フリーマンの随想

その24. 日本的症候群

* しりとり風に随想をつなげます *

(12. 3. 1999)
(12.28. 1999 一部訂正と追加)


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[ その1 ]アメリカ化症候群

1.道路を歩きながら物を食べる人が珍しくない
2.教室でもオフィスでも缶やボトル入り飲料を持ちあるいて飲む
3.若者が車のステレオを大音響で鳴らしながら走る
4.若い女が恥ずかし気もなく、へそを出して街を歩く
5.ピアスを男までがつけ、挙げ句の果ては耳たぶだけでなく体中に穴をあけ、ぶらさげまくる
6.小中学生までが化粧をして学校に行く
7.子供たちが親と一緒に食事をしない
8.学校を中退する中・高校生徒が少なくない
9.学生の学力が低下している
10.親が子供を虐待する事が珍しくない
11.ティーンエージャーの素行不良を親が見て見ぬふりする
12.離婚がちっとも珍しいことではない
13.市街でも山野でもポイポイとゴミが捨てられている

もう、この国の現状にはびっくりするばかりだ・・・。

と、ここまで書くと、読者の中には、 私が今の日本の状況を嘆いていると思われた方が多いのではないだろうか。

実はそうではない。11年前、私が米国に移住したとき、 あの保守的で治安の良い静かな田舎町でも、既にこれらが当り前の現象となっていたのだった。 よその国の事だから、私はこれらを知識として学ぶ事に忙しく、別に批判はしなかったが、 とにかく驚いたものだった。

これらは20年前の日本には全くと言って良いほど存在せず、 10年前 ( 1980 年代後半 ) ですら、日本ではかなり珍しい現象だったように思う。 しかし、一部の方々が誤解されたようにこれらの状況は現在の日本そのものでもある

更に当時、米国の大都会に行くと、ダーティな警官が珍しくないとか、 ホームレスがあちこちにいるとか、麻薬がはびこっているとか、 当時の日本では殆ど見られなかった他の現象もあったが、これらさえ含めて、 すべてが、たった10年後の今の日本では 「 当り前 」 の現象になってしまった ( 一部はなりつつある ) のである。 10年前は 「 ひと昔前 」 どころか、 もはや遠い遠い昔なのだ !

米国社会の 「 悪い 」 ところは、必ずと言って良いほど、5年、10年後くらいに日本でも定着してくる。 だから、類推的に言えば、現在の米国で当り前の事は、たとえ今日本では珍しいことであっても、 2010年頃には珍しくなくなっているだろうと考えて、多分間違いない。 10年前、全米商工会議所の発表によると、米国では高校の中退率は既に全国平均で約30%であり、 まともに読み書きできず、初歩の算数も分からない高校卒業生も同じ程度いた。 日本もやがてそうなると考えた方が良いかもしれない。

きわめて残念な事だが、米国の数少ない優れている点は、どういうわけか、 昔も今も、日本ではちっとも真似されないのである。 日本人は、なぜかアメリカの 「 悪い 」 ところだけを、熱心に、急速に真似し、取り入れ続けているのだ。 正確に言えば、 欧州やアジアの国々でも、さらには中国や旧共産圏でさえも多かれ少なかれ まったく同様なのではあるが・・・。
アメリカの文化はその 「 悪い 」 ところも含め、常に世界中に蔓延して行く。 そこにはきっと何か真似したくなるような魅力があるのだろう (&) というのが、 妻の意見であるが、もひとつ私にはピンと来ない。

私たちが夜間、街を安心して歩けるのは、いつまでのことなのだろうか。

(&):「 コカコーラやペプシ、マクドナルド、リーヴァイスのジーンズなどを引っさげて、 自分たちの行くところ、どの国の文化や伝統もひっくり返してしまうアメリカは、 世界中のどの国より 「 革命的社会 」 である(ロナルド・スティール)」 というなら、 上記の13項目もまた、必然の文化革命なのであろうか。

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[ その2 ]危機管理音痴症候群

最初にお断りしておくが、私は日本が今まで、夜の裏街を若い女性が一人で歩けるほどに、 本当に世界でも類い稀な安全な国だった事を、とても幸せな事だと考えている。 そこで生まれ、育った私たちが、危機管理音痴になってしまうのはむしろ当然であり、 私たちが愚かなわけでも、間違っているわけでもないと思う。
でも・・・「 でも 」 である。 でも、今後の私たちは、 悲しい事だけれども、世界の常識とされている所の方向に向って、 実態の変化に合わせて考えと行動を変えて行かなくてはならないのではないだろうか。

