フリーマンの随想

その29. 日本的症候群(続)

* しりとり風に随想をつなげています *

(2. 28, 2000 + 7. 5, 2000 )


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[ その5 ]独立忌避症候群 (2. 28, 2000)

基本的な 「 キマリ 」 が安易に社会から消えて行くという日本の現状は他にもある。 いつの頃からか、娘や息子たちが、大学を出て就職しても生家から出て行かず、 親と同居しているのが異常でなくなってきてしまった。 同居しているだけでなく、 食事も親に作ってもらい、なかには、掃除や洗濯までしてもらっている者もいるという。 それでいて、親に対してはホンの気持だけの生活費しか、払わないのだそうだ。

昔は住宅事情も悪く、子供の数も多かったから、育った順に一日も早く家から出ていってくれないと、 家が溢れてしまったのだが、なまじ家が広くなり、子供の数が一人か二人に減り、 親の収入が増えたことが、上記の現象を加速しているのだろう。 「 住宅事情が悪いから仕方なく親の家に住んでいるのだ 」 というのは真相ではないのではないか。本当に悪ければ下記の私の場合のように、 成人した子供のための居住空間などなくなり、親もとを出て行くしかないはずだ。

このような境遇の息子や娘たちは、収入の大半を自分のために使えるから、車だ、ブランド物だ、 海外旅行だ、エステだと、贅沢に走り、 日本のみならず世界の経済の活性化に貢献していることは認めないといけない。

親は親で、妻は小子化のため子育ては早く終るし、夫はチットも家に帰ってこないから、 子供でも家に居てくれないと女は母性本能の発揮し場所がない。 そこで子離れ出来ず 「 いつまでもここに居ていいよ 」 ということになり、子供たちの甘えを煽る結果になってしまう。

何のかんのといっても、親たちも豊かになったから、 とっくに成人した子供を追い出しもせずに飼っている余裕があるのだ。

飛べるようになった雛鳥を励ましながら巣から蹴落とす鷲の親鳥こそ 「 あるべき姿 」 であるのに、 日本の親たちはパートをしてまで25歳になっても、30歳になっても、餌を与え続けているから、 子供たちはいつまでたっても精神的には雛のままである。

「 フランスでは従来、子供が大学生になると奨学金を貰いアルバイトで自活、 親は養育費の重荷から解放されて少しリッチな生活を送るのが普通だった 」( 12年1月26日毎日 ) と、 最近新聞で読んだ。 米国でも似通った状況が一部にはあるようだった。
もっとも、日本は奨学金があまりに少なく、大学生はあまりに多い。 1971年に出張で英国に行った時、この国では 「 20歳になると男も女も家を出( され )て 独立生活を始める。例外は宮殿に住む女王様の子供たちくらいなものだ 」 と聞いた。 そうなら日本は国中が殿下と妃殿下ばかりということだ。
もっとも、日本だけがおかしいのかと思っていたら、 イタリアでも最近、日本と同じ現象が出てきているのだと、その後TVで知った

私自身は、貧しい高校教師の5人の子供の長男だったので、大学を出ると直ちに、 食い扶持を減らす ( これはもう死語か ) ために、出来るだけ給料のよさそうな会社に入り、 粗末な独身寮に移り住んで翌月から親に送金を始めた。 結婚し子供が出来てもこれを続け、妻も快く協力してくれた。 私の一番下の弟の大学時代のお小遣いは、私の送金で賄われたのだと、後に母から聞いた。

私の子供たちも、大学生時代は自宅から遠いので一人で下宿し、親から離れた。 これで最低限の身の回りの始末は学んだはずだ。 息子は24歳で就職し、娘も24歳で結婚して以降は、それぞれ独立して住み、 苦しい事も幾多あったとは思うが、私から1円の援助も受けずに今まで生活している。

