よかった」
 部屋の隅に置いてあった座布団を取る。それを智子が受け取って、藤一郎さんに勧めてくれた。
「お茶をいれてきます」
「あ、私が行ってくる」
 そう言って、立ったままだった智子が素早く戸を開ける。
「いいですよ、すぐ戻りますから」
「良いって良いって、ついでに叔母さんにも声掛けてくるから」
 私の言葉を制し、智子は既に廊下に出ていた。
「そうですか……? では、お願いいたします」
「ん」
 ぱたんと戸が閉まる。
……この感じ、何だろうか?
「ふ〜ん」
「どうかしましたか?」
 振り向いて応えながら、私も藤一郎さんの側、小雪の横に腰を下ろした。
「いや、馴れてるなって思ってね。よく遊びに来ていたりするのかな、智子ちゃんとか志郎とかは」
「荒川君はあまり来ませんけど、智子はよく来ます。時々、お料理を教えてもらったりしていたので、ここの台所にも馴れているんですよ」
「成る程」
 ちらりと、智子の出ていった戸に目を向ける、藤一郎さん瞳は、何故か嬉しそうだった。
その横顔を何となく眺めながら、小雪を寝かせて布団をかけ直してあげる。

「そうそう、これを返しておかないと」
 突然思い出したように、藤一郎さんが抱えていた紙袋を差し出す。
「何ですか?」
 ”返す”ということは、昨日、何か忘れて帰ってきたのだろうか?
「開けてみれば解る」
「はい」
 小さな紙袋。そんなに大きなものではない。
私はそっと中を覗いて…、
「あ」
 っと、思わず声を漏らした。
中には、小雪のブラジャー、それにお守りと、これは、昨日の方の香袋?
「いやぁ、驚いたよ。俺が帰るまでに親父が部屋に入ったらしくてね。布団は乱れてるは、女性の薫りがするは、挙げ句の果てにそんな物は落ちてるはで、正月早々、危うく殺される所だったよ」
 藤一郎さんは何故か楽しそうに、身振りまで付けて話してくれた。
「…すいません……」
「ん? あぁ、軽い冗談だから。そんなに気にしなくて良いよ。殺す殺されるは、家では日常茶飯事なんだ」
「そうなのですか」
「…いや、納得されても困るんだが……」
「冗談です」
「……そうか…?」
 がさりと片手で髪を掻き上げる。これがこの人の癖なんだなと思った。
「昨日はお世話をお掛けいたしました。本来ならこちらからお礼に行かなくてはいけなかったですのに」
「うん? 大したことはしてないよ。本当に」
「いえ。色々ありがとうございました。それと…」
 紙袋の中から、香袋だけを取り出す。
「これは私たちの物ではないんです。昨日、小雪を介抱して下さった女性、あの方が鎮静効果があるからと、枕元に置いて下さった物なんですが」
「あぁ、そうなのか。解った、機会があれば返しておくよ」
「あの、出来ればあの方にも、改めてお礼を申し上げたいのですけど、ご住所は教えていただけないでしょうか?」
「えっと…、すまん、住所まではちょっと、…いや、実は名前も知らないんだ」
「え…? 道場の方ではなかったのですか?」
 刀袋を持っていたから、てっきりそうだと思ってしまった。
それに、藤一郎さんとも親しかったようだったけど?
「う〜ん、あの人ではなくて、あの人の旦那さんが道場に来ていたんだよ。それも10年以上前の話だ、名簿も残っているかどうか」
「そうでしたか……」
「あ、でも、盆と正月と命日だけは、形見の刀を抱えてお参りに来るから、そのときに会えれば返しておくよ。よければ住所も訊いておく」
「はい。ありがとうございます」
 取りあえず、香袋は預けておこう。
昨日のあの方の様子からして、お礼を受けるために住所を教えるような事はしないと思うけど、それはそれで仕方がない。
運命という物が、もしあるのなら、いずれ何処かでお会いする事もあるだろう。
「しかし、そうか…もう10年、いや、15年くらいになるのかな、あの人が亡くなってから」
「…親しい方だったんですか?」
「いや、全然。それこそ名前も覚えてないんだから」
 髪を掻き上げて、苦笑する。
「でも、一度だけ、その人とうちの親父の稽古を見たことがあるんだ」
 そう言いながら居住まいを直し、話を続ける。
「うちの流派は、荒川流って言うんだけど、ただ剣道だけじゃなくて、ある程度まだ行った人には”剣術”を教えるんだ。その稽古が、木刀を使うんだけどね、凄かったんだよ」
「はい」
「正眼に構えて向かい合ったところから、間合いを詰めて、片方が…えっと、左手を峰の中程に添える荒川流独自の構えがあるんだけどね、それに移行して、次の瞬間どんどんって足音と共に一気に踏み込んだと思えば、互いに弾きあって……」
 身振り手振りを加えつつ、話をする藤一郎さんの瞳が、きらきらと輝いていた。
本当に剣道が、剣術という物が好きなんだなと思える。
智子も、よくこんな瞳をしながら、剣道の話をしていたことを、何となしに思い出していた。
「……って感じで、もの凄い早さで打ち合っていたんだよ、二人とも。……それが、俺の見た”荒川流剛剣術”の稽古の、最初で最後だったんだ。その印象がホントに強くて、俺も、剣術をやってみようかなって、思ったわけだ」
「そう言えば、確か師範代に成られると、智子から訊きましたが」
「あぁ、師範代って言っても形だけだよ。やっと”剣術”の方の拾得が免許されただけ。これからさ」
 そう言いながら、楽しそうに微笑む。
こうやって、何かに打ち込めるというのは良いことなんだろう。
私個人、今まで特に何か一つのことに打ち込むようなことが無かったので、羨ましくも思える。
そう、藤一郎さんも、それを目標としている、智子や荒川君、野崎君も。