日本人がリスク対策に弱いのは、生まれながらの特性ではなく
そう育てられるからだと思う。 調和を重んじる日本社会では、
万一のときに独りで判断し行動するというトレーニングがされ
ていない。だが、クライシスのときは集団は機能しないものだ。
ゲプハルト・ヒールシャー

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最近、キルギスで誘拐された日本人技術者が解放されるにあたり、 莫大な身代金が払われたとか払ってないとか、論じられているが、真偽のほどは今は分からない。 もし本当なら大変な話だ。 しかし、誘拐の10日ほど前に、 米国政府から日本の外務省に対して 「 あの地域には危険な動きが出てきたので入らないように 」 との警告の情報があったのに、外務省はそれを放置しておいたのだと言う新聞報道は、 これに劣らぬほど重大なことのように思われる。 これも事の真相は分からないが、日本人だけが揃いも揃って群を抜いて 「 お人よしの危機管理音痴 」 である事はもう周知の事実で、 最も専門家であるべき外務省の在ペルー大使館の人質事件などが、その典型的な証左であろう。

日本人は、危機管理の意識と予防・対応の行動が、他国の人たちと際立って違っている。 先日、この随想の(その22)の最後の部分に、 日本人旅行者ばかりが外国で狙われ被害に遭うのを防ぐための注意を書かせていただいた。 危機管理については ( 喜ぶべきか悲しむべきか分からないが ) 米国の実状を参考にするのも悪い事ではないと思うので、以下にそれを書いてみたい。

* 留守番電話の応答の言葉

今、日本では、どこの家でも留守番電話に 「ただいま留守にしております(以下略)」 というメッセージを入れている。 しかし、米国では " We are unable to take your call right now. (以下略)" である。「 ただいま電話に出られません (以下略)」という、 在宅か留守かが分からない言い方である。 他人に 「 今留守にしています 」 と知らせる事は 「 どうぞ空き巣に入ってください 」 ということと殆ど同義語だと考えるのが危機管理の第一歩である。 私の自宅のメッセージは3年前から後者にしているが、 日本中がそのうちに後者に変って行く事であろう。

* 夜間留守中の点灯

旅行中は1週間だろうが2週間だろうが、家の中の電灯をいくつか、 つけっぱなしにして行きなさいと米国では教えられ、それを守っていた。 ある家が、毎晩真っ暗だったら、通行人の誰にでも「 この家の人は 旅行中だな 」と分かる。「 どうぞ空き巣に入ってください 」と言うようなものだ。 その習慣がついてしまった私たち夫婦は、帰国後最初の旅行に出たとき、両隣に 「 いついつまで旅行に行ってきます 」 とだけ伝え、小さな蛍光灯を3つほど、 わざとつけっぱなしにして出かけた。 所が、隣人たちは、 留守の筈の家に夜間電灯がついていたので、大層心配されたらしく、帰宅後おおいに恐縮した。 その後は「 電灯がついていますがご心配なく 」と申し添えている。 日本では点灯は今のところ必要のないことかも知れないが、近い将来きっと必要になると思うので、 この習慣は止めないつもりだ。

確かに電力資源の無駄使いではあるが、米国では工場でもオフィスでも、夜間はすべて煌々と 室内も廊下も点灯している。 まっ暗な廊下を懐中電灯を持ったガードマンが巡回するなどという ドラマのシーンは日本特有である ( 嘘だと思ったら今度外国映画を見るとき注意してみてください )。 米国では怖くて夜間無人の暗いオフィスなど歩けない。 明るくしておけば侵入者を室内からは勿論、屋外からでも窓越しに発見できる。 空き巣の被害にくらべれば電気代は安い保険料であると考えるのだ。

* 保険

保険料と言えば、盗られて困るような高価な品が有れば、盗難保険を掛けるのが常識で、 空き巣の被害を調べに来た警官に、保険に入っていませんなどと言ったら呆れられるだろう。 妻はニューヨークでハンドバッグを置き引きされて$700以上の被害に遭ったが、 その大半は保険で償われた ( しかし 私は日本に帰ってからまた盗難保険を止めてしまった・・・)。
この在米中の盗難保険を含む保険パッケージには、さらに、 例えば私の家の客間の床がワックスの付けすぎで滑りやすかったために、来客が滑って負傷し、 私を訴えたときのための費用などというのも含まれていた。 「 なんというくだらない訴訟社会だ 」 と違和感を覚え、馬鹿にする事も出来るが、 あらゆる危機の可能性に対し完璧に事前の対策を取っておこうという意志の現われと考える事も出来る。