娘は手許に置いておけば 「 変な虫が付かない 」 と思っている母親も有るらしいが、 今どき、親許に居たって子供は親にわからないように何だって出来るし、するのである。 20歳にも25歳にもなった男女は、どうせ親の気に入るようなことばかりする訳も無いのだから、 彼等の考えた道を認め、やらせてあげ、その代わり 一人で住ませ 「 結果はすべて自己責任だよ 」 と釘をさすほうが、しっかりした人間に成長し、幸せな人生になるように思われる。 心を鬼にしてでも彼等を家から追い出すことこそ肝要ではないだろうか。 最近起きた恐ろしい いくつかの犯罪の犯人たちは、成人しているのに、 仕事もせずに母親に寄生して生活していたというではないか。 ( 「 小人閑居して不善を為す 」 という古えの賢人の言葉は、改めて証明された )

親の手許に住んでいると、男も女も初歩的な炊事・掃除・洗濯すら覚えないばかりか、 結婚すると生活レベルが下がるなどと言って、デートは楽しんでも、同棲や結婚は躊躇する。 もし一人で苦しい生活をしていれば、二人一緒に住めば互いに少しは楽になるだろうと考え、 そうなる。 これが欧米諸国では当り前の人生の筋書きである。 そして、育ちや性格の違う二人が一緒に住むと、 そこで起きる種々の葛藤を乗り越えながら、人はまた更にオトナになってゆくのである。

日本ではこういう、当り前のプロセスが当り前に起こらなくなってきているのがおかしいと考え、 今年の正月に20歳台の5人の甥や姪たちに 「 経済的に苦しくても生活を独立させなさい。 それでこそ一人前のオトナだ 」 と30分ほど説いてみたら、それも刺激になったらしく、 早速、そのうちの男女各1人が親許から出て一人で住み始めた。 さてどうなるだろうかと期待しているところだ。 やはりおとなは言うべき事は言ってみるものだ。

[ その6 ]成人化拒否症候群 (2. 28, 2000)

人間の精神というものは、実生活と密接不可分なものである。 実生活が自立・独立していないと、精神も自立・独立できないというのは、本当である。 そして、こういう精神が自立・独立しない人が増えると、 人間がいつまでも幼児的な状態でとどまっている事が許される社会になってしまう。 これが今の日本である。 「 社会に出るのが怖くて卒業できない 」 とか いい歳をして 「 自分が何の職業につきたいのか分からない (#) 」 などと言って、 宙ぶらりんの人生を送っている人間がこれだ。
( 脱線するが、最近職業安定所を訪れた知人が、 中高年ばかりでなく真剣な若い男女が多数訪れているのを見たと言う。 これはこれで別の、 至急解決すべき、重大な政治課題、社会問題である )

本論に戻る。 今、街角で通行人をランダムにピックアップし、マイクを差し出して、 どんな分野でもよいから、ある真面目なテーマについて意見を求めたとき、 非常に残念だが、おそらく日本人が、世界中で一番、答らしい答をしない、 あるいは出来ない人種だと、私は想像する。 「 ヤダァ、わかーんない 」 とアッケラカンと答える娘や 「 まあ、オホホ 」 と口を押さえて逃げ出すオバサンも多いと思う。 男はどうだろうか。

日本以外の国だったら、未熟な答だろうが、風変わりな意見だろうが、とにかく、 マジメに必死に自分独自の考えをひねり出し、述べ立てようと努める人が大半だろうと思う。 そうでないと、周囲から一人前の成人として認知されず、馬鹿にされるからだ。
日本人は、一般にシャイであることを割り引いても彼等より確かにこの点劣っている。 日本では、自分独自の考えを持たず、主張できず、ディベートできなくても、 人はオトナと認知され、生きて行けるのだ。 社会はそういうフヤケた人間を戒めないばかりか、時にはお世辞を言ったりさえする。 年齢的にはオトナになったのに精神的には子供のままでいても、チャンと食べて行けるほどに、 日本が経済的に豊かになってしまったことも、原因の一つだろう。