「なんだか自分の話ばかりになっちゃったな」
 ふうっと息を吐き、
「……遅いな、智子ちゃん」
 と襖の方を振り返る。
「そう言えば遅いですね」
 一緒にお粥を作っているのだろうか?
それにしてもそろそろ戻ってくるだろう。
 ふと見ると、小雪は再び眠り込んでいた。
思わず、くすっと笑い、髪を撫でる。
「いいな、本当に」
 頬杖をつくように、右手を顎にあてて、藤一郎さんが呟いた。
「はい?」
「そういう感じ、いいなと思ってな。しかし、……気を悪くしないでくれよ、何というか、姉妹と言うより、母娘に見えるな」
 一瞬、笑おうとして、一つの言葉に引っかかる。
「そう言えば、お話ししていませんでしたね」
「ん?」
「この子、小雪は私の妹ではありません」
「え? そうなのか?」
 少し意外そうに訊き返す。
「……昨日、何故私が、”丘”のキツネのことを知っているのか、訊きましたね」
「……あぁ」
「お答えしましょうか?」
 正面から、その瞳を見つめて問い掛けた。
「………」
 私の言葉に、藤一郎さんは、無言で真っ直ぐ見つめ返してくる。
「実は……」
 ごくりと、藤一郎さんが唾を飲み込んだ音が、静かな部屋で、意外なほど大きく聞こえた。
「私は、人間ではありません」
「まさ…か……」
 僅かに呟き、目を見開く。
「そう、私は、人の姿に化けた、”ものみの丘”のキツネなんです」
 しんっと、部屋が静けさを増した様な気がする。
もう一度、ごくりと唾を飲み込み、藤一郎さんはそのまま、私を見つめ続けていた。
「……と言うのは、冗談ですけどね」
「……………は?」
「冗談ですよ」
 藤一郎さんは目を瞬かせ、そのまま動かない。
その体が軽く左右に揺れたかと思うと、がくっとその場に項垂れた。
「………はあ…」
 深い溜息を一つ吐く。
「…お、脅かさないでくれ……っ、俺は信じ込みやすい人間なんだから」
「あははっ。すいません。つい」
 本当に、真摯な良い人だと思う。ちょっと冗談が過ぎただろうか?