* 解雇したら仕返しを未然に防ぐ

私のいた会社で、コンピューター部門の責任者に、業務上収賄の疑いを問いただしたら、 否認しなかったので、私は即座に彼を解雇すると決めた。 その時、彼は一旦 自分のオフィスに戻ることすら許されず解雇の申し渡しと同時に、 人事部長が彼を屋外に連れ出し、家に帰した。 その後、 机の中身は人事部により私物と会社の所有物に分別され、私物は翌日彼の自宅に郵送された。

解雇と同時に会社のコンピューターのパスワードなどは すべて変更され、彼が会社を恨んで万一その気になっても 社外からアクセスして破壊工作出来ないように対策された。 彼のカードキーは他の解雇者の場合同様、解雇と同時に無効にされ、 彼が建物に二度と入れないようになった事は言うまでもない。 日本なら、おそらく解雇申し渡しの後も彼は何回かは自室に入れたろうし、 その気になれば破壊工作を施して行くことは可能だったはずだ。

11月28日の新聞に、8月に依願退職したある会社の管理部長が、 在職時代に持っていた会社の銀行カードを翌月使って、会社の口座から金を引き下ろし、 私事に費していた事が露見して逮捕されたと報じられていた。 何故、彼が退職の際、カードを持ち出せたのか、 何故、退職と同時に彼の持っているカードを無効化しなかったのか、などと考えると、 米国なら 「 会社の管理がなっていない 」 と株主から会社が非難されるべき事件である。 しかし現在の日本の通念からは 「 この男は怪しからん 」 という考えしか出てこないであろう。

* 貴金属宝石店の防衛体制

どこの国でも珍しくない犯罪だが、日本だけが変っているところは、店の防備が極めてお粗末で、 不良外人から見れば、窃盗や強盗は赤子の手をひねるほど易しい( ようだ ) と言う点である。 米国の大都会の店では昼夜を分かたぬ拳銃携帯ガードマンすら珍しくないし、 赤外線による警報装置などもたくさん張り巡らされている。 建物の構造や夜間のよろい戸の厳重さは日本の店とは比較にならない。 日本では、田舎町の時計屋さんくらいなら私だって侵入に成功するのではと思えるほど無防備だ。 1軒の店が2度も続けて泥棒に入られたなどという報道を聞くと、入られる方が悪いとさえ思える。 「 外人客はお断り 」 と貼り出して 「 人種差別だ 」 と訴えられ負けるに至っては、 とんでもない見当違いな対応と言わざるを得ない。

* 銀行は 「 潰れることもある 」

私が移住する前年の1987年の1年間で、米国では小さい部類に属するその州で、 実に40以上もの銀行が倒産している。 私が会社の取引銀行を選定するに当たり、 本社の社長から、信用調査を厳格にやるようにとの指示が有り、 米国の銀行年鑑と首っ引きでしらべたときの記憶である。 そのとき苦心の結果選んだ銀行は、現在も経営の健全度は米国のトップ10に入っていると言う。 勿論、私の個人口座もここに設定した。

当時、いろいろな地元銀行から私に接触が有ったが、日本と違い、 各銀行は十人十色、百人百様の特色を売り物にしていた ( 冷蔵庫や乗用車と同じで、これが世界の常識 )。 たとえば、預金利子が高い銀行は一般に経営が脆弱だった。 つまり預金者にとってハイリスク・ハイリターンだった。
そういう特徴を見抜き、理解した上で銀行を選定する事は、一人一人の顧客の責任である。 これも冷蔵庫や乗用車を顧客が選定するときと同じことである。 自分の選定眼が悪くて不満足な性能の商品を選んでしまったら、それはメーカーの責任ではなく、 買い手の自己責任であるのと同様、銀行選びも自己責任というのが、 これからの常識である。
「 おかみ 」 が守ってくれるペイ・オフは、たしか、 日本が再来年から予定しているという額とほぼ同じ、$10万だった。 「 金は銀行に預ければ絶対安全 」 と考えるのが日本人で、 「 金を銀行 ( すなわち他人 ) に預けたら必ず危険が伴う 」 と考えるのが、他の国の人たちである。 これからの日本人との日本の銀行との関係は、変って行かざるを得ないだろう。

[ その3 ]横並び症候群

* 銀行の話が出たが、従来の日本の銀行や保険会社が、他の日本の企業と根本的に違う点は、 「 同業者と競争しない 」 という事だったと思う。 セールス競争はしたかも知れないが、 他社に先駆けて違いや特色のある商品を開発・販売し、他社を圧倒することで勝ち残ろうという、 どの他業種でも当り前とされる競争が、彼等には従来あまり ( ほとんど? 全く? ) 無かったということである。