ところで、日本人全体が、社会的に、また精神的に一段と幼児的になったというのが、 8年の米国生活から帰ったときの私の最大の残念な発見の一つであった。 たとえば、突然話は変るが、最近の若い女性の独特の発声法について、 憂えている方はいないだろうか。 あの妙に鼻腔に反響させたような高い甘ったれ声の流行は、 彼女らが成人したくないと無意識に思っている願望の現われかなと、私は思う。

発声や発音というのは、未成年の間は、外国語や方言のように、 知らず知らずのうちに身に付いてしまうものだ。 つまり 「 感染 」 するものである。 子供の声が親のそれに似ているのは、 骨格や発声器官の特徴が遺伝的に似ているからだけでなく、 耳から入る親の声を幼児時代から無意識に真似し続けた結果でもあろうと私は考え、 友人の耳鼻科の医師に聞いてみたらご賛同を得た。

成人しても大人の声、オトナの発声に移行しない ( 出来ない ) というのは、 彼女らの精神がオトナになりたがっていないからではないだろうか。 NHKのアナウンサーにはさすがにまだいないが、若い女性タレントや一部の民放のアナには、 いい歳をしてあの妙な発声をする人たちが増えてきている。

最近、NHKのラジオで、ある若い女優がインタービューされているのを聞いていたら、 まさにこの発声で、さらに例の尻上がり言葉も併用されていて、 「 冗談じゃない。 仮にも女優と自称するなら、友人との会話ならともかく、 こういう場合には、模範的な美しい日本語をしゃべってくれ 」 と、実に苦々しい思いだった。 こういうのを聞いて子供たちが育つと、更に多くの感染者が出てきて、 日本中があの奇妙な鼻声で満ちるようになってしまったら、 さながら小学校に迷い込んだような気分になる事だろう。 ゾッとする。 今のうちになんとかして欲しいとは思うのだが・・・。
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(#) : 自分に合う職業が何かなんて、人間には一生 分からないのがむしろ普通ではないか。 私は今でも自分にとってそれがなんだったろうか、まったく分からない。 それに、仮に分かったって 男も女も大昔から 「 なりたいものになんかなれない 」 場合がほとんどだった。 なりたいものを見つけて懸命に努力する人の姿は尊いが、一方では、 合っているか合っていないか分からないが、とにかく 「 今日自分と家族が飢えない 」 ためにはそれを生業とし、頑張るしかないというのが、 人類始まって以来、世界の圧倒的大多数の人たちの人生だったのではないだろうか。

[ その7 ]知性軽視症候群 (7. 5, 2000)

皆さん、このごろ、電車の中で本を読んでいる若者がメッキリ少なくなったと思いませんか。 高校生も、つい5年くらい前までは、車内で参考書、教科書の類を読みふけっている人が 珍しくなかったと思います。
しかし今は、人前も顧みず、ほうけた表情で化粧に熱中しているか、 携帯電話を夢中でまさぐり続けているか、居眠りしているかです。 皆さん、この変化に気がついていらっしゃいますか ?

たまに本を読んでいる若者を見かけると、ホッと嬉しくなります。 もっとも、中年のおじさんたちだって、 スポーツ新聞かマンガ雑誌を読んでいる人がほとんどですから、 もう自分の子供たちの状況を不思議とか、困ったとか思わないのかもしれません。

こんな話をしても、もはや おとぎ話の世界でしょうが、 私が大学生だった昭和20年代の後半、ある教授が授業の冒頭、私たちに向って 「 最近、電車の中で文芸春秋や週刊朝日を読んでいる学生を見た。 なんとも嘆かわしい 」 という意味のことを言いました。 聞いた私も 「 まさか、そんな低級な奴居るはずが・・・ 」 と耳を疑ったものでした。

当時の文芸春秋は、現在のどの総合雑誌よりも硬い内容の月刊雑誌でしたし、 週刊朝日だって、今のAERAなどより10倍もお堅い内容だったと思います。 でも、これらは 「 世界 」 とか 「 中央公論 」 などとは一線を画す 「 低級な 」 娯楽雑誌で、せいぜい疲れた中年サラリーマンか一般の主婦が読むもの、 理想に燃える大学生には無縁なものと見なされていました。