 そんなやり取りをしていると、ノックも無しに戸が開かれる。
「…どうしたの?」
 両手にお盆を持ったままの智子が、ちょっと驚いた顔で見ていた。
「いえ。大したことではありません」
「………」
 しばし無言、そして藤一郎さんの方を見る。
藤一郎さんは、何とも言えない表情で智子を見つめ返していた。
「どうしたんですか?」
「いや……」
 何とも答えず、目線を逸らす。
「どうもしないですよ」
 くすくすと笑いながら言った私の言葉に、足で襖を閉めながら智子が応える。
「そう? でも、今、声上げて笑ってなかった? 美汐」
「はい。笑っていました」
「美汐が、そんな大きな声で笑うのって、久しぶりだと思うんだけど」
「……そう、でしたでしょうか?」
 確かに、智子達のように、大きな声で笑ったりはしない方だとは思うけれど、私が笑うと言うこと自体は、それほど珍しいものでも無いだろう。
智子がそのように言うのだから、先ほどは、思っていたより大きな声を出して笑っていたのだろうか?
「なにか、面白いことでもあったの?」
 お盆をテーブルの上に置きながら、改めて訊いてくる。
「え…っと」
 どう話せばいいだろうか? ちらっと藤一郎さんの方を見てみる。
「……実は、イジメられていたんだ」
 さらりと、人聞きの悪いことを言う。
「イジメられていたんですか? 先輩の方が?」
「『俺の方が』とはどういう意味だ」
「え、いえ…だって、…美汐?」
「イジメてはいません。ちょっと冗談を言ってみただけです」
「冗談?」
「はい。個人的には面白かったと思うのですが」
 くすっと笑って言った私に、藤一郎さんは呟くように言葉を挟む。
「個人的には、面白く無かった」
「そうですか、残念です」
「一体、どんな冗談だったんです?」
 その質問には、藤一郎さんは顔を背けるようにして答えない。
智子の視線がこちらを見る。
「……秘密です」
「どうして?」
 どうしてだろうか?
智子になら、小雪の本当のことを、話しても良いかも知れない。
でも、今、急いで話す必要があるわけでもない。
「いつか、教えます」
「…うん、楽しみにしとく……」
 何となく、納得したような、しないような表情で、頷く。
そんな私たちのやり取りを見ていた藤一郎さんが、ゆっくりと座り直して、ふうっと息を吐き、言った。
「天野さんに一つだけ頼みがある」
「はい。何でしょうか?」
「真顔で冗談を言うのだけはやめてくれ。恐いから」
 何故か智子まで、うんうんと2回頷いていた。

「しかし、元気そうで安心したよ」
「はい」
 小雪が再び眠り込んでしまったので、私たちだけで先に昼食を取ることになった。
藤一郎さんは、遠慮して帰ると言っていたのだけれど、智子とお母さんにとめられて、結局一緒に食事をすることになった。
「あぁ、その子の事じゃなくて、天野さんがだよ」
「私が…ですか?」
「そうだね。昨日は美汐も顔色悪かったから」
 智子が箸を振りながら相づちを打つ。
「そうでしたか?」
「うん。車乗ってた時なんか、かなり」
「……そう、でしたか」
「あぁ。その割に、俺のことは、からかってたみたいだけどね」
「そうなんですか?」
 意外そうに智子が聞き返す。
そんな事もあったかも知れない。
何故だろう……。
初対面なのに、この人は何故か、安心感のような物を感じさせてくれる。
それは多分、智子のお姉さんの事を、包み隠さず話してくれたから、私に本当のことを話してくれたからだろう。
真っ直ぐな思いが、気持ち良い。
初対面の私にも、心を開いて見せてくれたように思えたから、私も気を許してるのかも知れない。
「美汐?」
「はい」
「どーしたの、ぼーとして」
「いえ。何でもありません」
 智子は軽く目を瞬いて、
「ま、美汐がぼーとしてるのは、よくあることだけど」
 と誰も居ない方を向いて呟く。
「そんなことは無いです」
「そう? 美汐って、偶にぼーっと考え事してるときあるよ」
「偶に、です」
 私たちのやり取りを、藤一郎さんがくすくす笑いながら聞いている。
いつもの、智子と朝香の三人で居るときとは、また空気が違う。
でも、こんな感じも良いかも知れない。