銀行預金の利子にしても、自動車の任意保険の料金にしても、ついこの間までは どの会社も全く同じで、顧客が何を基準に会社を選択するかと言えば 「 知人に勧められたから 」 とか 「 親戚が勤めているから 」 とか 「 歩いて行けるところに有るから 」 とかいう程度の理由に過ぎない。

こういう企業に就職して一生を送ったら 「 おかみ 」 のご指示とご認可に頼り切る横並びの発想以外は持てない、 特殊な人種が形成されるのではないだろうか。 今、鎖国の泰平の夢を破られて、 彼等が右往左往しているのも無理からぬ事である。

* 私たち夫婦の良き友人である、アトランタに住むS子さんは、若い頃米人と結婚して渡米し、 今は同市の United Way でアートディレクターとして働いている。 United Way というのは、 日本の「赤い羽根共同募金」に似ているが、もっと大規模で、 かつ身近な米国最大の慈善募金団体である。

彼女は日本人なので、本職以外に、年1回のキャンペーンで、 地元日系企業に対する寄付勧誘にも狩り出される。 その時、日系企業の責任者は、必ずといいって良いほど まず 「 他の企業はどうですか 」 と尋ねるのだそうだ。 その心は 「 他企業が皆やるのなら、ウチもやらないと格好が悪い。 でも、他企業がどこもやらないのにウチだけやるのは、出過ぎたことのようで、やりたくない 」 という事らしい。

すると、一緒に行った米人担当者は 「 他の企業の事ではなく、貴社が、 いや貴社の責任者である貴方がどうお考えかを伺いに参ったのです 」 と言うそうで、 この辺の食い違いが、面白くもあり悲しくもあるとの事であった。
最後は「 よく日本の本社とも相談しまして・・・ 」 という事になり、後はうやむやになって、 結局日系企業からの協力は毎年、米国企業や欧州系企業にくらべ非常に少ないそうだ。 米国ではこういう面での社会への貢献の多少が、 その企業の地元からの評価に大きく影響するということを知らない日系企業が少なくないという事である。

* 日本では普通 「 あまり他人様と変った事をするのではないよ 」 と親が子供を教育する。 教師も他の生徒と変った事ばかり考えたりしたりする子を 「 良い子 」 とは見なさない事が多い。 周囲の生徒も、たとえ良い事でも自分たちと変った事を言ったりしたりする子は無視し、 仲間外れにし、いじめる。

だから、どこの女子高生も同じ長さのミニを着て、白いルーズソックスを穿き、 申し合わせたようにポロのベストを身に着け、バーバリー模様のマフラーを首に巻く。 あんなに制服の強制を嫌がっていたくせに、自分たちで 「 制服 」 を作ってお互いを縛りあっているのである。 縛りあう事で連帯感を感じ、横並びの安心感に浸るのである。

* 日本に帰ってきて気づいたのは、乗用車がどれもこれも良く似た色とデザインばかりだ ということだった。 最近も岡崎宏司氏が 「 欲しいと思わせるには、デザインをはじめ、 他にない突出したなにかが必要だが、多くの日本車にはそれがない。 ( 中略 ) 日本車のほとんどは、ライバルたちとほんのちょっとだけしか違わない 」 とある新聞に書いていたから、専門家から見ても同様なのだ。

しかし、私は彼と違って、ライバルたちとほんのちょっとだけしか違わない車だから、 多くの一般の日本人が安心して買うのだと思う。 隣がRVにしたから私もRV。 ご近所が皆白い車だからうちも白い車。 親友がトヨタだから私もトヨタ・・・。 そうなのだ。 「 ご近所や知人から突出しない 」 横並びこそが安心感につながるのだ。 だからメーカーもそういう日本人に合わせた車ばかり作るのではないだろうか。 欧米の人たちなら 「 たとえ好きでも、ご近所に同じ色の同じ車種の車を持つ人がいるなんて、 死んでもいやだ。 なにか変った珍しい車はないか 」 と探すのではないだろうか。

ごく最近の石原都知事の大銀行に対する外形標準課税の提案に対しても、早速 「 全国一律なら 」 とか 「 すべての業種になら 」 とかいう議論が、政府内や経団連から出てくる。 横並びなら我慢するが、違いがあっては困るという訳だ。 だが、本当に 「 違いは悪、横並びは善 」 なのだろうか。 他県の知事たちも 「 東京が課税するとこちらの取り分が減る 」 とか言っているが、なぜ 「 東京が銀行から取るなら、うちは別の所から取る 」 とか 「 東京がやるならうちはやらない 」 とか言わないのだろうか。 本当は自分もやりたかったくせに、自分からは言い出さず、他人が言い出すと 「 それならうちも 」 と真似しているようにも思える。 米国の州は日本の県とは性格が違うから、単純に例に引くのはいけないかも知れないが、 消費税の%は州ごとに大きく違うし、中には所得税ゼロというフロリダのような州もある。 そういう違いが各州の個性でもあり、各州の過去の政治経済の努力の優劣の結果でもあり、 今後の相互の競争の源でもある。 美濃部都知事が、以前、 東京都民にだけの 「 福祉 」 をやったのだって、 個性の発揮という点でなら評価できると思う。 ( このパラグラフのみ 2.29.2000 )