当時、大学生が電車の中で読むなら、原書か専門書が普通で、せいぜい岩波の全書か新書が限度でした。 それが大学生のプライドと考えていました。 若くして夭折されたあの教授が、現在の週刊誌を手に取って見たり、 電車の中でマンガ雑誌を読みふけっている学生たちを見たりしたら、激怒のあまり卒倒するでしょう。 この私にしても、その後徐々に徐々に進んだ世の中の変化に順応して、 今では駅で週刊誌を買って電車の中で平然と読むのですから、 そういう変化は、もう良い悪いではなく、時代の流れの必然と言えるのかも知れません。

でも・・・です。 でも、今の状況はひどすぎます。 高校生なら、若者なら、 推理小説でもエロ小説でも良いから、毎日、本を読んで欲しいと思います。 そうしなければ、 まともな文章ひとつ書けない、他人の文章を読んでも意味が理解出来ない、 そして他人と論理的な議論の出来ない人間になってしまいます。 あるとき外国の青年と語り合ったら、必ずすごく恥ずかしい状況に陥ります。 いや、恥ずかしい状況に陥っている自分にすら気づけない人間になってしまいます。

「 男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任がある 」 というのはよく知られた言葉ですが、 女性だって若者だって同じ事です。 内容のある本をコツコツ読んでいれば、 誰でも知性の芽のようなものがおのずと顔つきに出てくるものです。

最近ある大学を訪れたビル・ゲイツ氏が、学生たちに囲まれている報道写真を見ました。 それを見た私の目は、彼よりはその学生たちの方に釘付けになりました。 彼らの目つきは、 畏敬や憧憬のまなざしとは全く違う、アイドル歌手に群がる中学生と全く変りないものでした。 口を半分開けて手を伸ばし、彼に触ろうと努めるその表情には、 失礼ながら、知性というものが全く感じられないと思いました。 ビル・ゲイツは、ごく特別な人間だとしても、 彼や彼の仲間は、大学生の頃、こんな 「 無・知性的 」 な表情や動作はしていなかったことでしょう。

今の日本にだって、街でも地方でも、知性を感じさせる風貌の青年たちを、 しばしば見かけます。 そういう人たちと、この写真に象徴される学生たちとの違いは何なのだろうと、考え込みます。

今日も、ある新聞の全面広告を見て、私は考え込んでしまいました。 それは、 肌を露出しドギツく化粧した10人以上の10代の少女たちの集合写真です。 しかし、 彼女らの表情には、若者のひたむきなまなざし、知性などというものが全く感じられません。 おそらく、彼女らはカメラマンの指示でこういうスタイルにされ、、 幼い愛想笑いをしながら、何かを叫ぶようにでも求められていたのでしょう。

本当は知性のある人たちも彼女らの中に居るのでしょう。 一番悪いのは、こういう広告を企画し、作り、流行らせ、売る、 広告やマスコミ業界の中年の人たちかも知れません。 この広告を見た若い少女たちはどう受け取るでしょうか。 こういう表情や、 それに象徴される幼い無・知性的な外見、表情、動作を 「 かっこいい 」 と考え、 真似するのではないでしょうか。 こうして、これらの業界の ( 一部の ) 人たちは、 この日本からはますます 「 知性 」 を遠ざけて行くのでしょう。

妻から聞いた話ですが、先日TVで、石原都知事が、 以前、中国の某高官に 「 日本なんて国はあと10年くらいで無くなる 」 と言われたと述べたそうです。 この高官が日本のどこを見てそう言ったのか、知りませんが、 若者のまなざしに知性や覇気や情熱が無くなった時、国は滅びると思います。 日本は、もうこのまま崩壊する一途なのかとも思えてくる今日この頃です。 「 滅び行くものは美しい 」と言ったのは誰でしたっけ。 今の日本は決して美しいとは思えないけれど・・・。

( その8 ) 以降は です。


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