「ん…にゅう〜……」
 ふと見ると、小雪が伸びをしていた。
「小雪ちゃん、起きましたか?」
 私は立ち上がり、半纏を取って小雪の脇に膝を着く。
「はい。起きあがるなら、これを羽織って下さい」
 小雪を起こして半纏をかけ、少しぼさぼさになった髪を撫でてて整える。
「にゅう」
「どうします? すぐにご飯を食べられますか?」
「……うん」
 振り返ると、智子が小雪の分の座布団を敷いてくれていた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
 智子に応えつつ小雪を座らせて、小さな土鍋からお粥を茶碗に装う。
少し時間が経ってしまったけど、丁度良いくらいに冷めていて、この方が食べやすいだろう。
その茶碗を渡そうとして、ふと思い立った。
「…小雪ちゃん」
「…に?」
 私は蓮華に軽くお粥をすくい、小雪に差し出す。
「はい。あーん」
「……?」
 一瞬首を傾げ、口を開ける。
その小さな口に、そっとお粥を入れてあげる。
「………」
「おいしいですか?」
「うん」
 にこっと微笑む小雪に、続けてお粥を差し出す。
「はい。どうぞ」
「楽しそうだね」
 既に食べ終わっていた智子が、肘を突きながら、こちらを眺めている。
「一度やってみたかったんです」
 私の言葉に、藤一郎さんがふっと笑った。
「やっぱり母親だな」

 食事を終えた小雪は、何故かひどく眠そうで、再び布団に戻った。
やはり、疲れが出ているのだろう、しばらくゆっくりした方が良い。
「じゃあ、私は今日はもう帰るよ」
「はい。ありがとうございました」
「あ、俺ももう帰らないと」
「先輩はゆっくりしていって下さい」
 立ち上がろうとする藤一郎さんを、智子は片手で制する。
「いや、ゆっくりと言っても…、今日もまだ忙しいからな、一応」
「お仕事ですか?」
「ん? まぁ、昨日ほど忙しくないから、例によって俺は居なくても大差ないけどね」
 そう言いつつ髪を掻き上げる。
その動作から、”誤魔化そうとしている”のが読みとれた。
少し困ったとき、照れたとき、そんなときに髪を掻き上げてしまうのだろうと思う。
「……殺されないように、注意して下さいね」
「…あぁ」
 苦笑したように笑い、立ち上がる。
「さて。送っていこうか?」
「あ、いえ、まだ用事がありました」
 藤一郎さんの言葉に、智子が慌てて応える。
「これを片付けて帰らないと」
 そう言って、お盆を手に取った。
「それは私がしておきます」
 食事の用意までしてもらって、更に片付けまでさせる訳にはいかない。
「いいよ、美汐は小雪ちゃんの側にいてあげたら」
「でも……」
「困ったときはお互い様でしょ」
 そう言いつつ、足で襖を開ける。
自分の家では絶対にしないであろう動作。
私の前だから……、そう思うなら、私と同じくらいに、藤一郎さんにも気を許しているのだろうか。
ふと、何かが心に引っ掛かる。
智子のこの反応。
そうか……。
「では、お願いいたします」
「ん」
 応えて、また足で閉めようとする。
「あ、俺も帰るから。じゃぁ、ごちそうさまでした」
 ぺこりと頭を下げる藤一郎さんに、智子が後ろから、
「お粗末様でした」
 と言って笑った。

 小雪は、また眠りに落ちていた。
ゆっくりと髪を撫でながら、その寝顔を眺める。
昨日見た、苦しそうな表情は既に陰も無く、穏やかな寝息が規則正しく続いていた。
 何となくふわふわとした、不思議な気分。
人の姿の小雪と、こうして居られる不思議。
ひどく不安定な、夢の中にいるような気分で、それでいて、安らいだ感じがする。
温かく、心地よい。
私も、少し眠たくなって来た。
布団を降ろしてきて、この部屋で休もうか?