* こういう 「 1億総横並びの国 」 で育った人たちから、独創的な研究や技術が出にくいのも、 無理のない話ではないだろうか。

[ その4 ]「 柔軟過ぎ 」 症候群 ( 12. 28. 1999)

技術と言えば、最近、JOCの臨界事故、H2ロケットの度重なる失敗、 新幹線のトンネル壁崩落その他、「 技術大国日本 」 の名が泣くような事件が多い。

私には、あのJOCの恐ろしい事故は、日本 ( 人 ) 特有のとまでは言わないが、 ある意味で大変日本的な事故という気がしてならない。 現役時代私は、 日本の大きな工場の工場長と、米国工場の社長の両方の経験が有るが、 従業員が規定とか決まりとかを実施して行く場合に、 両者にははっきりとした違いがあったように思う。

日本人は良く言えば従順で柔軟、悪く言えば 「 いい加減 」 だと思う。 実際の例ではないが、たとえば日本の工場では 「 この職場でも作業中は帽子をかぶる事に決まったから明日からかぶるように 」 と言って支給すれば、多分ほとんどの場合 「 ハイ 」と言って皆がかぶってくれる。

これに対し米国の工場だったら 「 今までかぶっていなかったのに何故明日から必要なのか 」 と必ず質問が出て、これをかぶらないと毛髪が落下してこういう故障が起きるとか、 証拠を示して理屈の通った説明をしない限り拒否される。 強行したら大騒動になるだろう。 在任中、正直な話 「 うるさい奴等だ 」 と思った事もある。

そのかわり、一旦理屈を納得したら彼等は愚直という感じで日本人よりは厳格に守る。 また注意しても3回続けて守らない者がいたら、その場でクビにして問題にならないだろう。 一方、日本では、うるさい事を言わずに承知してくれるかわりに、その内に 「 今日は暑いから 」 とか言ってかぶらない人が必ず出てくる。 そして3回続けてかぶらなかったくらいでクビにしたら 「 ひどい会社だ 」 と大変な騒動になることだろう。

JOCの裏マニュアルの存在、更にはその裏マニュアルにすら違反した気ままな作業を見ると、 日本的な弱点が象徴的に表れていると思う。 仮に誰かが 「 面倒でもマニュアル通りやろう 」 などと抵抗したら 「 何を堅い事を 」と一蹴されたことだろう。 「 何故、マニュアルはその面倒な作業を規定しているのですか 」 と毎度しつこく質問したら、 必ず 「 うるさい嫌な奴だ 」 と睨まれたことだろう。 彼等は何故そうしなければならないかの理屈を知ろうとせず、教えられもしなかったから、 無邪気に平気であの怖い作業を勝手に一番ラクそうな方式に変えてしまえたのだろう。

こう考えてくると、今まで日本人の長所と我々が考えていた素直さ、柔軟さ、自主性、創意工夫などが、 実は非常な危険を内蔵していることがわかる。 ある意味で非情な契約社会に生きる米国人は、 上記のような 「 決まり 」 を、会社との 「 契約 」 だと考えるのに対し、 日本人はいちいちそんなに重大には考えはしない。 だから 「 面倒だ 」 という理由くらいですぐに保護手袋を外して作業しては怪我をする。 手袋の着用を厳粛な 「 契約 」 だとは思っていないから、自分の意志で取り消せるのだ。

半年ほど前に 唐津 一氏が毎日新聞紙上で 「 日本のTQC活動は従業員の自主性を尊重する性善説に基いているのに対し、 ISOの制度は、従業員というものは規定で縛っておかないと、 すぐに変な事をするという欧米流の性悪説を前提にしている 」 という趣旨の事を述べておられたが、 JOCの事故に対して、氏はどう説明されるのか、伺いたいと思う。

小集団で自主的に勉強し、協力し合って安全確実なマニュアルを作りあげ、 それを全員の相互助言で自主的に遵守して行くという理想の形だけに頼ってはゆけないのが 残念ながら現実の社会なのではないだろうか。
[ その5 ]以降は 後編をご覧下さい

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