「美汐?」
「はい」
 襖を開き、智子が顔だけで覗き込む。
「じゃ、私も帰るから」
 中途半端な笑顔を浮かべて、片手をあげる。
「智子」
「ん?」
「荒川さんが帰ったら、智子が帰る理由は無いのではありませんか?」
「え?」
「智子。……荒川君のときと、同じ事を考えていませんか?」
「…何のこと?」
 怪訝そうな表情、その陰で、僅かに動揺しているのが解る。
「また、私と荒川さんが”良い仲”にならないだろうか、なんて考えていたのでしょう?」
「………」
 目が少し見開かれる。
「わ…解った?」
「はい」
 私はふうっと息を吐き、言葉を続ける。
「智子は、自分の好きな人達が、恋人同士になることを望んでいるんですね」
「え…いや、そんなこと無いけど。今回は、先輩が美汐のこと凄く気にしていたから、もしかしたらって……」
 藤一郎さんが気にしていたのは、小雪の容態だろう。
そうで無ければ、昨日話した、”キツネ”の件。
それを、私に対する興味だと誤解して、気を利かせるつもりだったに違いない。
「気にかけて下さったのは、小雪の事ですよ。それに、私と荒川さんでは、年が離れすぎています」
「いや、そうだけど。でも、美汐のお母さんって、お父さんといくつ離れてる?」
「13です」
「ほら、藤一郎先輩って大学出た所だから、今年で23でしょ? 美汐は16に成る訳だから、7つしか違わないじゃない。ね?」
「お母さん達は特別です」
「ん…まぁ、ねぇ」
「智子は、自分の好きな人達に、ずっと側にいて欲しいんですね」
「…え」
「そんな気がします」
 私は小雪を撫でていた手を止め、布団を肩まで掛け直してあげる。
「智子」
「ん?」
「智子は、もう剣道は続けないんですか?」
「あぁ、もう辞めるよ、時間もとれなくなるからね」
「それで、良いんですか?」
「…なにが?」
「剣道が、好きだったでしょう?」
「うん、好きだったよ。でも、遊んでいるのは中学校の内だけって、決めてたからね」
「どうしてですか?」
「やるべき事があるからだよ、私には。女流日本画家、高瀬静子の孫娘として工芸大付属に入って、絵の勉強をするんだから。知ってるでしょう? 絵は勉強すればいいって物じゃない、たくさん描いていかないと、上手くは成らないんだから」
「はい。それは解っています。けれど、まったく時間がとれない訳ではないでしょう? ずっと好きで続けていた物を、辞めてしまうのは勿体ないのではないですか?」
 勿体ないという言い方は、適切ではないかも知れないけど。
続けていれば、もっと上が目指せるのではないだろうか?
「まったく辞める訳じゃないよ。たまには竹刀を振ったり、志郎に相手してもらったりはする。ただ、もう道場に通うのは、時間的に無理なんだよ」
「……はい」
「気にしてくれてたの?」
「はい」
「これは、私が選んだ道だから、…押しつけられた道じゃ無いから、ちゃんと歩いていきたいんだよ」
「はい」

『変わらないでいる強さ、変わって行ける強さ』
 私が言った言葉だと、荒川君は言っていた。
どんな時に言ったのか、今では思い出せない。
でも、智子は今、”変わって行く”という事を実感している。
そして、”変わらないで居たい”とも願っているのだろう。

「智子」
「ん、なに?」
「ありがとうございます」
「え? なにが?」
「何となくです」
「え? ちょっと、なに? 今、何かあった?」
 突然慌てて、智子が身を起こす。
「何でもないですよ」
 私は小さく笑って応え、小雪の布団に、軽くもたれ掛かった。

  ……つづく。


第二十二話/第二十四話